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我が愛しのアスリート図鑑コミュのN・ピケ(F1)

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ネルソン・ピケ・ソウト・マイオール(Nelson Piquet Souto Maior、1952年8月17日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ生まれの元F1ドライバーであり、F1世界選手権で1981年・1983年・1987年と、3度のドライバーズチャンピオンに輝いた。

ピケとは母方の姓であり、父親に隠れてレース活動をするために名乗ったものである。日本では1980年代初頭まで、英語読みの「ピケット」と表記されていた。

父親エスターシオ・ソウト・マイオール[1]は政治家で、ジョアン・ゴウラール政権下(1961年〜1964年)において保健相を務めた人物である。そのため、1960年のブラジリア遷都に前後して、一家は新首都ブラジリアに移り住んだ。

14歳の頃にカートを始めたが、息子がモータースポーツをすることを望まなかった父親に隠れて活動できるよう母親の旧姓(Piquet)を「Piket」と故意に誤って綴り、初期のレース活動はこの名でエントリーをした。

息子をプロテニス選手にしようと考えていた父親により、高校時代になると米国のアトランタにテニス留学をさせられ、ピケはテニスにおいて適性を評価されたが、本人はテニスには関心がなく自動車レースへの情熱を持ち続けたため、結局モータースポーツに打ち込むこととなる。

1971年にはブラジルカート選手権においてチャンピオンとなり、翌年も連覇。1974年に父親を亡くすが、その後もレースを続け、1976年にジュニア・フォーミュラのフォーミュラ・Veeでチャンピオンとなる。

当時ブラジル人唯一のF1ワールドチャンピオンで、かつブラジルのフォーミュラ・Veeにおいて大きな影響力を持っていたエマーソン・フィッティパルディに目をかけられ、その助力もあって翌1977年はヨーロッパに活躍の舞台を移し、ヨーロッパF3選手権に参戦。初出場で、しかもシーズンフル参戦したわけではないにもかかわらず、ランキング3位に入るという結果を残した。

1978年ドイツGPでエンサインからデビューし、翌1979年よりニキ・ラウダのNo2ドライバーとして、ブラバムに移籍。終盤にはラウダが引退(1982年に復帰)した事を受け、エースドライバーに昇格。ブラバムの第2期黄金期を作り上げた。

その才能は1980年のアメリカ西GPでの初優勝で花開き、この年3勝を挙げてアラン・ジョーンズと最後までチャンピオンを争った。この年はランキング2位に終わるも、翌1981年には最終戦でカルロス・ロイテマンを逆転、初のチャンピオンに輝いた(3勝)。ブラジル人としては、エマーソン・フィッティパルディに次いで2人目のチャンピオンとなった。


ブラバムBT54(1985年)1982年はBMW開発のターボエンジンの完成度が低く、優勝はカナダGPの1勝のみ(ブラジルGPではトップでゴールしたものの最低重量違反で失格)。前戦のデトロイトGPでは予選落ちを喫する等、総合成績で僚友リカルド・パトレーゼより下の11位に終わった。しかし翌1983年は、マシンのフラットボトム化等のレギュレーションの変更にうまく対応したマシンを駆り、3勝を記録。ルノーのアラン・プロストを下して2度目の王座を獲得したが、この時も最終戦での逆転王座であった。

だが、1984年はマクラーレン・ポルシェがラウダとプロストのコンビでシーズンを圧巻。ピケは予選でこそ、当時のシーズン最多記録となる9度のPPを獲得したが、決勝では2勝に終わり、ランキング5位に留まった。又、翌1985年はシーズン1勝、ランキング8位と更に低迷した。
1986年、ウィリアムズに移籍。完全No1待遇の契約だったが、オーナーのフランク・ウィリアムズが交通事故で下半身不随になる混乱の中、イギリスのチームであるウィリアムズは、次第に同じくイギリス人のナイジェル・マンセルに急速に陶酔してゆく。一方、ウィリアムズにエンジンを供給するホンダは、燃費を考慮した走りができ、また正確なフィードバックを返すピケに肩入れしていく。


ウィリアムズFW11B・ホンダ(1987年)2人のドライバーはチームメイトにもかかわらず、お互いの情報を一切公開しようとはしなかった。元々ピケのウィリアムズ入りはホンダ側が強く望んだもので、ピケとの契約にあまり乗り気ではなかったウィリアムズ側を説得するため、ピケの年俸の一部をホンダが肩代わりしていたことなども影響し、チームはピケ派とマンセル派に事実上内部分裂してしまうことになる。これらの混乱により、この年はピケが4勝、マンセルが5勝を挙げてコンストラクターズ・チャンピオンシップでは1位になるものの、ドライバーズランキングではマクラーレンのプロストにチャンピオンを奪われる結果となってしまう(ピケは3位)。

翌1987年、勝つかリタイヤかという極端な成績だったマンセルに対し、ピケは勝てないレースでも確実にポイントを積み重ね、3度目/最後のチャンピオンに輝いた(シーズン3勝)。第2戦サンマリノGP予選における、タンブレロ・コーナーでのクラッシュの後遺症に、シーズンを通して悩まされ続けた中でのチャンピオン獲得だった。
1988年はマンセルに傾いているウィリアムズを離れ、ロータスに移籍。参戦2年目となる中嶋悟とコンビを組むことになった。ホンダエンジンを搭載するも戦闘力の低いマシン・100Tに苦戦を強いられ、最高位は3位、ランキングは6位に終わる。


ロータス100T・ホンダ(1988年)この頃、日本人ジャーナリストからの「中嶋は優勝できるか」との質問に対し、「月曜日にGPがあれば優勝できる」と回答をはぐらかした(月曜日にGPは開催されない)。しかしこの年、中嶋は予選、決勝共にしばしばピケを上回る走りを見せ、前年チャンピオンのピケを苛立たせる場面もあった。

翌1989年にはホンダエンジンを失い、非力なジャッドV8エンジンを搭載した101をドライブすることになったが、戦闘力が前年以上に落ちたこともあり、ランキングは8位と更に下降。第11戦ベルギーGPでは予選落ちを喫している。結局、2年間の在籍期間で1勝も挙げることは出来なかった。

1990年、ピケはベネトンに移籍する。ギャラを完全出来高制(1ポイント獲得につき10万ドル)にするという異例の契約の中、堅実に入賞を重ね存在をアピール。そして第15戦日本GPで、3年ぶりの優勝を遂げる。続く最終戦のオーストラリアGPでも優勝し、2連勝でシーズンをしめくくった。


ベネトンB191・フォード(1991年)翌1991年は、前年の日本GPでの2位を評価されての加入となった同胞ロベルト・モレノをチームメイトに迎え、可愛がっていた後輩とのタッグとなった。第5戦カナダGPでは、スタートから終始トップを走っていたマンセルが最終ラップにストップし、土壇場で逆転勝利。ピレリタイヤにとっては、5年ぶりの勝利となった。結果的には、これが現役最後の優勝となる。

第12戦イタリアGPでは、デビューから200戦目を記録。このレースで6位に入賞し華を添えたピケだったが、一方でチームがモレノを解雇し、当時メルセデスから強力バックアップを得ていたミハエル・シューマッハを新加入させていた。ピケはこのことでチームに不信感を抱き移籍を決意、リジェなどと交渉したが契約には至らず、そのままシートを喪失することとなった。

F1での通算出走数204は、2005年現在歴代6位である。

F1シート喪失後、1992年にはインディ500へ参戦。しかし予選で大クラッシュを起こし、両足を複雑骨折してしまう。足の切断も検討された状態だったが、何とか免れ、その後懸命のリハビリで回復。翌1993年には再びインディ500への参戦を果たした(結果はリタイヤ)。

その後もスパ24時間耐久レース(1995年、1997年)、ル・マン24時間耐久レース(1996年、1997年)、南米F3(1998年)などに出場した後、ドライバーとしてのキャリアを終えた。

2000年に国際モータースポーツ殿堂入りした。

ドライバーとして引退して後はブラジリアを拠点に各種事業を展開している。主なものだけでも、レースチーム「ピケ・スポーツ」のようなモータースポーツ関連の活動以外に、ブラジル内陸の貨物輸送がトラック輸送に依存しているという点に着目し、GPSを用いた監視業務を行う会社Autotrac社[2]を創業している。

また、ピレリタイヤのブラジルにおける販売権の一部を有し、一方でBMWの輸入代行業も手がけるなど、様々な事業活動を行っている。
ピケの走りは、チャンピオンを獲得した際に見せたシーズン終盤の勝負強さ等から、爆発的な速さよりも確実性を伴ったものというイメージを持たれている。しばしば「走りのアーティスト」と称されたその走りは、無駄がない反面クセがなさすぎてややインパクトに欠けるとも言われた。クレバーなドライバーであった事と全盛期のブラバムのゴードン・マレーの才能、バーニー・エクレストンがオーナーであり現在のようにコマーシャリズムに振り回されない時代という当時の状況がピケのスタイルに合っていたという意見もある。

日本では特に地味と言う印象が強いピケだが、これにはフジテレビでのF1中継の開始時期が、既にピークを過ぎた頃だった影響との見解もあり、ピケをよく知る関係者やファンからは、「攻めるときには攻めるドライバー」との声も多く出ている。1986年にはハンガリーGPでアイルトン・セナとのバトルの際、アウトからドリフトで仕掛け、そのままカウンターを当てて抜くと言う荒業を成功させ、チャンピオンが掛かっていた最終戦オーストラリアGPでは、ファイナルラップ(最終周)にファステストラップをたたき出す攻めのレースを見せている。

自身にとって最盛期といえる1980年代前半から中盤はターボエンジンの全盛期と重なっており、獲得した3つのタイトルの内、1981年にブラバム・フォード(コスワースDFVエンジン)で獲得したものを除く2つはいずれも、ターボエンジンを搭載した車で獲得した。そのことから、ブラジル本国では「ターボ時代の王」という形容がしばしばなされる。また、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナとともに1980年代から1990年代前半のF1を代表する個性派であり、日本では纏めて「F1四天王」や「四強」と称された。

1981年ラスベガスGPでは酷暑のため体力を消耗し、失神寸前でゴールして最初のドライバーズ・チャンピオンを決めた。同様に失格処分となった1982年のブラジルGPでも、表彰台上で失神するという場面があった。
1982年ドイツGPでは、トップ走行中に周回遅れのエリセオ・サラザールにラインをブロックされ両者接触し、リタイヤ。この際、ピケはマシンを降りるやいなやサラザールを殴り、さらに蹴りを試みる(実際には外れている)。この一部始終は、映像として残っており、今なお話題となることも多い。ピケがここまで怒りを見せた背景には、シーズン2勝目をフイにされたこと以外に、サラザールの面倒を見たことがあった為、「恩を仇で返された」と感じたこともあると言われている。
ブラバム低迷時にマクラーレンからオファーがあった際、ロン・デニスから好待遇で移籍を打診され、ピケもサイン直前にまで至った。しかし、分厚い契約書を見るなり、「この話はなかった事にしてくれ」と言い、「ブラバムは(契約書が)紙切れ1枚なんだ」と言い、契約に縛られる事を嫌った為、実現しなかったという。
1987年のオーストリアGPは、スタート直後の多重クラッシュにより2回もスタートがやり直しとなった。通常このようにスタートを何度も行わなくてはならない状況は、ほとんどのドライバーは嫌がるものだが、3回目のスタート前にピリピリした他のドライバーを他所に、「鼻をほじってその指をなめる」というお茶目なピケの姿がテレビに捉えられた。
ピケはそのキャリアの半分近くをブラバムで過ごしているが、ついに最後まできちんとブラバムと発音できずに「ブラッバーン」で通していた。
後述のように同胞のセナとは犬猿の仲であったが、レギュレーションの問題となれば別であった。1990年の日本GP前に、行われたレギュレーション会議で、セナが前年の日本GPで失格の原因とされたシケインのショートカットについて審議された際、FIAは「元のコースに戻るように」と提案したが、ピケが「それだと正面衝突しかねず、危険極まりない。シケインをショートカットし、コースマーシャルが安全を確認した上でコースに復帰するのが良い。」と主張し、認められた。結果的に、前年のセナのとった判断が間違いではなかったことを主張したことになる。
セナとプロストがスタート直後の1コーナーで接触して物議を醸した1990年の日本GP。このレースを制したピケは勝利者インタビューでアクシデントの状況を聞かれた際に「セナがまっすぐプロストのケツに突っ込んでいった。これが真実さ」とサラリと言った。後年セナ自ら故意にぶつけたと告白したが、この時点ではセナの故意かプロストの過失かで議論は分かれていた。
ウィリアムズ時代のマンセルとの確執も激しく、ピケはマスコミの前で公然とマンセルを上品とは言いかねる調子で攻撃した。その悪口はマンセルの糟糠の妻ロザンヌの容姿にまで及び、この時は多くの関係者やファンの眉を顰めさせた。これらの発言はピケの自由奔放な性格によるものと思われていたが、後にピケ自身が「マンセルとの精神戦で優位に立つための方策だった」と語っている。
引退後もブラジル・グランプリにはよく顔を見せていたが、パドックパスは持たず顔パスで入場していた。
近年の雑誌のインタビューで、「ミハエル・シューマッハは世界最高のドライバーだと思いますか?」と問われて、「世界で一番偉大なドライバー?その名前はネルソン・ピケだよ」と答えた。
息子のネルシーニョ・ピケ(ネルソン・アンジェロ・ピケ)もルノーF1のテストドライバーを務め、2008年よりルノーから参戦することになった。





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