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我が愛しのアスリート図鑑コミュの落合 博満(野球)

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落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県出身のプロ野球選手(内野手)・監督。2004年から中日ドラゴンズ監督。

中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞するほどの映画少年だった。特に『マイ・フェア・レディ』は7回見に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。秋田県立秋田工業高等学校では野球部に在籍していたが、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。「練習が嫌い」という理由で野球部を退部したが、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した[1]。落合はほとんど練習をせずに、四番打者として試合に出場した。高校卒業後、東洋大学に進学するが、先輩がタバコを手にしたら素早く火をつける、等といった体育会系の慣習に納得できず、わずか半年で野球部を退部し大学も中退。秋田に帰ってしまった。その後、ボウリングのプロを志すがプロテスト受験の際にスピード違反で捕まって罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。しかし、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気に府中工場所属の季節工として入社。同工場の社会人野球チーム「東芝府中」に加わった。ここで頭角を現して1978年のドラフト会議でロッテオリオンズに3位指名されて入団。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた)[2]。


プロ入り当時のロッテの監督、山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッテイング・フォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったと言う。その為、ベテラン捕手・土肥健二の非常に柔らかいリスト(手首)を使って、ボールをはじき返すフォームに注目しそれを真似し、我流のフォーム改造を狙った(このことが落合がオレ流と呼ばれる所以である)。また打撃コーチの高畠康真は落合のこのリストワークが気に入り、1980年ロッテに移籍して来た張本勲のもとへ落合を連れていった。張本はレベル&アッパーの打撃理論を主張する打者だが、意外なことに「素晴らしい。このままのスイングで打てる」と言った。この高畠から落合は球種を読むテクニックを教わった。しかし決して落合と山内の関係が悪かったわけではなく、落合は山内から伝授された打撃練習法(カーブマシンを自分の真正面に置き、自分に向かって飛んでくる球を左に打ち返すというもので、左脇を締めて壁を作る練習など)を現役晩年まで実践していた(フジテレビ739「さらば愛しきプロ野球・佐々木信也」より)。また、その後、出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内監督から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かり(週刊ベースボール内「落合博満の超野球学」より)、また山内も落合の三冠王祝賀パーティで祝辞を述べ「落合は入団したときからいい打者になれそうな雰囲気を持っていたから付きっきりで指導した」と話すなど、山内・落合双方は決して互いに悪い印象を持っていない。
入団当初、その凝り固まったフォームをキャンプに来ていた評論家も皆酷評し、特に前監督・金田正一は面と向かって落合の打撃を酷評した。この時の思いを、後年落合は「オレは社会人もやってプロ入りしたから何とも無かったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など、度々口に出した。落合の名球会拒否は金田が名球会の中心人物だからであると言われている。読売ジャイアンツに入団した際も、ジャイアンツのかつての名選手を訊かれ、「王さん、長嶋さん、金田」と金田のみを呼び捨てにしたため物議を醸した。また、落合はロッテ時代「オレは1999本ヒットを打てばいつでも引退する」(名球会入会資格である2000本安打の1本手前)と発言した事もあり、この事から落合が名球会を、そして金田を遠回しで非難している事が窺える。
1980年、二軍調整中の江川卓のボールを、センターバックスクリーンに打ち込んだ。このシーンは現在も放送されるが、打たれた江川はセンターフライと思いマウンドを降りかけていたところ、打球は、途中から伸びスタンドに突き刺さる。柔らかく、そして強いリストを効かせ、鞭で叩くような落合の打法の特徴がよく現れている。5試合連続本塁打のイースタン・リーグ記録を作り、後期に一軍へ戻ると57試合だけで15本塁打を放ち、レギュラーを掴み、翌年1981年には早くも首位打者のタイトルを獲得した。1982年には史上最年少で三冠王に輝く。しかし、数字的には突出したものではなく(打率:.325、本塁打:32本、打点:99)、野球評論家の豊田泰光が落合に対して苦言を放つなど、三冠王のレベルではないと批判された。これに反発した落合は1985年に圧倒的な成績で2度目の三冠を獲得した(打率:.367、本塁打:52本、打点:146)。1986年も2年連続で3度目の三冠王を獲得(打率:.360、本塁打:50本、打点:116)。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3名のみで、通算3度獲得というのは落合のみの記録である。この年はブーマー・ウェルズや秋山幸二らとシーズン中盤まで熾烈なタイトルを争い繰り広げたが、シーズン終盤早々に消化試合になってしまう当時のロッテのチーム状況を味方に付けてタイトルを獲得。その一方、ロッテ時代は優勝に恵まれなかった(前後期制時代の半期優勝は経験)。また最後の三冠王となったこの年、落合の高騰し続ける年俸と球場の観客動員数の少なさがネックとなり、同年シーズンオフに牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂各選手との1対4のトレードで中日ドラゴンズに移籍。
1987年8月20日に長男である福嗣が生まれる。オフに中日移籍し、年俸で日本人初の1億円プレーヤーとなる。

1988年、32本塁打を放ち優勝に貢献するも、規定打席到達以来初めて打率3割を割ってしまう。1989年、シーズン終盤に破竹の勢いで打点を稼ぎ、逆転で打点王を獲得。1990年、池山隆寛との争いを制し、34本で本塁打王を獲得。1991年、シーズン終盤まで三冠を狙える位置にいたが、三冠を獲得しようと本塁打狙いにいった結果、古田敦也との首位打者争いに敗れ、本塁打王のみに終わる。


1993年オフ、フリーエージェント(FA)宣言し、読売ジャイアンツに移籍。長嶋茂雄監督の2度の胴上げ(1994年、1996年のリーグ優勝)に4番打者として貢献。そして1995年には2000本安打を達成するが名球会入りを拒否。

1996年オフ、清原和博の移籍入団に伴いプレーの場を求めて自由契約を申し出る。ヤクルトの野村克也監督の誘いを断り、上田利治監督率いる日本ハムファイターズに移籍し、1998年に引退した。
引退後は解説者・監督として活躍。2001年までテレビ朝日解説者を務める(キャッチコピーはオレ流解説)。その後はフリーとなっていたが、テレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送には度々登場していた(キャッチコピーはミスター三冠王(トリプルクラウン))。
2004年、中日監督に就任。これ以前にプロ野球のコーチの経験はなかった(ただし、森祇晶監督時代の横浜ベイスターズで臨時コーチの経験がある)が、見事1年目にしてリーグ優勝を達成。
2006年、中日を2年ぶりのリーグ優勝に導く。しかし日本シリーズではまたしても1勝4敗で涙を呑んだ。


現役時代は生活の全てを野球に捧げていた。お腹を壊すと試合に出られないからと好物だった刺身をプロ入り後は一切食べなくなった、息子の福嗣が深夜に庭で父が素振りをする音で目が覚めた、遠征先のホテルでチームメイトが部屋を訪ねると裸でバットを持ったまま出てきたなど、その練習に関するエピソードには事欠かない。
彼は現役時代に2000本安打を達成しているが、それぞれ節目となる500本目、1000本目、1500本目、2000本目はすべて本塁打である。さらに、1000試合出場、2000試合出場の時にも本塁打を打っている。落合は取材に来たテレビカメラに打撃練習の打球を狙って当てた事もあるほどのバットコントロールの持ち主であり、おそらくは節目を狙って意図的に本塁打にしたのだと思われる。
その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。
ロッテ時代、東尾修との対戦で落合は頭部付近に死球を受けた(厳しい内角攻めは東尾の持ち味でもあった)。次の打席、落合は東尾の足元を抜くセンター前ヒットを放つ、しかしどことなく不満げ。その次の打席で、落合は東尾を直撃する強烈なピッチャー返しを放つ(内野安打)。一塁ベース上の落合は少し満足げな表情を浮かべていた。[1]
通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打である。アウトコースの球を払うように流し打ちをし、本塁打にしてしまうその卓越した技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし当の本人は『別冊宝島 プロ野球・記録と記憶』(2000年)において、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っている。
1990年、鳴り物入りでプロ入りし快進撃を続けていた近鉄バファローズ(当時)の野茂英雄について、オールスター前にコメントを求められた落合は「フォークでしか勝負できないんだろう。若いのにオジン臭い投手だ」と酷評。そしてオールスター第2戦で落合と野茂の対決が実現、落合は野茂が投じた高めのストレートを狙い打ちホームランを放った。全パを指揮していた森祇晶は野茂にフォークの多投を進言していたが、野茂はこの対戦で1球しかフォークを投げておらず、完全に落合の挑発に乗った形になってしまった。
入団当初は三塁手だったが、一軍に定着するため、2年目からは当時手薄だった二塁手に転向、有藤道世の外野手転向により三塁手に戻り、その後、打撃に専念するために一塁手に転向した。一時二塁手だったため2000年、日本野球機構などが行なった「センチュリーベストナイン(20世紀ベストナイン)」投票で落合が二塁手として選ばれた(落合の通算成績は20世紀ベストナインとするに十分であったが、一塁に王貞治、三塁に長嶋茂雄が選ばれるのは確実なので、なんとか落合を選出しようと多くのファンが知恵を絞った結果である)。また、この複数ポジションでの出場は監督としての現在に生きているとテレビで紹介された事がある。
足が速くないので内野安打は望めない。したがって打球が内野の頭を超えなければ安打とはならない。「安打製造機」イチローと比較されることも多いが、この「内野安打の少なさ」、長打の多さは驚異的である。
バットを体の前でゆったりと構える独特の「神主打法」で右に左に打ち分け、3度の三冠王に輝く(2005年現在、日本プロ野球では唯一)など数々の記録を作った天才打者との誉れが高い。周囲の言動に左右されず、自分の持つ野球の技術を伸ばし磨くのに最も良いと思った方法を貫く姿勢は「オレ流」と呼ばれ、生意気だと批判される一方、人気も博した。近著『落合博満の超野球学』(ベースボール・マガジン社)は、そんなオレ流で培ったユニークな技術論の一端を垣間見させてくれる。その一方、ヒーローインタビューで「良い子の皆さんは、基礎が崩れるから、僕のバッティングを真似しないで下さい」と発言した事もあった。
打撃の感触を重視するため、 グラブを使わずに素手でバットを握った。なお、デッドボール時の保護のため、リストバンドは使用していた。
現役時代は「金の為に野球をやっている」「多く給料を出してもらえるところへ行く」「金にならない試合には出ない」などの、これまでの日本人選手に多く見られた「浪花節」的考えと一線を引いた発言は賛否両論を巻き起こした。実際、チャリティー試合の出場を拒否したこともあった。FA宣言後も、巨人入団前から「一番お金を出してくれたチームに行く」と公言。「プロとして最も(金銭面で)評価してくれるところへ行くのは当然」と強調している。
一匹狼的な雰囲気を醸し出していたが、実はチームメートに対しては優しく、面倒見も良かった。愛甲猛、矢野輝弘、清原和博、小笠原道大など信奉者は数多い。不仲が噂されていた星野仙一も「大変優しい選手だ」とコメントしている。マスコミなどがいないところでは進んでコーチ役も買って出ていたという。また、評論家時代にも、スランプに陥っていた中村紀洋や松中信彦らが落合にアドバイスを求めるなど、選手からの信頼性は高いと言える。
口では「記録を出せば給料が上がる」と個人プレーに徹するような発言をしているが、実際のところは全く逆であったようで、宇野勝は「落合さんが中日に来て初めてチームバッティングとはどういうものかを教わった」と発言しているように、彼の打撃は状況に応じて安打、本塁打を狙い分けるものでチームの勝利第一であり、記録はその結果付いてきたものであった。実際、試合に勝つためにノーサインで突如送りバントを成功させ、周囲を驚かせた事もあった(シーズン終了後に「あれは勝つための判断」と説明)。
ロッテ時代の1984年から1986年に監督を務めていた稲尾和久を師と仰いでおり、唯一彼が無条件で従う人物といわれる。現役時代、室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態になった。その時、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。稲尾は落合の練習をずっと見守っていたのである。落合の稲尾への私淑はこのときがきっかけだという。稲尾もまた、1986年の序盤に極度の不振に陥った落合を4番で起用し続けるなど絶大な信頼を寄せ、落合もそれに応えて不振から立ち直り、三度目の三冠王に輝いた。この年のオフの世紀のトレードは稲尾の監督解任によるロッテへの不信感が一因とされている。落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾が死去した日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。(稲尾が教えてくれた)打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。
プロ入り前から長嶋茂雄の熱心なファンだった。ロッテ時代には取材を受けた際に「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間からバカにされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた巨人復帰に釘を刺したことがある[3]。にもかかわらず、1992年、長嶋が巨人の監督に復帰すると落合はFAで巨人に移籍した。
落合は20代で結婚もスピード破局し、その後、ホステスをしていた9歳年上の信子夫人と再婚。愛妻家(恐妻家?)として知られる。FA権の行使や監督就任などを決定させた事でも知られる(詳細は落合信子の項目を参照)。2人の間には長男・福嗣がいる。
現役時代、「監督は寝ていたほうが試合には勝てる」という冗談を発したとされるが、もちろん自身が監督に就任してから試合中に寝たことはない。
パシフィック・リーグで採用している指名打者制度には批判的であり、ロッテ時代は指名打者での出場があるが、現役最晩年の日本ハムでは指名打者での出場を頑なに拒否し、一度も指名打者では出場しなかった。
高校時代野球部を退部した後放課後は毎日のように映画館に入り浸る日々が継続した。自著では高校時代を通じて100本以上の映画を見たと記している。野球馬鹿にならずに済んだとも回想している[4]。
愛甲猛との自主トレーニングの際に落合の叱責に愛甲がたまりかね、「俺も甲子園優勝投手ですよ」と反論すると、「ここはプロなんだ、そんなに甲子園がいいんなら甲子園へ帰ればいいだろ。そんな気持ちでトレーニングするなら止めたほうがいい」とまで突き放した事があったという[5]
現役時代のヒーローインタビューは独特の秋田訛りがかったとぼけたような口調で核心をかわすのが特徴であった。
現役時代タイトル争いがかかる終盤で打ちまくったため“帳尻合わせ“と揶揄される事もあったが解説者転向後に一転して「盛り上がらない消化試合はいらない。中止になればその試合を移動日に前倒しして開催すればいい、ペナント優勝決定の時点でシーズンを終わらすのがいい。」と発言し話題になった。
日本球界での「真」のホームランバッターとして、田淵幸一と秋山幸二の2人だけを挙げ、自分も王さんも違うと語っている。
広島東洋カープの前田智徳の打撃センスを非常に高く評価しており、「天才」と呼んでいる。実際、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」と言う事が多い。また、リトルリーグの指導をする時も「プロの真似をするなら広島の前田の真似をしなさい」と言う。


監督就任時は前述の公約通り、補強は控えていたが、2005年シーズンに向けてはこの凍結を解除し、阪神タイガースなどと競合して横浜ベイスターズのタイロン・ウッズを獲得する一方、関川浩一、酒井忠晴、小山伸一郎、紀藤真琴の4人を東北楽天ゴールデンイーグルスに無償放出した。
その2005年シーズンは開幕ダッシュに成功したものの、交流戦に大きく負け越す。夏場にかけて首位阪神を猛追したが2位に終わり、連覇は達成できなかった。
監督としては滅多に選手個人を責めることがなく、少なくともマスコミにはそのようなコメントはほとんどしない。これは選手時代の気持ちを忘れないようにしている彼らしい配慮である。しかしそれゆえ、負けが込んでくると貝になってしまうこともある。
就任当初は感情をあらわにする事もあったが、2006年頃から寡黙になり、ベンチ内やグラウンドで喜怒哀楽を見せることは非常に珍しくなった。
また、現役時代の天才的バットコントロールを生かしたノックの腕前もまた天才的である。12球団一といわれる荒木雅博−井端弘和の二遊間は、自身もロッテ時代に河野旭輝のノックを受けて守備技術を学んだ経験を持つ落合のノックで鍛えられたことによるものといわれる。井端も「あんな凄いノックは今まで受けたことが無い」と語っている。ノックについては「守る事はもちろん、ノッカーとして打つ事でも、守備技術や打撃技術の向上に役立つ」との持論を有し、打撃フォームが崩れている選手にノッカーをさせて矯正を図るという方法も試みている。 高木守道もこの矯正法に賛同している。
采配に関しては、自身が選手として現役時代を過ごした時の監督である、前述の高木守道の采配を参考としている。
2005年の日本シリーズでこの年リーグ2位だった千葉ロッテマリーンズが日本シリーズを制した際、「(ロッテは)日本一じゃなくてプレーオフチャンピオンだろ」「2位で日本一なんかになったって俺はちっとも嬉しくないし、俺が当事者だったら釈然としない」とコメントした。2年後に自身がその当事者になってしまったが、「リーグ優勝できなかったことに不満はある」と語っている。
2006年9月20日の横浜スタジアムでの試合後、監督室に置いてあった財布・お守りなどが入っていたセカンドバッグが盗まれた。その際お守りは家族3人お揃いのものだったため、「お守りだけでもいいから返してほしい」と悲痛な叫びを訴えた。
2度目のリーグ優勝を成し遂げた2006年10月10日の東京ドームにおける勝利監督インタビューにおいて、こらえきれずに泣き出してしまうという意外な一面もみせた。実は延長12回の優勝を決定付けるウッズの満塁本塁打の直後からすでに泣いていた。普段は本塁打を打った選手を出迎えることなどは一切無いが、満面の笑顔でウッズを出迎え、抱き合い、その直後から何度もタオルで涙をぬぐう姿が見られた。「今日は絶対に泣くまいと思っていましたが、一番最初に泣いたのは私でした」、「1位で走ってる球団の方が、追いかける球団よりも楽に決まっている」とインタビューで度々答えていたものの、優勝決定直後には「(一時は圧倒的なゲーム差を付けるも、終盤に驚異的な追い上げを見せた阪神に対して)あそこまで追い込まれるとは思わなかった」と本音を漏らした。
2006年の日本シリーズでは、落合や選手達も満を持してシリーズに臨んだ。しかし結果は1勝4敗。初戦は取ったが、第2戦での山本昌からの継投ミスや再三のバント失敗などの拙攻により日本ハムに息を吹き返され4連敗し、ドラゴンズの半世紀ぶりの日本一をまたも逃した。

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