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我が愛しのアスリート図鑑コミュのS・ハンセン(フロレス)

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スタン・ハンセン(Stan Hansen)のリングネームで知られるジョン・スタンリー・ハンセン II世(John Stanley Hansen II、1949年8月29日 - )は、デンマーク系のアメリカ合衆国テキサス州ナックシティ出身のプロレスラー。日本で最も成功したといわれる外国人レスラーの1人。通算来日回数131回。第32代AWA世界ヘビー級王者。第2代PWF会長。夫人は日本人。


大学時代はフットボーラーであったが、テリー・ファンクにスカウトされてプロレス入り。ファンク道場ではジャンボ鶴田やボブ・バックランドらとともにトレーニングを積んだ。1976年、マジソンスクエアガーデンで当時WWWF世界ヘビー級チャンピオンであったブルーノ・サンマルチノの首を骨折させた事件(ラリアットによるものとされていたが、実際はハンセンがボディスラムに失敗したアクシデントによる重度の頚椎捻挫)で有名になった。この一件後、ハンセンはサンマルチノとの遺恨劇でWWWFのリングを賑わせるが、以降はクラッシャー(壊し屋)の烙印を押されたために対戦を嫌われ、アメリカでの活躍の機会は少なくなる。

日本初参戦は1975年9月の全日本プロレスだが、まだ一介の若手であった。ただ、最終戦ではザ・デストロイヤーとのシングルマッチ(映像も残っている)が組まれており、初来日ではまったくふるわなかったという見方は正しくない。ジャイアント馬場はギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、当時の馬場のハンセンに対する評価は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。

サンマルチノ戦後の1977年に新日本プロレスに登場すると、エース級の働きをするようになる。1979年のMSG シリーズでは、アンドレ・ザ・ジャイアントを抑えてアントニオ猪木と優勝戦を闘い、1980年2月には猪木からNWFヘビー級王座を獲得した。以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開。「0.X秒の逆ラリアート」等のドラマを生み、タイガー・ジェット・シンを抜いて新日のトップ外国人レスラーとなった。また、1981年9月の田園コロシアムでのアンドレ戦も有名。ハルク・ホーガンとの強力タッグも話題を集めた。その圧倒的な強さは実況の古舘伊知郎に「不沈艦」と形容された。

1981年、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦に突如ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカー組のセコンドとして全日マットに再登場した。当時全日本と新日本は有名選手の引き抜き合戦の最中にあり、ハンセンの参戦は最大の事件として記憶されている。なお、前述の試合中に場外でテリー・ファンクへウエスタン・ラリアットを食らわせKOさせたことで会場は騒然となり、試合後もファンクスに対し暴行を加え続けたためジャイアント馬場が駆け付ける。この時馬場が放ったチョップでハンセンが流血し、通常よりも数倍速く威力もあるものと分かり、「馬場がキレた数少ない場面」として知られている(この事件は、新日のフロントに不信感を抱いたハンセンが、テリー・ファンクを通じて全日への移籍を決行したというのが真相。前日に馬場、ファンクス、ハンセン、ブロディ、スヌーカらがハンセンの登場のさせ方について十分に打ち合わせを行っていたことが著書「魂のラリアット」に書かれている)。正式移籍後は馬場(1982年2月4日の初の直接対決はプロレス大賞年間最高試合賞を受賞)や鶴田、天龍源一郎と戦うが、鶴田との試合は後述の理由のせいか、かみ合わない試合が多かった。また、旧友ブルーザー・ブロディと組んだ超獣コンビは圧倒的な強さを誇った(このコンビは日本マットでピンフォール負けしたことは一度もない)。ブロディとのコンビ解散後はテッド・デビアス、テリー・ゴディらとタッグを結成し、PWF世界タッグ王座、世界タッグ王座を数回獲得、最強タッグで優勝を果たした。また天龍とのコンビでも世界タッグ王座を獲得したほか、史上初の最強タッグ全勝優勝を達成する。

1985年12月29日には、ニュージャージー州イースト・ルザーフォードでリック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取し、米国での地位も確かなものとした。また、AWA王座在位中の1986年3月29日には自身の保持するのAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両王座とインターナショナル・ヘビー級王座を保持するジャンボ鶴田との間で日本初となるトリプル・タイトルマッチが実現した。この頃、ハンセンの髪型は短く角刈りになっている。

天龍、鶴田が去ったリングでも、四天王の壁として強さを見せ続けた。チャンピオン・カーニバルでは1992年と1993年で2連覇を達成した(2度とも決勝の相手は三沢光晴。なお、1992年は全勝優勝)。1990年代後半は衰えたと噂されながらも1998年(ベイダーとのコンビ)、1999年(田上明とのコンビ)と世界最強タッグ決定リーグ戦で2年連続準優勝で不沈艦健在を見せ付けた。

1990年には、レンタルという形で長州力とのタッグで再び新日本プロレスのリングに立っている。その時に、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士とも対戦している。武藤の場合は、グレート・ムタとしてWCWでタッグを組んだこともあった。

両膝の故障が元で2000年11月19日に引退を発表。2001年1月28日、東京ドームでのジャイアント馬場三回忌追悼興行で引退セレモニーが行われ、不沈艦はその長い航海を終えた。通常、全日本では選手が亡くなった時にしか10カウントゴングは鳴らさないが、ハンセンの功績を称えセレモニー中異例の10カウントゴングが鳴らされた。新日本・全日本の各選手が参列する引退セレモニーもまた異例のことであった。

引退後はPWF会長を2007年7月15日まで務め(後任は衆議院議員の馳浩)、地元の少年たちにスポーツを教えつつ、悠々自適の人生を送っているという。なお、地理教師の資格を持っている。

2006年夏、2人の息子が日米親善高校野球大会に出場するのに伴い来日した。遊撃手の兄、外野手の弟。2人とも右投げ両打ちであり、走攻守揃ったオールラウンダーである。ハンセン自身が指導して両打ちを教えた。

ウエスタン・ラリアット
ハンセンの代名詞とも言うべき技。前傾姿勢で突進し、利き腕の左腕を振りぬいて相手の首を刈り倒す。フットボールの技(現在は反則)からヒントを得て編み出した。以降クローズ・ラインの名で多くのレスラーが使うようになり、代表的なプロレス技のひとつ。

エルボードロップ
落とす瞬間、観客から「ディーヤー」と声がかかる。腰を落とした相手の背後から胸元へ叩きつけるエルボードロップは強烈で、新人時代の長州力はこの技に苦しめられ連戦連敗だった。それ以降、長州はこの技を好んで使うようになった。

ショルダーバスター
ボディスラムの要領で抱え上げ自ら片膝を付き、立てている方の膝に相手の肩を叩き付ける。試合中盤の痛め技として使用。

ドロップキック
あまり多用しないため目立たないが、フォームが美しく相手との距離をしっかり捕らえて打っていため、確かな威力があった。ブロディとのツープラトンは美しさが抜群だった。

逆エビ固め
地味な技ではあるが、ハンセンの逆エビ固めは腰をしっかりと落として決める為、時には中堅クラスのレスラーからもギブアップを奪うことがあった。AWAのベルトを奪取した決め技もウエスタン・ラリアットではなく、この技だった。
若き日のハンセンは、持ち前の馬力を利用したファイトスタイルをとっていたが、年齢ともにそれが通用しなくなると徐々にプロレス技のレパートリーを増やしていくようになった。上記の技のほかには、抱え式バックドロップ、高速ブレーンバスター、DDT、パワーボムなどを好んで使い、卍固めやドラゴンスリーパーを繰り出したこともある。

リングネーム全盛期にあって、当時としては珍しい本名でリングに上がり続けた。
現役時代はテンガロンハットにチャップス、ブル・ロープというカウボーイスタイルのコスチュームで、入場時には手にしたブルロープで近くの観客を手当たり次第に殴りつけ、「怖いガイジン」のイメージを通し続けたが、右手で牛の角の形を作り(テキサス・ロングホーン)「ウィー!!」という雄叫びで会場人気を集め、ブルロープで殴られることを求めてハンセンに近づくファンもいた。近づきすぎて軽いけがをしてしまうファンもいたが、ハンセンは試合後そのファンを控え室に呼び、侘びの言葉とともにサインをくれたという逸話もある。テンガロンハットは新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍前や全日本移籍直後の馬場とのシングル戦、1982、1983、1988年の最強タッグ最終戦や現役最後の試合などで観客席に投げ込んだことがある。
極度の近視のため、リング外では厚いレンズのメガネをかけている。リング上で手当たりしだいに暴れまわっていたのは、目の前がよく見えなかったためだと複数のレスラーが述懐している。ある試合でロープを振り回しながら入場していた所、高齢の女性にロープが直撃してしまったことがある。そのことに気付いたハンセンは、ひたすら「ソーリー」と謝っていたと言う。
入場の際に乱入したファンに怒り止めに入った若手選手に対し、花道でパワーボムを見舞ったことがある。
防戦一方となるシーンを滅多に見せなかった。つまり、攻め込まれてどんなにダメージを負っていても、そのままリングに倒れ込むことなく、必ず立ち上がって反撃した。馬場はこのファイトスタイルを「むちゃくちゃなリズムで読めない」と評しながらも、絶賛していた。
1980年代頃までは、試合後の暴れっぷりも凄まじかった。特に、引き分け裁定や負け試合の時には対戦相手に八つ当たりの乱闘を起こすのが常だった。それは乱闘を止めに入った中堅若手のセコンドにも矛先が向かうのも常道で、それは若かりし頃の三沢光晴や川田利明、にも及ぶことがあった。セコンドにウエスタン・ラリアットの洗礼を浴びせてグロッギーにしてしまうことも多々あり、受けたセコンドとすればたまったものではない半面、結果的にウエスタン・ラリアット見たさに足を運んだファンを満足させることにもなった。新日本時代には決まってラリアットを受けていた前田日明は、現役時代一番痛かったのはハンセンのラリアットだったと語る。(2007年10月4日放送のアメトーークにて)
ナチュラルなパワーではハンセンが間違いなくNo.1だろう。それが遺憾なく発揮されたのが上記の1981年、伝説ともなっているアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチである。この試合では体格で大きく勝るアンドレの攻勢にも一歩も引かず、ボディスラムやアームウィップ、さらには一本背負投(アイリッシュホイップ)でアンドレを投げ飛ばしたり(ただしアンドレは投げられる際足の力を抜いているのが映像でも分る)、真正面からのキックやパンチといったラフ殺法でもアンドレをこれまでにないほどに苦しめた。そして最後には、ウエスタン・ラリアットでアンドレを場外に吹っ飛ばしてしまった(試合はこの後、アンドレがセコンドから貰った右腕のサポーターを取るよう説得したレフェリーにラリアットを放ったアンドレの反則負け)。
やられたら必ずやり返す。1988年、テリー・ゴディとタッグを組んで龍原砲と対戦した際、龍原砲のサンドイッチの延髄斬りを食らって失神(天龍源一郎のそれがハンセンの顔面に入ったのが原因)し、数分間リング上で大の字になったことがあった。観客も実況席も衝撃のシーンだったが、失神から回復したハンセンの怒りは凄まじく、場外戦を繰り広げてる天龍を見つけるや過去にも見せたこともないトペを見舞い、その後はゴディにも阿修羅・原にも目もくれず、ひたすら天龍をメッタ打ちにしてしまった。その後の巡業中の試合でも天龍の試合に必ず乱入し試合をブチ壊してしまうため馬場に「もうやめろ。このままやるなら…」と言われて乱入をやめた。また、小橋健太(現・建太)にブルロープを奪われたことに激怒して椅子で滅多打ちし、小橋の腕にしばらく試合が満足にできなくなるほどの重傷を負わせたこともある。
ジャンボ鶴田は無名時代ともにトレーニングを積み、トミーの愛称で呼ぶほどの親友だった。本音では試合をしたくなかったのかもしれない。2000年の鶴田の死に際してはショックを隠し切れず、ハンセンが引退したのはその死から間もないことだった。
全日本に移籍してからも、前述のAWA王座奪取の他、1980年代半ばにはジョージア地区でトミー・リッチのタッグパートナーを務めたり、1990年代初頭には親交があったオレイ・アンダーソンの引きによりWCWへ短期間参戦しレックス・ルガーからUS王座を奪取するなど、アメリカマット界でも活躍していた。しかしそれ以降はアメリカのプロレス事情の変化もあり、ほぼ全日本参戦に専念することとなった。オフのときはアメリカの自宅でコンディションを整え、万全の状態で全日本にあがることだけを考えていたという。ほとんど毎シリーズ、全戦参戦していたというのも特筆すべきことである。また、全日本プロレスとは当初2年契約を交わしていたが、それが切れてからも互いの確かな信頼関係を基に、馬場はハンセンに往復航空券を送り、ハンセンもリングに上がり続けた。
全日本では外国人選手のリーダーとしての顔も持っていた。来日間もない頃のジョニー・エースやテリー・ゴディには、日本のプロレスの特徴から居酒屋での食事の仕方まで指導していた。そのためか、箸の使い方が大変上手である。
入場テーマ曲であった「サンライズ」はアントニオ猪木:炎のファイター、ミル・マスカラス:スカイハイ、ザ・ファンクス:スピニング・トーホールドと並んで一般にも知られているほど有名な曲(1980年・オリジナルアーティストはスペクトラム)であるが、これは全日本プロレスに登場の時にのみ流れる。新日本プロレスに参戦していた時の入場テーマ曲は『ウエスタン・ラリアート』という曲だった。また、「サンライズ」は今でも高校野球の応援やプロ野球珍プレー等で乱闘時のBGMとして使われている程人気が高い。一般には全日本プロレスのコンピレーションアルバムの音源が使われるが、スペクトラムのアルバムバージョン(2ndアルバム「OPTICAL SUNRISE」収録)の前奏と間奏を抜き出した編集でも作成可能。ハンセンの場合はこのスペクトラム版にさらに前奏としてケニー・ロジャースの「SO IN LOVE WITH YOU(君に夢中)」の前奏(馬の嘶きと駆ける音、鞭音もミックス)を付け、リズムの異なるこの二曲をスムーズに合体させるため、やはりスペクトラムの「Motion」のオルガン音を被せている。
1983年には、PARCOのCMに起用される。「狩人か、旅人か。」というキャッチコピーだったこのCMは好評で、電通作成の「広告景気年表」でも、この年の代表作の一つとして取り上げられている。
1990年4月13日、WWF・新日・全日三団体共催東京ドーム大会のメインでホーガンと対決し敗れる(当初、ホーガンの相手ははテリー・ゴディが予定されていた)。しかし当時、全米プロレス界の絶対神となっていたホーガンと同格の態度で試合ができたのは日本プロレス界ではハンセンくらいしかいなかっただろう。
2000年11月19日、馬場元子社長(当時)からハンセンの引退が発表され、そのまま引退試合は行わなかった。理由は「日本のファンに、強いスタン・ハンセンのイメージを持ってもらったまま引退したかった」と言う理由で、長年酷使してきたボロボロの肉体を、日本のファンに見せたくなかったからだと言う。
引退後のインタビューで「日本のファンはジャイアント馬場は弱く、アントニオ猪木が強いと思っているようだが、実際は猪木はそれほど強くない。逆に馬場はパワーファイターであり強かった」と述べて話題となった。猪木と馬場の両方と戦った者の貴重な意見と見る向きもある一方、馬場に重用されたため恩返しとして馬場を持ち上げているのではないかという見方もある。また当人はマスカラスにシュートを仕掛けられて反応出来なかった事実もある(マスカラスとは1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦で対戦し映像も残されている。ただしシュートを仕掛けたとする場面こそないがハンセンが仕掛けた技にマスカラスがバンプを取らず即座に反撃している様子が確認できる)。
馬場の色が無くなった全日本に今でも協力しているのは何故かという質問に対し「ババにはいろいろとよくしてもらい感謝している。そのババが作ったオールジャパンがどんな形だろうとある限り私は協力する」と答えた。
ファンク道場に住み込みで修業していた若手時代、同僚のジャンボ鶴田が日本から送ってもらったインスタントラーメンを空腹の余り食べてしまったという逸話がある。
食えないグリーンボーイ時代にブルーザー・ブロディと無銭飲食まがいのことをしたことがある。(自著「魂のラリアット」より)



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