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我が愛しのアスリート図鑑コミュのG・ブッフォン(サッカー)

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ジャンルイジ・ブッフォン(Gianluigi Buffon、1978年1月28日 - )は、イタリア・カッラーラ出身の同国代表、セリエA・ユヴェントス所属のサッカー選手。ポジションはGK。

日本においてはブフォンと表記されることもある[1]。愛称ジジ(Gigi)。

高い身体能力と正確な判断力を併せ持ったユヴェントスとイタリア代表の守護神。もちろんキャッチング、飛び出しのタイミング、ハイボールの処理、精神力、どれをとっても超一流であり、脈々と受け継がれているイタリア代表の名GKの系譜に名を刻む選手である。

やや身体が硬く、コーディネーションの能力が不足しているものの、学習能力が高く、一度ミスしたプレーは二度と繰り返さない。また、心臓に毛が生えていると言われるほどプレッシャーに強く、どんな試合であっても高パフォーマンスを披露する。

他のGKに比べ足元の技術が高く、バックパスの処理・相手のロングボールへの処理にも定評がある。そのため、チームとしてDFラインを高く保つことも可能となっている。

唯一、PKストップだけは得意とは呼べない。苦手ではないが、世界一のGKと評される彼にしては物足りないというレベルである。しかしACミランVSユベントスのチャンピオンズリーグ決勝でのPK戦でのPKストップのように、そのPKストップレベルは世界レベルではある。

父(アドリアーノ)は砲丸投げ、母(マリア・ステラ・マソッコ)は円盤投げ、2人の姉(グエンダリーナ、ヴェロニカ)は共にバレーボールのオリンピック選手、そして1962年ワールドカップ・チリ大会のイタリア代表正GKロレンツォ・ブッフォンを親戚(祖父の従兄弟)に持つというスポーツ一家に生まれた。

幼少時は「よく点を決めていた」と本人が言うように、トスカーナ州選抜に選出されたり、1988-1989シーズン、スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァで行われたインテル対エラス・ヴェローナの前座試合に出場するなどフォワードや右サイドアタッカー(少年時代の憧れの選手はローター・マテウス)として活躍。

しかし、12才のとき「とりあえず1年間だけGKをやってみよう」とGKに挑戦。その年(1990年)に開催された1990 FIFAワールドカップのカメルーン代表GK、トーマス・ヌコノのプレーに感化されGKへ転向した。

2007年12月、長男が誕生し憧れのプレーヤー「トーマス・ヌコノ」から名前を取って「ルイス・トーマス」と名づけている。

1991年
ACパルマのエルメス・フルゴーニGK育成コーチ兼スカウトに見いだされ、同チームの下部組織に入団。
1995-1996シーズン
下部組織入団からわずか4年でネビオ・スカラ監督によってACパルマのトップチームに昇格。その時ブッフォンはまだ17才だった。1995年11月19日、ファビオ・カペッロ監督率いるACミラン戦でセリエAデビュー(17歳9ヶ月)。その試合でこの年のバロンドールを受賞するジョージ・ウェアの至近距離からのシュートを顔面でセーブするなどスーパーセーブを連発し、0-0の引き分けに貢献した。結局、このシーズンは9試合に出場した。
1996-1997シーズン
正GKとしての地位を確固たる物とし、のちにユヴェントスで再びチームメイトとなる、リリアン・テュラム、ファビオ・カンナヴァーロと共に強固な守備陣を形成。チームはセリエA2位という躍進を果たす。
1998-1999シーズン
堅守を武器にチームはコッパ・イタリア優勝、UEFAカップ優勝、イタリア・スーパーカップ優勝という快挙を成し遂げる。
2000-2001シーズン
キャリア初となるセリエA全試合出場を果たし、2001年7月、ACパルマでプレーした5年間でセリエA168試合出場159失点(1試合平均0.94失点)という実績を引っ提げ、GKとしては史上最高額の移籍金となる5230万ユーロ(約56億円・当時)でエドウィン・ファン・デル・サールの後釜を探していた、マルチェロ・リッピ監督(前イタリア代表監督)率いるユヴェントスに加入。当初はGKにこれほど多額の移籍金を支払ったユヴェントスに懐疑的な見方をする専門家が多かったが、「サッカーをよく理解していない者の戯言」とブッフォンは反論し、その年のスクデット獲得に大きな貢献をする。
2002-2003シーズン
昨シーズンに引き続きユヴェントスはセリエAを優勝。UEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝2nd legのレアル・マドリード戦でルイス・フィーゴのPKを止めるなど大活躍し、決勝に進出。しかし、オールド・トラフォードで行われたACミランとの決勝戦でPK戦の末、敗れてしまう。なお、このシーズンはUEFAチャンピオンズリーグのMVP(GKとしては史上唯一)と最優秀GKに選出されている。
2004年
3月にFIFAが100周年を迎えるにあたって、元ブラジル代表ペレ氏が選出したFIFA 100(偉大なサッカー選手125人)に選出される。
2005-2006シーズン
8月14日に行われたACミランとの親善試合でカカと激突し、右肩を脱臼。長期の戦線離脱を余儀なくされ、ユヴェントスはその代役としてクリスティアン・アッビアーティをACミランから獲得。一旦、同年12月1日のコッパ・イタリア、フィオレンティーナ戦で復帰するが、ファビオ・カペッロ監督のまだ十分に回復していないとの判断により、その後の試合には出場せず。1月15日のレッジーナ戦で再度復帰。以降は正GKの座を奪還した。
2006年6月-7月
カルチョ・スキャンダルでイタリアサッカー界が揺れる中、ブッフォン自身にも違法なサッカー賭博に関与したのではないかとの容疑が掛かり、パルマ地検とトリノ地検から事情聴取を受ける(後に無実であることが判明)。
2006年8月
所属チームであるユヴェントスの八百長行為によりチームがセリエBへ降格することが決定し、ファビオ・カンナヴァーロやジャンルカ・ザンブロッタなど多くのチームメイトが移籍していく中、アレッサンドロ・デル・ピエーロやパベル・ネドベドらと同じくユヴェントスに残留する意向であることを代理人を通じてラジオで発表した。
2006年11月
2006 FIFAワールドカップでの活躍によりバロンドール受賞が噂されたが、投票の結果2位に終わり、イタリア代表のチームメイトであるファビオ・カンナヴァーロにその栄誉を譲った。
2006-2007シーズン
ブッフォンはチーム最多となる38試合に出場し、ユヴェントスをセリエB優勝に導いた。シーズン中からUEFAチャンピオンズリーグ出場のため、他チームへ移籍するのではないかと噂されたが、シーズン終了後にユヴェントスとの契約を2012年まで延長した。
2007-2008シーズン
2008年3月にユヴェントスとの契約を2013年まで延長した。

代表デビュー
1997年10月29日にモスクワで行われた1998 FIFAワールドカップ欧州予選プレーオフ・ロシア戦の第1戦(ジャンルカ・パリュウカの負傷による途中出場)。ちなみに18歳11ヶ月での代表デビューはイタリア代表のGK史上2番目の若さ。
1998 FIFAワールドカップ
20才の若さで最終メンバーに選出されるも、出場機会はなし。チームは準々決勝でフランスに敗れる。
EURO2000
大会直前に左手を故障し、メンバーに選出されず。
2002 FIFAワールドカップ
正GKとしてプレーするも、ベスト16で韓国に敗退。
EURO2004
3試合2失点(うちPKで1失点)と奮闘したもののグループリーグ敗退。
2006 FIFAワールドカップ
自身のサッカー賭博疑惑による試合への影響が心配されたが、驚異的なセービングを連発。大会7試合を通じて2点しかゴールを許さず(1点はクリスティアン・ザッカルドのオウンゴール、1点はジネディーヌ・ジダンのPK、いわば2点とも特殊な形の失点であり、試合の流れの中でゴールを割られることはなかった。また、ファビオ・カンナバーロも素晴らしい活躍を見せ、後にバロンドールを二人で争うこととなる。)、さらに、W杯史上4番目の長さとなる460分連続無失点という記録を達成し、イタリアを優勝に導き、最優秀ゴールキーパーとしてレフ・ヤシン賞を受賞。


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