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我が愛しのアスリート図鑑コミュの北尾 光司(格闘・相撲)

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北尾 光司(きたお こうじ、1963年8月12日 - )は、三重県津市出身で立浪部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー、元総合格闘家、現在は大相撲立浪部屋のアドバイザー、ナイフ評論家。第60代横綱・双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。


いわゆる「花のサンパチ組」の一人。幕内優勝経験のない唯一の横綱(優勝制度成立後)で、稽古嫌いで知られ、千代の富士のみによる長年の一人横綱状態を打破するために不適格ながら横綱に昇進したとして「仮免横綱」と揶揄された。1987年12月、師匠の立浪親方(関脇・安念山治)との意見の相違などから廃業。

後にスポーツ冒険家、プロレスラー、総合格闘家、実業家と転身した。大相撲現役当時、PC-9801を使うパソコン・マニアとして有名であった。ナイフのコレクターとしても現役時代から知られ、引退後なんでも鑑定団にコレクションを出品した事がある。当時の流行語にあやかって「新人類横綱」とも呼ばれた。

現在は部屋付きアドバイザーという形で角界に出戻りし活動している(但し日本相撲協会所属ではない)。

四股名の双羽黒は、双葉山と羽黒山という、立浪部屋が生み出した2人の大横綱からつけられた。当時の春日野理事長(横綱・栃錦清隆)が名付け親である。しかしこの名前は評判が悪く、ある時は羽黒は稽古をしない大関・若羽黒から、双はその若羽黒以上に稽古をしないという意味だとマンガで揶揄されたこともあった。また後日相撲雑誌で『第二候補の名前が別に存在し、そちらにしておけばもっと長く活躍できたかもしれない』とも言われている。後に北尾は「素質の北尾・努力の保志とレッテルを貼られて稽古嫌いと言われた事は非常に心外だった。自分は一生懸命強くなろうと努力していたのに、誰も評価してくれなかった」と述べている。

なお双羽黒は横綱昇進時に付けられた四股名で、大関時代以前はずっと本名の北尾で相撲を取っていた。本人は四股名を付けられるのを嫌がっていたと言われるが、横綱に昇進するに当たり本名のままでは問題があると説得されたらしい。なお横綱昇進後も本名のままだったのは、大相撲の歴史上輪島大士ただ一人だけだが(帰化によって本名の変わった外国出身力士を除く)双羽黒も改名届提出が横綱推挙式の後になったため、推挙状は「北尾」名義での発行となった。

恵まれた体格と素質は誰しもが認めるもので、実際大関までの昇進は比較的スムーズだった。しかし父親が建設会社の取締役で、一人息子として甘やかされて育ったためか、稽古が少しでも厳しいと「故郷へ帰らせてもらいます」が口癖で、また師匠も本人ではなく兄弟子に厳しい稽古を注意した。ひどい時は稽古をサボって喫茶店に行ったりもしたが、師匠が注意をしないものだから、誰も見て見ぬふりをしていた。さらに弟弟子に対するイジメまがいの行動(付き人をエアガンで撃って遊ぶなど)で、付き人が集団脱走・廃業した等と報道されたこともある。そういった人格面での問題と、不透明な横綱昇進の経緯もあって、全盛時代から相撲ファンの間での評価は割れていた。

大関(北尾)時代の1986年5月場所、北尾と小錦の取組でさばおりで小錦の右膝を負傷させたが、小錦にとってはこの故障は引退までたたった。一度は小錦に軍配が上がったものの物言いが付き、取り直しとなったあげくに膝を負傷させられたという経緯がある。諸説あるが「最初の取組は行司の判断通り小錦優勢」と見る者も多く、取り直しとなったのは「外国人差別ではなかったか」という疑念を呈する向きもある。

一部の報道では、小錦は不可解な裁定を受けたあげく怪我をさせられたため、周囲に「相撲をやめる」と強く訴えたと言う説もある。小錦にあの故障がなかったら、という意見は根強く、また1987年の双羽黒廃業事件で横綱昇進の基準が厳格化されたことも、結果として「横綱・小錦」誕生に向かい風となった。このため平幕〜三役時代の強かった小錦を惜しむ人の中に、「小錦の横綱への道を断った」と双羽黒を恨む声もある。しかし小錦本人は双羽黒を恨んではいないらしい(不可解な裁定を行った協会に対しての気持ちは定かではない)。

1986年7月、横綱審議委員会が開催され北尾の横綱昇進が討議された。北尾は直近の5月場所は12勝3敗で準優勝、7月場所は14勝1敗で優勝同点(優勝決定戦で千代の富士に敗れる)をしていた。審議委員会では「優勝経験のない力士が横綱になるのはおかしい」「精神面に甘さがある」との意見が出た。稲葉修委員が最後まで反対したものの、結局横綱に推薦された。横綱推挙伝達式での口上は、「心技体の充実に心懸け、横綱の名に恥じぬよう一層稽古に精進致します」であった。

優勝経験が一度もない北尾(双羽黒)が横綱に昇進できたのは、当時横綱が千代の富士1人で東西に横綱が欲しいという相撲協会の事情と、同時期に保志(後の北勝海)の大関昇進が確定的で北尾を大関に据え置きにすると一横綱六大関になり非常にバランスの悪い番付になるという事情があったからと言える。また北尾(双羽黒)の素質・年齢からいってそのうち優勝はできるだろうという甘い見通しがあったと見る向きもある。しかし横綱昇進後3回優勝争いに絡んでいるがいずれも千代の富士に敗れて優勝は出来なかった。従って番付は必ず西の正横綱か東西の張出横綱に甘んずることになり、東の正横綱の座に双羽黒の名前が載ることは遂に無かった。

双羽黒が活躍した時代は千代の富士の全盛時代であったが、対千代の富士戦は6勝8敗(横綱昇進後は2勝3敗)と健闘している。

1987年12月27日、師匠である立浪親方とのいさかいから部屋を出奔、そのまま破門同然の廃業という事態になった。部屋の若い衆が「あんなちゃんこが食えるかと横綱(双羽黒)が言っている」と師匠にいいつけたことが事の発端とも言われているが、双羽黒は立浪親方と大喧嘩、仲裁に入った後援会会長を殴るばかりか、同部屋のおかみさんにも怪我を負わせるという騒動を起こし、部屋を出ていってしまった(両者の言い分が食い違っていることと、公的な告訴もなかったため、実際に殴ったり怪我を負わせたかどうかは不明)。そして、立浪親方が「廃業届」を協会に提出、この事態を受け大晦日ぎりぎりの12月31日に日本相撲協会緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業を決議した(破門すべしとの意見も当然あったわけであるが、まだ24歳という青年の将来に配慮し、恩情的に廃業という形がとられた)。同日、双羽黒は記者会見を開き「相撲道の違いで師匠について行けない、自分を貫いた」と正式に廃業を発表した。既に発表されていた昭和63年1月場所の番付には、双羽黒の名が残っている。

怪我や力の衰えで引退したのではなく、師匠と喧嘩したあげくの廃業ということもあって、世間の見方は厳しく同情論はほとんど聞かれなかったものの、その素質を惜しむ声もあり、作家の野坂昭如などわずかではあったが双羽黒を支持した者たちもいた。翌年3月には東京都内のホテルで「断髪式」が行われたが、3月場所の直前ということもあって相撲協会関係者はひとりも出席しなかった(止めばさみを入れたのは父親であった)。

大相撲廃業後からプロレス入りまでの間は、ボクシングやアメフトなどからのオファーを断り、「スポーツ冒険家」という肩書きでタレント活動。テレビや週刊誌等の取材にもよく応じており、曰く「相撲はビジネスの一つ。未練は全くない」とのことであった。「週刊プレイボーイ」「ビッグコミックスピリッツ」等で人生相談のコーナーなども持ち、「大相撲をやめたからプロレスにいくんだろうとか思ってるかもしれないが、そんな安易な考えはない」と語っていた。

とはいえ「やはり北尾の進むべき道はプロレスしかない」という世間の見方は根強かった。そんななか「スポーツ冒険家」の仕事で、アメリカのプロレスラー養成所のひとつ・モンスター・ファクトリーを訪れる。そこで同行していた東京スポーツの取材に対し「(もしプロレスを)やるなら外人と同じように1シリーズごとに契約という形だね」と、初めてプロレス転向に色気を示す発言をした。その場は進展こそなかったが、この発言以降、プロレスへと傾倒していく。

そして1990年2月10日、新日本プロレスの東京ドーム大会でプロレスデビューすることになる。「アメリカで数ヶ月間、みっちり修行を重ねた」という触れ込みで帰国。リングネームは自身で考えたサンダーストーム北尾で(実際には使われなかった)、対戦相手はクラッシャー・バンバン・ビガロ。入場時のテーマ曲は「超闘王のテーマ」で、デーモン小暮作曲。黄色いタンクトップをリング上で引き裂くパフォーマンスを見せ、デビュー戦を勝利で終えた。この試合でのフィニッシュ技はギロチン・ドロップ。

試合運びやパフォーマンスは世界的人気レスラーハルク・ホーガンを意識したものだったようだが、身のこなしや技の切れはまだまだプロレスラーとしての説得力には欠けており、勝利を得たのはスター候補生としての特別待遇からだと誰の目にも明らかだった(ちなみに北尾が力士時代に付けられたアダ名は「超人ハルク」だった)。それでいて自信満々の態度で入場し、相手を挑発し、勝利に意気揚々としているなど、あまりの勘違いっぷりからプロレスファンの失笑を買い「帰れコール」が起きた。北尾の数年前に全日本プロレスでデビューした元横綱・輪島大士にも同様の特別待遇は見られたが、輪島は当時既に30代後半と体力的なピークは過ぎたとされており、また北尾のような勘違いした行動も見せなかったため、大相撲時代のファンから同情され温かい目で見守られる余地もあった。しかし北尾は20代半ばと若く、下積みの努力をすれば本格的なレスラーとしても通用するはずだと認識されていただけに、大相撲廃業時と同様に厳しい目に晒される結果となった。

それ以降も対戦相手に恵まれて勝ちはするものの、リング外での大口叩きやふてぶてしい態度、さらにはいつまでたっても「しょっぱい」ままで成長のない試合内容からプロレスファンの目は厳しかった。ほとんどの試合でブーイングや強烈な野次を浴びせられ、果ては対戦相手の二線級の外人レスラーに応援コールが沸き起こってしまう始末だった。本来ならば日本のエース選手にもなれる素質を持っていると見られているのに、日本のファンから見放され、完全にヒール扱いになってしまっていた。北尾がそれに不満そうな態度だったことも、ますますファンの反感を買う結果となった。

デビューは新日本プロレスだが、実際には所属レスラーではなくフリー選手扱いであり、程なくしてマッチメイカーの長州力と対立した。大相撲時代と同様に練習嫌いは直らず「今日は腰が痛い」といって練習をサボるようになり、長州力に対し『この朝鮮人野郎』と民族差別発言をして、新日本プロレスから契約解除を言い渡された。

新日本プロレスを解雇されると、大相撲の先輩である天龍源一郎を頼って創立間もないSWSへ参戦。しかし同じく元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク 元幕下・琴天山)との試合で反則負けを宣せられたあげく、マイクでテンタに対し『この八百長野郎!八百長ばっかりやりやがって!』と発言、さらに観客に向かって『こんな八百長試合を見て面白いのか!』と叫んだ。プロレス業界で「禁句」といえる八百長発言に、会場だけではなくプロレス業界全体が騒然となる(本人は「盛り上がっただろう?」と至ってご満悦だったようである)。内外から批判が渦巻いたことから、新日本プロレスに続いてSWSも解雇となった。これで大相撲だけではなくプロレス界も復帰不可能と見る関係者も多かった。

問題となったテンタとの試合でも、プロレスの試合を組み立てようとするテンタに対し、まともに技の受け合いをしようとせず、あげくの果てに目潰しのポーズをとって威嚇するなど(シュートを仕掛けたらしい)、目に余る態度だったのは広く知られている。なおテンタとの試合での目潰しポーズは、いわゆるサミング(親指による目潰し)ではなく、人差し指と中指を立てたもの。ポーズをとっただけで、実際の攻撃はしていない。この際も客席からは北尾に対するブーイングが巻き起こっている。

SWSを解雇された約1年半後の1992年に、総合格闘家として復帰。UWFインターナショナルや、初期のPRIDEなどにも登場していたが、高田戦におけるハイキックKO負けですべてが終わったと見るファンは多い。1994年1月には格闘技塾・北尾道場(後の武輝道場)を旗揚げし、道場生と共に天龍源一郎率いるWARを主戦場にした。1996年4月5日、第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティングでペドロ・オタービオと対戦し、1R5分49秒、グラウンドでの肘打ちで敗北。総合格闘技への復帰後は以前のような態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる謙虚さを見せ、昔を知るファンを大いに驚かせた。1997年10月11日、PRIDE.1において総合格闘技戦で初勝利を収めた直後、「やりたいことをやり終えた」として引退を表明、1998年10月11日PRIDE.4にて引退セレモニーを行った。

2003年9月、日本相撲協会所属ではないフリーの立場ながら、代替わりした立浪部屋のアドバイザーに就任。現役時代に使用した化粧回しを日本相撲協会に寄贈した。

この時、縁の無かった立浪親方(小結・旭豊勝照)と北尾を結びつけたのは、双羽黒が暴行したために集団脱走・廃業したと先代立浪親方(関脇・安念山治)が主張していた双羽黒の元付き人(幕下6・立田仲憲二、現在の世話人・羽黒海憲司)であると言われている。また、先代立浪には後年発生した立浪親方とのトラブルの他にも、「横綱・大関昇進の際の祝儀金の大半を先代立浪親方が先取りしていた」という北尾の指摘や、所属する幕下以下の力士への手当金を着服していたのではないかという疑惑など、金銭に関する不始末ともいえる問題が複数囁かれている。

また、双羽黒が廃業となった原因の大晦日のニュースで、当時の春日野理事長が先代立浪に対して突き放した発言を残しており、この事もこれらの裏付けとして世間では見られている。

この様な事から双羽黒の力士廃業の経緯についての先代立浪の主張については、後年に至りあらためて大きな疑義を抱かれる事となった。双羽黒の廃業の実際の原因についても、先代立浪の主張する様な粗暴行為ではなく、先代立浪が引き起こした金銭トラブルに巻き込まれ、この事で横綱の権威に傷が付く様な事態を引き起こされ(たとえば暴力団の関与など)、これにより相撲界から離れざるを得なくなったのではないか、という見方をする者も現れている。また、単純に双羽黒が粗暴行為などの問題行動だけで相撲界から飛び出したのであれば、保守的な体質で知られる相撲協会が、いくら外部の立場とはいえ北尾(双羽黒)の相撲部屋への関与を容認するとは考えにくいという見方も根強く、これも疑義を抱く者たちの一つの根拠になっている。

一方の北尾は度重なるトラブルに反省し人間的に成長したという見方も存在するが、大相撲廃業時の一件や、プロレス時代の悪印象から、世間一般の評価は回復していない(忘れ去られている)と言える。大相撲の人気低迷もあり、北尾が当代の立浪部屋と関係を修復したこと、近年になって横綱会に参加している事などはスポーツ新聞では報じられたが、相撲ファンを除けばほとんど知られていない。


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