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我が愛しのアスリート図鑑コミュのS・エドバーグ(テニス)

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ステファン・エドベリ(Stefan Edberg, 1966年1月19日 - )は、スウェーデン・ベステルビーク出身の元男子プロテニス選手。顔がハンサムなので「グラスの貴公子」と呼ばれていた。ビョルン・ボルグやマッツ・ビランデルのような、グラウンド・ストロークを武器にトップに躍り出る選手を多く輩出してきたスウェーデンにおいては異例の、サーブ・アンド・ボレーで世界の頂点に立った。ATPツアーでシングルス42勝、ダブルス18勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界1位になった数少ない選手のひとりに数えられる。身長187cm、体重77kg、右利き。

注1:新聞の一般表記は現地のスウェーデン語読みにより「エドベリ」となっているが、解説や雑誌記事などでは「エドバーグ」と言うことが多い。
1983年にプロ入り。18歳の時に、1984年ロサンゼルス五輪の「公開競技」で優勝を果たす。これはテニスがオリンピック種目に復活する前、21歳以下の選手を対象として行われたものである。(同競技の女子では15歳のシュテフィ・グラフが優勝した。)1985年の全豪オープンで同じスウェーデンのマッツ・ビランデルを決勝で破り、4大大会初優勝を達成。1987年の全豪オープン決勝では地元オーストラリアのパット・キャッシュを破り、大会2連覇を果たす。

注2:この大会は会場の移転に伴って、1985年12月 → 1987年1月と開催時期の変更があった。したがって「1986年全豪オープン」は“開催せず”となっているため、エドベリは大会2連覇を成し遂げた。
1988年のウィンブルドンにて、決勝でボリス・ベッカーを破って初優勝を達成。この決勝戦は試合途中の降雨のため、大会最終日の日曜日に終わらず、翌日の月曜日までもつれる異例の展開だった。この年は同国のマッツ・ビランデルがウィンブルドン以外の4大大会3冠を獲得したため、事実上スウェーデン勢が男子の4大大会シングルス・タイトルを独占したことになる。エドベリとベッカーは、1988年 - 1990年の3年連続でウィンブルドン決勝を戦った。1989年はベッカーが勝利を収めている。

1988年のソウル五輪から、テニスはオリンピック競技として正式に復活する。エドベリはソウル五輪にも出場したが、男子シングルスでは準決勝で“スウェーデン・キラー”と呼ばれたミロスラフ・メチージュ(チェコスロバキア代表)に敗れ、アンダース・ヤリードと組んだ男子ダブルスでも準決勝で敗退した。このソウル五輪では、準決勝敗退選手2名(ダブルスは2組)による「銅メダル決定戦」は行わず、両方に銅メダルが授与された。

エドベリは全米オープンでも、1991年と1992年に大会2連覇を達成している。エドベリの最後の4大大会優勝となった1992年全米オープン決勝では、後に4大大会優勝の男子歴代1位記録保持者となったピート・サンプラスに快勝した。サンプラスは4大大会決勝で「14勝4敗」の高勝率を残したが(78%)数少ない準優勝の1つがエドベリ戦の敗北だった。

ステファン・エドベリは全豪オープン、ウィンブルドン、全米オープンにそれぞれ2度ずつ優勝を飾り、4大大会通算「6勝」を挙げた。全仏オープンのみ優勝できず、1989年の大会で当時17歳のマイケル・チャンに敗れた準優勝が自己最高成績である。1996年に30歳で現役を引退し、2004年7月11日に国際テニス殿堂入りを果たしている。

エドベリはそのフェアプレーぶりでも有名で、1988年、1989年、1990年、1992年、1995年の5回に渡りATPのスポーツマンシップ賞を受賞している。その彼の功績を称え、ATPのスポーツマンシップ賞は1996年に「Stefan Edberg Sportsmanship Award」と名付けられた。

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