ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

我が愛しのアスリート図鑑コミュのT・カッブ(大リーグ)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
タイ”タイラス・レイモンド・カッブ(Tyrus Raymond "Ty" Cobb、1886年12月18日 - 1961年7月17日)はアメリカ合衆国ジョージア州出身のメジャーリーグで活躍した野球選手。右投左打。1920年以前の本塁打が少なかった頃の代表的な選手で、ジョージア・ピーチ(The Georgia Peach)のニックネームで呼ばれた。日本では球聖と冠され、アメリカでは「メジャー史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」と言われている。以前は「タイ・カップ」とのカタカナ表記(ローマ字表記ではTai Kappu)が定着していたが、最近は発音になるべく忠実に「タイ・カッブ」(ローマ字表記ではTai Kabbu)と記されるのが一般的になっている。

ジョージア州の教師ウィリアム・カッブと若妻のアマンダ(12歳で結婚、タイ出産時は15歳)の家庭に生まれ同州ロイストンで育つ。厳格な父親は一時、ごろつきになるのではないかと心配し野球をするのに反対していたが、その後オーガスタ・ツーリスツと契約した。オーガスタでの2年目の1905年8月に父ウィリアムが、暴漢と勘違いした母親に誤って銃撃され死亡した。その葬儀の後すぐにデトロイト・タイガースと契約するが、そこでの恒例の新人歓迎(新人相手のいたずら)でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こしている。その年の成績は打率.240で終わっている。2年目は体調不良などでわずか98試合に出場しただけだったが打率は.316という好成績を残し、翌年は.350で首位打者を獲得した。24年の現役生活最後に至るまで、打率.323を下回る事はなかった。1907年からネクストバッターズサークルで黒いバットを使い始めるが、実際にそれを試合で使ったのは最初のシーズンだけだった。タイはそのバットを魔法のバットと呼んでおり、1908年の結婚式でも持ち出していて、そのとき撮られたケーキカットの写真にも映っている。

強い闘争心と勝つためには手段を選ばないえげつなさは、いくつかのエピソードを残している。1909年のシーズン終盤、1.5ゲーム差で首位を争うフィラデルフィア・アスレチックスとの試合で、三塁への盗塁の際、故意にスパイクで三塁手フランク・ベイカーの腕を刺したり、試合後半に安打を打つと迷わず二塁を目指し、スライディングで二塁手のエディ・コリンズに足払いをかけて転倒させたりした事によってタイの悪評が全米に知れ渡ることとなった。「最高の技術と最悪の人格の持ち主」と形容されることもある。

1910年、ナップ・ラジョイと打率のタイトル争いで、打率を維持するためにタイは残り試合を欠場した。その後、ラジョイはダブルヘッダーで7本ものヒットを記録、タイに追いすがった。ところがそのうちの6本がサードへのバントヒットで、相手チーム、セントルイス・ブラウンズの監督ジャック・オコナーが当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために三塁手に後ろに下がってプレーしろと命じた結果のものだった。結局、公式な首位打者はタイとなったものの、賞品のチャルマーズの車は両者に与えられることになった(そのシーズン後にオコナー監督は解雇されている)。タイは翌1911年には自身最高の打率.420を達成している。

1912年5月15日、タイはニューヨーク・ヒルトップパークでのハイランダース(現在のニューヨーク・ヤンキース)戦で観客の暴言に逆上してスタンドに殴りこみ観客(事故で片腕を失い、もう片方の手も不自由な人)を袋叩きにするという暴挙を起こして退場、出場停止処分となった。5月18日、この処分を不服としたチームメートはフィラデルフィアでの試合をボイコット。チームは臨時で大学生らのアマチュア選手を集め、コーチ2人と合わせて試合を行うも24-2で大敗。結局タイ自身がチームメートを説得し事態は収拾した。

1914年には肋骨を骨折、その後右親指まで骨折したこともあるが、一説には肉屋の店員と取っ組み合いの大喧嘩となり、それで負傷したといわれている。

選手兼任監督をまかされた1921年にはワシントン・セネタースとの一戦で審判の判定に激高し、試合後に観客と息子のジュニアが見守る中で審判のビリー・エバンスと取っ組み合いの大げんかを起こした。

1922年には.401の打率を残しながら首位打者を獲得できなかった。(ジョージ・シスラーが.420を記録)

タイはアメリカンリーグで13の打撃タイトルを記録した。打率4割以上を3度記録、タイガースに在籍中、2087得点、3902安打、二塁打は664、三塁打286といった球団記録の多くをつくり、1921年から1926年までプレーイングマネージャーとしてタイガースの監督も務めた。この時に、後に名二塁手として称されるチャーリー・ゲーリンジャーを育てている。

1928年に現役引退。引退時には90ものメジャー記録を保持していたが、現在も30を超える記録が健在である。同年シーズンオフには日本に渡り、当時の大毎野球団に加わる形で明治神宮野球場や甲子園球場で計12試合を行っている。

同時に性格の悪さも折り紙つきで、エゴイスト、人種差別者、粗暴な態度と歯に衣着せぬ口の悪さでも有名であった。そのため、周囲からは忌み嫌われ、疎まれる存在だった(映画フィールド・オブ・ドリームスの中でシューレス・ジョーことジョー・ジャクソンが、「タイ・カッブも来たがっていたが、生前の恨みでヤツにだけは声をかけなかったよ」と言っている)。タイと長い間チームメートだったデイビー・ジョーンズも、「彼(タイ)がスランプに陥ったときは、話しかける事なんかできなかった。(ただでさえひどい態度が)悪魔よりもひどくなってたから」と語っている。タイの悪癖の一つにダッグアウトで相手にわざと見えるようにしてスパイクの歯を研ぐ事が知られているが、これは進塁の際に進塁先の守備を萎縮させる狙いがあったためとも言われている。

引退後は現役時の罪滅ぼしなのか、若手選手を積極的にバックアップした。例えばジョー・ディマジオがニューヨーク・ヤンキースと契約するときに一役買ったエピソードがあり、また、困窮した元メジャーリーガーのために、自分の財産の一部を寄付し続けた話もあるなど、名士として晩年はふるまったように見える。しかし、やはり現役時代の業は相当深く、1961年7月に75歳で死去したとき、葬儀に訪れた球界関係者はたったの3人だけだった。

タイ(キツい性格、しかしたゆまない努力と引き締まった体)はよくベーブ・ルース(愛嬌のある性格、それでいて天賦の才能とたるんだ体)と対極を成す人物として挙げられる。引退後のメジャーリーグでの本塁打至上主義に批判的な見解を示し、「野球本来の面白さは、走塁や単打の応酬にある」と自らの著書で語っているように『スモール・ベースボール』の重要性を説いている。この意見は単なるやっかみではない。あるときルースの豪打ばかりもてはやすマスコミに対し、「君たちに見せたいものがある」と宣言して、セントルイス・ブラウンズ戦に臨んだことがある。タイは翌日の試合で柵越えのホームランを3本も放ってみせた。さらに次の日の試合でもホームランを2本放ち、フェンス直撃の二塁打も2本打っている。


Ty Cobb in 19171936年に野球殿堂入り。そのときの得票数はベーブ・ルースらを上回り、最多得票だった。またデトロイト・タイガースでは、タイの現役時代に背番号がなかったため、指定されていないものの、永久欠番と同様の扱いになっている。1994年には彼を描いた本が映画化されトミー・リー・ジョーンズ主演の「タイ・カッブ(Cobb)」として公開された。

日本では、握りの部分(グリップエンド)が根元に近づくにつれて円錐状に太くなっているバットを、彼が発案し愛用していたことからタイ・カッブ式バット(又はグリップ)と呼ぶことがある。
走塁時、二塁に滑り込む際にタッチを避けるために、なるべくベースから遠ざかってツマ先をひっかけることでセーフ判定を狙う「フック・スライディング」を考案・実践した。
同じく二塁へ進む際、ダブルプレーをとられないよう相手内野手に足を向けて滑り込んでゆくゲッツー崩しを積極的にしかけたのも彼がはじめて。
相手投手の投球フォームやクセの観察によって弱点を見つけたり、攻撃時や守備時に外野へ吹く風を計算に入れるという戦術を最初に編み出した。
選手の権利と言う概念を主張し、メジャーリーグでの選手雇用契約の基礎を作った。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

我が愛しのアスリート図鑑 更新情報

我が愛しのアスリート図鑑のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング