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我が愛しのアスリート図鑑コミュの大西 直宏(騎手)

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大西 直宏(おおにし なおひろ、1961年9月14日 - )は日本中央競馬会(JRA)の元騎手。東京都葛飾区出身。2006年12月17日に現役騎手を引退した。

1980年3月1日中山競馬第6競走のダストシルバーで初騎乗(5着)。初勝利は同年3月23日の中山競馬第1競走のハイロータリーで挙げる。この年9勝(うち障害1勝)を挙げ、「民放競馬記者クラブ賞(最優秀新人賞)」を受賞する。

デビュー2年目の1981年には第1回ジャパンカップでゴールドスペンサーに騎乗、日本調教馬最先着(5着)した。

翌1982年には初勝利を挙げたハイロータリーでアラブ大賞典(秋)を制し、初めての重賞勝利を挙げたものの成績自体は伸び悩む。1987年の東京優駿(日本ダービー)ではサニースワローで22番人気ながら2着(優勝馬はメリーナイス)に入っているが、1991年はわずか1勝に終わるなど、目立った活躍は殆ど無く、マスコミには「忘れられた騎手」とまで言われ、本人もデビュー以来所属する中尾銑治厩舎の仕事をしながら、調教師への試験の準備を考え始めていたという。

ところが、自厩舎に所属することになったサニーブライアン(サニースワローの甥にあたる)との出会いが、大西の名前を全国区に押し上げる。1997年の皐月賞を人気薄ながら逃げ切り、初GI制覇を飾る。これが実は大西にとってはこの年の3勝目で、しかも内2勝がサニーブライアンによるもので、なおかつ重賞勝利もアラブ大賞典(秋)以来の生涯通算2勝目(グレード重賞初勝利)という、これはGI勝利ジョッキーとしては、当時近年稀に見ることとして話題となった。また、14年4ヶ月ぶりの重賞勝利は、JRAの新記録である。

次走の東京優駿も、皐月賞をフロック視するマスコミ及びファンの低評価を嘲笑うかのように鮮やかな逃げ切りを見せ、二冠を達成した。「ダービーの1番人気なんていりません、1着がほしいんです」の名言で競馬ファンを沸かせた。ちなみに、同馬はサニースワローの甥であり、馬主も厩舎も鞍上も同じなら、作戦まで同じ逃げということでも話題になった。

元々騎乗技術には定評があった割に、長い間騎乗馬に恵まれなかった。これは、大西自身がシャイな性格で口数も少なく、競馬サークル内での営業活動(騎乗馬確保)・人間関係づくりが不得手であったことによる、と多くの競馬マスコミの記事などで評伝されている。このことから、ファンの間では「寡黙な仕事人」というキャッチフレーズも生まれた。

とはいえ、ダービージョッキーとなって以降は騎乗回数も大幅に増え、それに比例して勝ち星も増えていった。2000年にはマイネルコンバットでジャパンダートダービーを優勝、史上初の、日本における芝とダートのダービー相当競走を共に制覇した騎手としてもその名を残す。

また新装オープンした新潟競馬の直線競馬競走の初勝利騎手としても名を残す一方、現役晩年はローカル競馬を中心に渋い働きを見せ続けた。2002年に自己最高の45勝を挙げ、2004年はカルストンライトオに騎乗しスプリンターズステークスを優勝。同馬とのコンビでは、新潟競馬場の直線コースで行われるアイビスサマーダッシュを2度制している。これもあり、新潟巧者、直線巧者という印象が強い騎手であった。

皐月賞・東京優駿・ジャパンダートダービー・スプリンターズステークスとGI4勝の全てが逃げ切りで、そのためどうしても逃げ先行のイメージが強いが、後方からの競馬もそつなくこなす。また、彼のGIタイトルが示すとおり、距離の長短も問わない。

2006年12月6日に引退届を提出、同17日の中山開催で騎手生活から引退した。引退後は競馬情報会社で馬券戦略の情報指針役や、競馬の専門学校ジャパンホースマンアカデミーで特別講師などを予定している。また、彼の引退時点で美浦トレーニングセンターに所属する現役のダービージョッキーは皆無となった。

アラブ大賞典(秋)(1982年)(ハイロータリー)
皐月賞(1997年・GI)(サニーブライアン)
東京優駿(日本ダービー)(1997年・GI)(サニーブライアン)
ラジオたんぱ賞(2000年・GIII)(ルネッサンス)
ジャパンダートダービー(2000年・統一GI)(マイネルコンバット)
福島記念(2001年・GIII)(ミヤギロドリゴ)
アイビスサマーダッシュ(2002年・GIII)(カルストンライトオ)
シリウスステークス(2003年・GIII)(マイネルセレクト)
福島記念(2003年・GIII)(メイショウドメニカ)
新潟大賞典(2004年・GIII)(マイネルアムンゼン)
エプソムカップ(2004年・GIII)(マイネルアムンゼン)
アイビスサマーダッシュ(2004年・GIII)(カルストンライトオ)
スプリンターズステークス(2004年・GI)(カルストンライトオ)

日本ダービーの連対率100% (サニースワロー2着・サニーブライアン1着で2戦2連対)
日本ダービーの複勝レコード(サニースワロー・複勝4680円)
重賞14年4ヶ月ぶり勝利
1997年ソウル競馬場における、日韓交流騎手競争にて完全優勝
大井競馬場初騎乗で初地方GI勝利(ジャパンダートダービー)
第1回ジャパンカップにおいて、ゴールドスペンサーで日本馬最先着(5着)
開催初の新潟直線で勝利
2002年アイビスサマーダッシュの3F〜4F目で、日本競馬史上最高速である9秒6のラップを刻む(カルストンライトオ)

G1勝利は全て逃げ切りでのものだが、基本的には「差し、追い込み」が得意な騎手であった。大西本人もダービー勝利後の「週刊Gallop」誌のインタビューで、「逃げているといつ捕まるかと心配で、心臓に悪いです」と答えている。
ダービー勝利後の翌年、1998年のダービー前日サンケイスポーツの取材に対して「もし今年の出走馬の中から騎乗馬を一頭選んで良いと言われたら、キングヘイローに乗りたいです。あの差し足は魅力」と話している(実際のレースでは福永騎手の騎乗ミスにより、キングヘイローは逃げる形になり14着に惨敗)。
大西騎手の勝ち星が伸びない時期、師匠である中尾銑治調教師は「あいつは腕はあるんだが、口下手で…」と、大西騎手の寡黙さをしきりに惜しんでいた。[出展=「騎手物語」木村幸治]
福島競馬場での“まくり一発”はローカル名物でもあった。仲の良い吉田豊騎手は「サラブレ」誌のインタビューで、「福島の芝が荒れてきたら、もう大西さんの天下」と、その思い切った騎乗に賛辞を送っている。
上記の“まくり”で特記すべきなのが、1998年11月21日の「福島放送賞」。ミヤギロドリゴに騎乗した大西は、かかるミヤギロドリゴをおさえて後方待機→3コーナーから外目を一気に進出→4コーナー先頭から直線は芝の外目を伸びて10馬身差圧勝という派手な内容のレースを見せた。まさに“まくり一発”の代表的なレースである。
2001年7月、改装後の新潟競馬場の第1Rで行われた日本初の直線芝1,000m競走で勝利。「直線コースと相性が良いのか!?」と思われたが、2002年のアイビスサマーダッシュをカルストンライトオで勝利するまで37連敗を喫してしまった。
2004年8月21日のアイビスサマーダッシュにおいて、5枠に入ったカルストンライトオをスタート直後一気に外ラチへ誘導し、見事勝利。新潟直線のスタート時、カメラはゲートを真正面からとらえているため、大西騎手のこの騎乗は迫力満点の映像となった。競馬場やWINSでレースを観戦していたファンからは、この“斜行”の瞬間大きなどよめきと歓声が上がった。
2002年の番組改編で秋の福島開催が分割される形になり、内側の芝がそれほど荒れなくなってしまったことが、勝ち星を減らした大きな原因であると言われている(実際、40勝前後だった勝利数が、福島開催分割後は半減している)。
親交のある騎手は吉田豊騎手と中舘英二騎手。理由は、吉田豊騎手はマージャン仲間だからで、中舘騎手は「1年を通じて騎乗する競馬場がほとんど一緒だから」とのこと。
競馬界きっての二枚目ジョッキーでもあった。吉田豊騎手は前出のインタビュー内において「大西さんは何食べてるんだろ!?あの肌は若すぎる!!」と、その美肌を絶賛していた。


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