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我が愛しのアスリート図鑑コミュの小倉 隆史(サッカー)

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小倉 隆史(おぐら たかふみ、1973年7月6日 - )は、三重県鈴鹿市出身の元サッカー選手、解説者、タレント。


愛称はオグ。現役時代のポジションはフォワードで、得意の左足での強烈なシュートから「レフティモンスター」と呼ばれた。

又、名は同じ字であるが、反町隆史や岡村隆史(ナインティナイン)は、「たかふみ」ではなく「たかし」である。

高校サッカー選手権での活躍以来の根強いファンを持ち、評論家に日本代表のフォワードは10年は安泰だと言わしめた高い実力と人気を備えていた。

四日市中央工業高校時代は、中西永輔や中田一三と同級生で、四中工三羽ガラスと呼ばれ、ジェフ市原時代に同チームでのプレーが実現した。以前より海外志向が強かったため、しばしばオランダでプレーする話も聞かれたが、負傷から復帰後は実現しなかった。

ドリブル、シュート、パスなど高い技術を持っていたが、怪我からの復帰後は以前のスピードが低下し、コンスタントにトップレベルのプレーが見られなかったが、随所にそのセンスでファンを楽しませてくれた。

金子達仁命名「レフティーモンスター」(直訳:「左利きの怪物」「左足の怪物」といわれることのほうが多い)の異名通り、大柄な体躯を十分に生かした、振り足の早い左足からの強力なシュートも武器のひとつであった。

前線で張るよりは中盤に下がってボールを持って自ら展開することが多く、そのプレースタイルは、「1列目よりも1.5列目」と自称した。イタリアの名選手ロベルト・バッジォ等に影響を受けていると公言していた。  正確なロングパスによる展開力は他の中盤の選手を凌ぐセンスを備えていたが、その反面、常にゴール前にポジションを取ることが出来ず、監督や戦術によっては起用されないことがあった。

 フリーキックがうまいことが有名で、名古屋時代はチームメイトで当時のエース、ジョルジーニョらに「俺に蹴らせてくれ」と頼んでいる姿もピッチの上でしばしば見られた。

高校時代は、1991年の高校サッカー選手権を帝京高校との両校同時優勝という形で制覇し、Jリーグ誕生前夜の1992年に名古屋グランパスエイトに入団した。その年に行われた第1回ナビスコカップで、サッカーファンに強烈な印象を与えた。

翌1993年には、オランダ2部リーグのエクセルシオールへレンタル移籍し、チーム得点王となる活躍をして、オランダ1部リーグのトップチームからのオファーも来たとも言われている。しかし、本所属の名古屋グランパスエイトからの帰国要請と、当時はアトランタ五輪出場を目標とする、U-22日本代表監督西野朗からの代表召集もあり、日本に復帰した。ファルカン率いる日本代表にも選ばれ、フランス代表戦では、途中出場でカズと共に2トップを組み、ゴールを奪う活躍を見せた。

アトランタ五輪予選では活躍するも、最終予選直前の合宿で右足後十字靭帯を断裂し、選手生命を奪いかねない重傷を負った。その後、幾度の手術により復帰するが、ジェフユナイテッド市原、東京ヴェルディ1969、コンサドーレ札幌、ヴァンフォーレ甲府と移籍を繰り返した。

甲府では、移籍後からチームの上昇カーブを描くのに貢献して行くが、2005年に開幕当初はレギュラーであったものの、若手の台頭とチームの戦術から出場機会を失い、チームのJ1昇格の影でオフに戦力外通告を受けた。2006年1月10日に合同トライアウトに参加し移籍先を探していたものの、現役続行を断念し、2006年2月10日に現役引退を宣言した。引退セレモニーは、最後に所属したヴァンフォーレ甲府が、J1としての初試合になる2006年3月5日に、ホームスタジアムの山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場での開幕戦(vs清水エスパルス)の試合前に行われた。

選手時代の物怖じしない態度と、周囲を笑わせるような明るい性格から、引退後には、スーパーサッカーやNEWS23などの解説者として抜擢され、テレビ中継の解説なども精力的に行っている。ボケを挟みながらの痛快なトークで番組を盛り上げており、同年代の元プロ野球選手・岩本勉とは、元人気選手同士で、2人共にボケキャラで関西弁も交えるコンビのトークは絶妙である。その一方で、B級ライセンスを取得し、将来の指導者としても修行中である。

木訥とした風貌からか、時として「小生意気」との印象を与えることもあるが、実際の彼は非常に礼儀正しく、腰も低い。それは現役時代の試合中でもそうであった。名古屋グランパスエイト時代、ストイコビッチに試合中にコーチングを受ける時の彼は、常に直立不動の姿勢で話を聞いている。

若き頃の中田英寿をして、「尊敬する人は小倉さん」と言わしめた人物である。

1980年-1985年 白子サッカー少年団
1986年-1988年 鈴鹿市立鼓ヶ浦中学校
1989年-1991年 四日市中央工業高校サッカー部
1992年-1993年 名古屋グランパスエイト
1993年-1994年 エクセルシオール
1994年-1999年 名古屋グランパスエイト
2000年 ジェフユナイテッド市原
2001年 東京ヴェルディ1969
2002年 コンサドーレ札幌
2003年-2005年 ヴァンフォーレ甲府

コメント(2)

本当怪我さえなければ最高の選手だった気がします。
今思えば四日市中央のころが一番輝いていましたね。

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