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我が愛しのアスリート図鑑コミュのM・ナブラチロワ(テニス)

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マルチナ・ナブラチロワ(Martina Navrátilová, 1956年10月18日 - )は、旧チェコスロバキア・プラハ出身の女子プロテニス選手。ウィンブルドン選手権の大会史上最多優勝記録(9勝)、WTAツアーの最多優勝記録(シングルス167勝、ダブルス177勝)など、数々の歴史的な記録を樹立した名選手である。4大大会シングルス通算「18勝」はライバルのクリス・エバートと並ぶ女子歴代4位タイ記録。左利きの選手で、ネット・プレーを最も得意にしている。1975年に故国を離れてアメリカに亡命し、1981年に米国市民権を取得した。

生まれた時の名前は「マルチナ・シューベルトワ」といったが、3歳の時に実の両親が離婚、その後母親がミロスラフ・ナブラチルと再婚したことから、継父の姓の女性形を名乗って「ナブラチロワ」になった。1975年に共産主義国のチェコスロバキアを離れてアメリカに亡命する。1978年のウィンブルドン選手権で4大大会初優勝を果たしたが、当時はまだチェコスロバキア国籍であった。1981年7月に米国市民権取得を果たす。この年に全豪オープンで初優勝を果たし、ここからの優勝はアメリカ国籍になる。(全豪オープンは1985年まで12月の年末に開催されていた。現在のような1月開催になったのは1987年の大会からであり、1985年12月 → 1987年1月と開催時期の変更がなされたため「1986年全豪オープン」は“開催せず”の空欄となっている。)

初期のナブラチロワには精神面の弱さや亡命問題のストレスなどがあり、選手としての開花は25歳を過ぎてからであったが、1981年の全豪オープン優勝を契機に無敵の強さを発揮し始める。1982年に全仏オープンとウィンブルドン選手権を制覇して4大大会3連勝。この年からウィンブルドン選手権に前人未到の「6連覇」が始まる。1983年のウィンブルドン選手権から1984年の全米オープンまで、2年間にまたがる4大大会「6連勝」を達成。しかし年末開催の全豪オープン準決勝でヘレナ・スコバに敗れ、“年間”グランドスラムを逃してしまう。(4年後の1988年にシュテフィ・グラフが年間グランドスラムを達成したため、ナブラチロワの2年間にまたがる記録は「グランドスラム」認定から取り消された。)1987年にウィンブルドン選手権で6連覇を達成。この時から彼女は1938年に同選手権「8勝」を挙げた往年の名選手、ヘレン・ウィルス・ムーディの記録を更新する目標を掲げた。しかし1988年の同選手権決勝で19歳の新女王シュテフィ・グラフに敗れ、大会7連覇を逃した。グラフには1989年の決勝でも敗れている。1990年の決勝戦で黒人選手のジーナ・ガリソンに完勝し、宿願のウィンブルドン選手権「9勝」を果たす。52年間大会歴代1位であったムーディの記録は、こうして破られた。

1994年を「シングルス最後の年」と位置づけたナブラチロワは、あまり得意ではないクレーコートの全仏オープンに6年ぶりの参加を決めたが、1回戦敗退に終わる。最後のウィンブルドン選手権では4年ぶりの決勝に進出したが、スペインのコンチタ・マルチネスに敗れて大会10勝目を逃した。同年11月の女子ツアー年間最終戦「バージニア・スリムズ選手権」において、女子テニス選手として初めての「引退式典」がナブラチロワの偉業を讃えて開催された。38歳に至るまで第一線で活躍したナブラチロワは、世界ランキング4位で現役を退いた。

1997年に史上最年少で世界ランキング1位になったマルチナ・ヒンギスが、「ナブラチロワにあやかって」命名されたことはよく知られている。
ナブラチロワはダブルス選手としても、様々なパートナーたちと組んで数々の歴史的な記録を残してきた。キャリアの初期にはビリー・ジーン・キング夫人と組むことが多く、後にパム・シュライバーと組んで4大大会の女子ダブルスに「20勝」を記録した。2人のペアは1983年ウィンブルドンから1985年全仏オープンまで4大大会に「8大会連続優勝」を飾り、1983年 - 1985年にかけて女子ダブルス「109連勝」の記録を樹立する。前人未到の大記録は、1985年のウィンブルドン女子ダブルス決勝で止まった。2人の連勝記録を止めたのは、キャシー・ジョーダン(アメリカ)&エリザベス・スマイリー(オーストラリア)組であった。

1994年にシングルスの第一線から引退した後、ナブラチロワは6年後の2000年全米オープンでダブルスに現役復帰を果たす。ダブルス復帰から3年後、2003年全豪オープンと2003年ウィンブルドンの混合ダブルスで、インドのリアンダー・パエスと組んで優勝した。全盛時代のナブラチロワは全豪オープンの混合ダブルス部門だけ優勝がなかったため、これで彼女の「ボックス・セット」(Boxed Set)が完成した。(ボックス・セット=テニス用語で、テニス4大大会のすべてにおいて、男女シングルス・男女ダブルス・混合ダブルスの3部門に「キャリア・グランドスラム」を達成すること)彼女の4大大会初タイトルであった1974年全仏オープンの混合ダブルス部門から数えて、実に29年がかりで達成した「ボックス・セット」であった。ボックス・セット完成から3年後、ナブラチロワは2006年全米オープンの混合ダブルス部門で、ボブ・ブライアンとペアを組んで決勝に進出する。ナブラチロワとB・ブライアンはマルティン・ダム&クベタ・ペシュケ組(ともにチェコ)を 6-2, 6-3 で破り、最後の舞台を優勝で飾った。
ナブラチロワは数々の政治運動や社会運動に積極的に関わっている。著書『Being Myself』の中で、レズビアンであることをカミングアウトして以来、差別と自己否定に苦しむLGBTの若者たちを勇気づける講演活動を続けている。コロラド州がLGBTの権利を否定する憲法修正条項の導入を計画した時、ナブラチロワはこれを阻止するための集団訴訟の原告団に名前を連ね、メディアを通じて反対運動を展開した。このような業績が認められ、2000年に人権団体「ヒューマン・ライツ・キャンペーン」から表彰を受けている。[1]

ナブラチロワは動物愛護運動でも知られている。世界最大級の動物愛護団体「動物の倫理的扱いを求める人々の会」の活動に従事し、完全な菜食主義者であることを公にしていた。しかし、2006年にトークショーで、タンパク質補給のために必要最小限の魚を食するようになったことを認め、菜食主義を貫きながらアスリートであり続けることの難しさを語った。
全豪オープン:3勝(1981年、1983年、1985年)
全仏オープン:2勝(1982年、1984年)
ウィンブルドン:9勝(1978年&1979年、1982年~1987年、1990年) [大会歴代1位、6連覇を含む]
全米オープン:4勝(1983年、1984年、1986年、1987年)





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