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我が愛しのアスリート図鑑コミュの木村 和司(サッカー)

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木村 和司(きむら かずし、1958年7月19日 - )広島市南区大河出身のサッカー選手、サッカー解説者。ポジションはMF(攻撃的MF)又はFW(ウイング)。

高校や大学、日産加入当初はウインガーとしてプレーしていたが、1983年に同じウイングを専門とする水沼貴史の入団をきっかけに、加茂周監督によって攻撃的MFにコンバート。以降、ゲームメーカーとして中盤に君臨し日産黄金時代を築く原動力となった。水沼やラモス瑠偉(読売クラブ{後のヴェルディ川崎})らと共に日本サッカー冬の時代を支えた選手の一人であり、「日産の背番号10と言えば木村和司」とまで言わしめた程の存在である。

現役時代はフリーキックの名手としても知られていた。その正確なボールコントロールと鋭い変化から『魔術師』の異名で呼ばれ、日本リーグ、国際試合で数々の名場面を作り上げた。特に1985年、ワールドカップメキシコ大会最終予選のホーム韓国戦(ちなみにその試合は1対2で韓国に敗れ、ワールドカップに行けなかった。)において、40メートル手前からみせたフリーキックは、80年代の日本サッカーにおける屈指の名シーンとして伝説化しており、現在でもサッカー番組でフリーキックが特集される際には、必ずといっていいほど紹介されている。ちなみに出身地の広島を拠点とする中国新聞では「フリーキック自由自在」というコラムを設けていた。

前述のとおり背番号10番と言えば木村と言われるほどであり、本人も10番にはかなりのこだわりを持っている。しかしJリーグが開幕して間もない頃は、現在のように固定番号制度が採用されていなかった為、たとえ木村であってもスタメンで出場していなかった試合では14番を付けていた。本人は14番で試合に出るのが嫌だったと言う。
大河FC[1]から県立広島工業高校に進学[2]。攻撃的サッカーで名を馳せた県工の中心選手として1975年度の高校選手権でベスト4の成績を残した。その後明治大学政経学部を経て、1981年に日本サッカーリーグの日産自動車サッカー部(後の横浜F・マリノス)へ入部した。

1979年、明治大学2年で日本代表入りすると代表チームの常連となった。1983年のロサンゼルス五輪予選前までは右ウイングのスペシャリストとしてプレーしたが、所属クラブと同様に攻撃的MFとなり、攻撃の核となって80年代半ばの日本代表を支えた。しかし1987年のソウル五輪予選前、石井義信監督が守備的サッカーに方針を転換した事で代表から落選した。

1986年、当時のプロサッカー選手登録制度『スペシャル・ライセンス・プレーヤー』の第1号選手となる。年俸は1200万円[3]。国産プロ第1号としての重責や、W杯予選敗退のショック等もあり、80年代後半には成績が低迷。日本代表チームからも、攻撃的MFのポジションを水沼に譲る形で遠ざかっている。後に日産の日本リーグ・JSLカップ・天皇杯の三冠達成で再び脚光は浴びたが、当時の代表監督横山謙三が代表に呼ぶことはなかった。

1993年、Jリーグ発足に伴って横浜マリノスに入団。既に全盛期は過ぎたものの「ミスター・マリノス」と呼ばれ、翌1994年に現役を引退した。引退会見では「もっとサッカーが上手くなりたいです」という言葉を残し、その飽くなき向上心は記者・ファンに強い印象を残した。

引退後は、サッカー解説者の傍ら、フットサル日本代表の監督も務めていた。MFからいいパスを受けたにも関わらずFWがボンヤリしている状況を見ると「感じてない」と評することが多い。また近年は、テレビゲーム「プロサッカークラブをつくろう!」シリーズに解説者役で実名出演しており、現役時代を知らない若い世代にもその名が知られている。またスポーツバラエティ番組に出演した際には一転して広島弁になる。

現在は結婚しており横浜で会社(妻が社長)を設立。サッカースクールなどの運営を行っている。

木村の代名詞であるフリーキックだが、蹴り始めるきっかけはテレビで観たワールドカップで、ブラジル代表のペレやリベリーノがフリーキックで直接ゴールに放り込むのを見たこと。「フリーキックでも直接ゴールを狙えるんだ」と思い、遊び感覚で練習に励んだ。蹴り過ぎで足の甲が変型していたという。
木村が代表のスター選手だった1984年夏、佐山一郎は雑誌「Number」からの依頼で木村にインタビューを申し込んだ。日産の広報の担当者にそれを話すと、サッカーの専門誌以外から取材が来たのは初めてと驚かれた。当時のサッカーは「Number」ですら同じ年9月20日号の釜本邦茂引退記念号で初めてサッカー特集が成立するというマイナー状況だった。「大丈夫ですか、慣れていないから喋んないかもしれませんよ」と言われ、実際木村は、ほとんど喋らず、答えたあとに意味不明の笑いが漏れだすのにも驚嘆した。しかし会うたび喋るのがうまくなったという[4]。
木村の妻は、サッカーファンが多くはなかった1960年代、日本サッカーリーグ(JSL)創設の頃からのサッカーの追っかけで、まだ原宿の岸記念体育館の小さな一室にあったサッカー協会(JFA)によく遊びに来ていた一人という[5]。




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