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我が愛しのアスリート図鑑コミュのJ・カンセコ(大リーグ)

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ホセ・カンセコ (José Canseco Capas, Jr. 1964年7月2日 - )はアメリカ・メジャーリーグで活躍した元外野手・指名打者。 双子の兄・オジー・カンセコは、1991年一軍公式戦未出場ながら近鉄バファローズに在籍していた。

カンセコは幼児の頃に家族・従兄弟・親戚と一緒にキューバからアメリカ・フロリダ州マイアミに亡命。大学へは進学せず、1982年のMLBドラフトでオークランド・アスレチックスから15巡目指名を受け入団。1986年にメジャーデビューを果たし、33本塁打を打ちアメリカンリーグの新人王に輝くなど早い段階で才能を開花。翌年にルーキーながら49本塁打を打ち鮮烈にデビューしたマーク・マグワイアと二人合わせて“バッシュ・ブラザーズ”として知られるようになる。
1988年にカンセコはメジャー史上初の一シーズン40本塁打・40盗塁の達成者となる。同年アスレチックスをワールド・シリーズに導くものの、ロサンゼルス・ドジャースに1勝4敗で敗退。だがカンセコ本人はアメリカンリーグのMVPを受賞した。1989年は手首骨折によりシーズンの半分を欠場するものの、17本塁打を放ち、チームは1974年以来となるワールド・シリーズ制覇を果たす。この年のシリーズはサンフランシスコ・ベイエリアを襲った大地震により第3戦が延期された。
1990年に37本塁打を放ち怪我からの回復を印象付ける活躍を見せるものの、後々再発する事になる背中の違和感を感じ始めたのもこのシーズンであった。3年連続でチームはワールド・シリーズへの出場を果たしたが、今回はシンシナティ・レッズに4連敗し敗退。翌年にも44本塁打を放ったが、ここが彼のキャリアのピークとなった。1992年シーズン中にテキサス・レンジャースにトレードに出され、ここから彼の放浪生活は始まることとなった。

1993年にカンセコは2つの出来事で注目を浴びた。5月26日のクリーブランド・インディアンス戦で、カルロス・マルティネスの打った外野飛球を見失ったカンセコはボールをヘディングしてしまい、そのままフェンスを越え本塁打にしてしまった。試合後、プロサッカーチームのハリスバーグ・ヒートはカンセコにサッカー選手としてのオファーを出した。しかもその3日後、大敗していたボストン・レッドソックス戦に志願登板したが肘を怪我してしまい残りのシーズンを棒に振った。トミー・ジョン手術を受けるほどの大怪我であった。
カンセコの私生活もトラブルに溢れていた。元妻エッサー・ハダッド(1988年11月に結婚、1991年に離婚)の車にわざと自分の車をぶつけたりするなどとDVで訴えられた出来事が彼の一連の訴訟やトラブルの始まりとなった。1996年8月にジェシカ・シークリーと再婚したが、翌年11月に暴行の疑いで逮捕。接見禁止とカウンセリングを受講する事との判決が出され、1999年に正式に離婚が成立した。彼女は2005年に“ジェシカ・カンセコ”の名前でプレイボーイ誌9月号の特集ページに登場した。
2001年10月には兄オジーと一緒にマイアミ・ビーチのナイトクラブでカリフォルニア州からの旅行客2人と喧嘩になり、片方は鼻骨折、もう片方は唇に20針の大怪我を負わせてしまい略式起訴となった。
1998年は復活し、46本塁打を放ち29盗塁を記録。盗塁数は40盗塁を記録した1988年以来最多だった。しかし、この年のファンの関心はマグワイアとソーサの年間本塁打記録更新に集まっていたため、脚光を浴びることはなかった。その年はトロント・ブルージェイズでプレーしていたが、翌年はタンパベイ・デビルレイズに移籍し、114試合で34本塁打を打ちオールスターにも選ばれた。しかし、背中を怪我してしまいシーズン終盤は欠場した。2000年にはウェーバーに乗った後ニューヨーク・ヤンキースと契約したが、全く活躍出来なかった。
2001年は春季キャンプでアナハイム・エンジェルスに解雇された後、シーズン前半は独立リーグアトランティックリーグのニューアーク・ベアーズでプレーし、後半はシカゴ・ホワイトソックスと契約。2002年にも契約したモントリオール・エクスポズからシーズン前に解雇されると、同年5月に引退を発表。2004年にはロサンゼルス・ドジャースから現役復帰を試みたが、結局実ることは無かった。通算462本塁打は歴代26位。一時期カンセコはラテン選手としては最多本塁打記録を保持していたが、後にラファエル・パルメイロとソーサによって破られた。

2006年6月29日には独立リーグゴールデンベースボールリーグのサンディエゴ・サーフドーグズと一年契約を結んだ。6度のオールスター経験があるカンセコだが、現在の給料はリーグで定められている最高額の月給2500ドルであり、主にチームの指名打者兼投手として出場する事が予定されている。リーグ発表によると、カンセコは薬物検査に協力すると述べているとされている。
同年7月5日には、サーフドーグズで一試合しかプレーしていないのにも関わらずロングビーチ・アーマーダにトレードされる。カンセコ本人のリクエストによるもので、理由は“家庭内事情”と述べている。同月31日のリーグホームランダービーに優勝。

2005年に自書 『Juiced:Wild Times,Rampant 'Roids, Smash Hits & How Baseball Got Big』 でステロイドホルモン剤の使用を認めた。また、カンセコはメジャー選手の85%にも渡る人数がステロイドを使用している、もしくは使用した事があると述べ、球界に波紋を呼んだ。特にマグワイア、ジェイソン・ジアンビ、パルメイロ、イバン・ロドリゲス、ホワン・ゴンザレスらは実名で書かれ、カンセコ自身が注射したと書かれている。ほとんどの名指しされた選手はステロイド使用を否定した中、ジアンビはBALCO事件の法廷で使用を認める発言をした。
また、この本は上記の実名選手を名指ししている内容もさることながら、全体的に『薬物使用はフェアでないと知っていながらつい使ってしまった』というような罪の告白でなく、『ステロイドって凄い薬だ!ホームランもガンガン打てるしアレもでっかくなってモテモテで超ハッピー。副作用も全然無いね。みんなもやりなよ!』というステロイド使用を推奨する論調で、不謹慎であるとして批判を多く浴び、結果として本が有名になってしまった。
ステロイド疑惑に関するアメリカ議会のヒアリングでは、パルメイロが自身の薬物使用を否定した一方で、マグワイアは自身の使用に関する質問に対する返答を拒んだりする等不審な答弁が目立った。この本はベストセラーになった。2005年8月1日にパルメイロはステロイド検査で陽性となり、10日間の出場停止処分を受けた。
1982年 ドラフト15巡目でアスレチックスから指名され入団。
1984年 1Aモデストで116試合に出場し、打率.276、15HR、73打点を記録した。
1985年 2Aハンツビルで開幕を迎え、58試合で打率.318、25HR、80打点という桁違いの数字を残し、3Aタコマへ昇格。3Aでも60試合に出場し、打率.348、11HR、47打点を記録し、9月に入るとメジャーへ初昇格を果たした。メジャー初打席は代打としての出場で三球三振に終わってしまい、その後も24打席で12三振とメジャーの壁に苦しんだが、終わってみれば29試合の出場で打率.302、5HR、13打点をマークし、マイナーとメジャーで合わせて41本のホームランを放った。
1986年 メジャーで開幕を迎えたが、シーズン途中で大きなスランプに苦しんだ。そのため、打率こそ.240と揮わなかったが、33HR、117打点と恐ろしいパワーを見せつけ、この年の新人王に輝いた。出場は出来なかったが初めてオールスターゲームのメンバーとしても選ばれた。一方で、157試合出場で球団記録となる175三振を記録。
1987年 159試合に出場し、打率.257、31HR、113打点をマークし、2年目のジンクスも感じさせぬ活躍ぶりを見せた。この年、チームメイトのマーク・マグワイアが49HRを放ち、新人王とホームラン王を同時に獲得したこともあり、カンセコとマグワイアで「バッシュブラザース」と呼ばれ、相手から恐れられるようになった。テレビゲームプロ野球ファミリースタジアム87年度版のメジャーリーガーズでも「かんせこ」という名でメンバー入りしている。(88年度版からは「かんせい」)
1988年 打率.307、42HR、124打点をマークし、ホームラン王と打点王の二冠に輝き、MVPに受賞した。また、40盗塁も記録し、メジャー史上初の「40本塁打40盗塁」を達成した。オールスターゲームではリーグトップの票を集め、さらにチームも地区優勝も果たし、ワールドシリーズの舞台に立つこともできた。ドジャースとのワールドシリーズ第1戦では序盤にカンセコの満塁ホームランで勝ち越したアスレチックスだったが、最終回にクローザーのデニス・エカーズリーが打ち込まれサヨナラ負けすると、そのまま1勝4敗で敗れ去った。カンセコが記録したヒットは第1戦の満塁ホームランによる1本だけで、打率.053と大ブレーキとなった。
1989年 開幕前に左手を骨折し、7月まで戦列に復帰できなかった。しかし、復帰後、わずか65試合ながら17HRを記録。2年連続でワールドシリーズへコマを進めたアスレチックスの相手はサンフランシスコ湾を挟んで本拠を構えるジャイアンツで、ベイエリア決戦と注目を浴びた。サンフランシスコ大地震の影響で、途中10日間の中止があったが、アスレチックスが4連勝で世界一に輝いた。カンセコも4試合で打率.357をマークし、前年の屈辱を晴らした。
1990年 途中で故障者リスト入りすることもあったが、37HR、101打点をマーク。チームも3年連続リーグ優勝を果たした。しかし、ワールドシリーズではレッズに4連敗。4試合でヒットわずか1本と不振を極めたカンセコは途中でスタメンからはずされてしまう。
1991年 154試合に出場し、44HR、122打点をマークし、自身2度目のホームラン王に輝いた。MVP投票でもカル・リプケン、セシル・フィルダー、フランク・トーマスに次ぐ4位の得票。アスレチックス球団史上ではジミー・フォックス(3回)以来の快挙である2回目のシーズン40HR以上を記録した。
1992年 8月31日の試合中、打席に向かうカンセコは呼び止められ、レンジャーズへのトレードを通告された。
1993年 5月29日、大量リードされて負けている試合に志願してマウンドに立ち、1イニング2安打3四球3失点と散々な結果に終わった。この登板が原因で右肘を痛めてしまい、残りのシーズンを棒に振ってしまった。一時は選手生命さえ危ぶまれた。
1994年 打率.282、31HR、90打点を挙げて復活の兆しを見せるが選手会のストライキに阻まれた。シーズンオフにはレッドソックスへの移籍が決定。
1995年 途中に約1ヶ月の故障者リスト入りはあったが、打率.306、24HR、81打点をマーク。オフにFAとなったがレッドソックスと再契約を交わした。
1996年 2度の故障者リスト入りと怪我に泣く。オフには古巣アスレチックスへトレードで復帰した。
1997年 再びマグワイアとのバッシュブラザーズ復活に周囲は沸いたが、7月末にマグワイアのカージナルスへの移籍が決定。カンセコは怪我に苦しみ、8月以降はほとんど試合に出られなかった。オフにはFAとなり、ブルージェイズと契約した。
1998年 151試合に出場し、打率.237ながら、46HR、107打点をマークした。
1999年 デビルレイズに移籍。4月中旬に通算400号HRを放ち、5月には5試合連続HRを記録。82試合を終えた時点で31HR、69打点を挙げ、前年にシーズン70HRをマークしたマグワイアに劣らぬ活躍を見せるが、腰を痛め、椎間板ヘルニアの手術を受けることになり、戦線離脱。8月末には復帰するも以前の勢いを取り戻すには至らなかった。
2000年 5月中旬から約2ヶ月の故障者リスト入り。8月にヤンキースへ移籍。しかし、大した活躍は出来ず。自身10年ぶりになるワールドシリーズの舞台も出場機会は代打による1打席のみであった(結果は三振)。
2001年 自由契約となったカンセコは、エンゼルスとマイナー契約を結び、開幕ロースターを目指した。主砲のモー・ボーンが怪我でシーズン絶望となったこともあり、カンセコに期待が集まった。しかし、オープン戦が始まってもホームランが出ないカンセコにエンゼルスから告げられたのは解雇通告であった。その後は独立リーグでプレーしながらメジャー復帰の道を探ることになる。そして、ホワイトソックスのトーマスが怪我をしたこともありホワイトソックスと契約を交わした。76試合の出場で打率.258、16HR、49打点という数字に終わった。この年限りで現役を引退。
2005年 米CBS放送の人気番組「60ミニッツ」で自身が過去に筋肉増強剤を使用していたことを告白し、メジャーリーガーの多くが使用していると指摘し話題となった。自身が著した薬物使用に関する暴露本「JUICED」を出版。
2006年6月末に独立リーグゴールデンベースボールリーグのサンディエゴ・サーフドーグスと契約。DHとして出場している。同リーグのオールスター・ゲームでは余興として投手も務めた(結果は、1/3回を投げ、打者5人に対し3安打1四球4失点)。同チームには前年リッキー・ヘンダーソンが所属していた。


コメント(3)

D・Jさん、有難うございます!!

カンセコが好きで「コミュが何故ないんだろう?」と思っていました。
こんなに詳しい資料があれば、カンセココミュをつくれちゃいますね^^

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