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我が愛しのアスリート図鑑コミュの伊藤 みどり(フィギアスケート)

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伊藤 みどり(いとう みどり、1969年8月13日 - )は、愛知県名古屋市出身の元フィギュアスケート選手。東海女子高等学校(現、東海学園高等学校)、東海学園女子短期大学卒業。身長145?。 アルベールビルオリンピックフィギュアスケート女子シングル銀メダリスト。1989年世界選手権優勝。

ジャンプの伊藤として世界的に名前が知られ、全日本選手権8連覇、女子選手として世界で初めて公式戦でトリプルアクセル(3回転半)を成功させるなど、女子フィギュアスケート界に数々の金字塔を打ち立てた。伊藤の突出したジャンプ技術は、それまで優雅に氷上を舞う芸術だったフィギュアスケートを、鍛え上げられたアスリートが技を競い合うスポーツへと変革させた。1989年、「もっとも高得点をとったフィギュアスケーター」としてギネスブックに掲載。2004年3月25日、日本人初のフィギュアスケート殿堂入り。2007年3月22日、開催中の世界選手権の会場で国際殿堂入りの表彰式が行われた。

4〜5歳の頃にスケートを始め、6歳から本格的なスケート競技に参加。中日スケートクラブで山田満知子コーチに師事。1980年に、小学校4年生で全日本ジュニア選手権で優勝し、同じ年にはシニアの大会全日本フィギュアスケート選手権で3位となり、「天才少女スケーター」と呼ばれるようになる。1984年のサラエボオリンピックは、14歳の伊藤は年齢制限で出場資格が無かったが、日本スケート連盟は、「オリンピック開催年に世界ジュニア選手権で3位以内に入れば資格を与える」という特例を活用し伊藤を五輪へ出場させるため、1983年の世界ジュニア選手権を札幌に招致。伊藤は3位となる。しかし、翌84年の全日本選手権では、規定で10位と出遅れ、ショートプログラムでは得意のダブルアクセルで転倒するなどのミスで5位、フリーで追い上げるも加藤雅子に次ぐ総合2位に終わり、日本人女子フィギュアの五輪出場枠が1人だったことから、伊藤は14歳での五輪出場を果たせなかった。

1985年、中学校3年生で全日本選手権で初優勝。以後、1992年の神戸大会まで優勝を重ね、渡部絵美と並ぶ史上最高8連覇を達成する(後に1996年の横浜大会においても優勝したため、通算9回優勝)。1988年に高校3年生で出場したカナダで開催されたカルガリーオリンピックでは、規定で10位と出遅れ、技術点では高い評価を得たものの芸術点が伸び悩み、ショートプログラム・フリースケーティングともにノーミスでありながら総合5位入賞(ショートだけでは4位、フリーだけでは3位)にとどまった。この大会で金メダルをとった東ドイツのカタリナ・ヴィットが「観客はゴム鞠が跳ねるのを見に来ているわけではない」と、暗に伊藤を揶揄したため、「フィギュアスケートは、芸術かスポーツか」という論争を生むことになる。

同年、愛知県のフィギュアスケート選手権において競技会では女子選手として初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させ、翌1989年、大学1年生でパリの世界選手権で優勝。日本人初、アジア人としても初のフィギュア世界チャンピオンとなる。この時技術的要素の評価において、「完全無欠」とする6.0満点を、ショートプログラム(エレメンツ)では9人のジャッジの内2人が、続くフリースケーティング(テクニカルメリット)では9人のジャッジの内5人が付け話題となった。続く1990年にハリファックスで開催された世界選手権では連覇が期待されたが、規定(コンパルソリー)で10位と出遅れ、SP(ショートプログラム)とフリー(サルコウがダブルになるミスがあったもののテクニカルメリットで6.0満点を3個獲得)、でともに1位と追い上げたが、惜しくも総合2位だった。続く1991年のミュンヘンでの世界選手権は伊藤の不得意だった規定が廃止となり、2年ぶりの優勝が期待されたものの、6分間練習中にレティシア・ユベールと接触したことから負傷し、さらにSPではコンビネーションジャンプのファーストジャンプのトリプルルッツは成功したものの、続くセカンドジャンプのダブルトーループの際にリンク外に飛び出すアクシデントがあり3位となり、この影響からかフリーでは前半の3つのジャンプにミスが生じ、総合4位となった。

翌シーズン最初の国際大会となった1991年10月のラリック杯は翌年に開催されるアルベールビルオリンピックで使用するリンクで開催され、オリンピックの前哨戦としてトップクラスの選手が軒並み出場する激しい争いが繰り広げられた。伊藤はオリジナル・プログラム(現在のショートプログラム)では、コンビネーションジャンプのファーストジャンプのトリプルアクセルの着氷を乱してしまう。しかし、続くフリーではトリプルルッツ−トリプルトーループとトリプルアクセル−ダブルトーループのコンビネーションジャンプを完璧に決め、途中トリプルフリップとトリプルループにミスはあったものの、最終的には6種類のトリプルジャンプを成功させ、技術点で6.0満点を1個獲得して1位となり、優勝する。この大会の優勝で、伊藤には翌年のオリンピックの金メダルの大きな期待が寄せられることとなった。この大会のフリーの直前練習ではトリプルアクセル−トリプルトーループのコンビネーションジャンプを成功させており、この大会と続く12月のNHK杯の頃が伊藤の技術力のピークであった。

伊藤自身の選手生活において集大成となった1992年のアルベールビルオリンピックでは、オリジナル・プログラムのコンビネーションジャンプのファーストジャンプを、トリプルアクセルからより確実性の高いトリプルルッツに変更して挑むも転倒。結果4位となり、自力での金メダルは絶望的となってしまった。しかしフリー演技で、前半の2つめのコンビネーションジャンプのファーストジャンプであったトリプルアクセルに失敗しながらも、体力的に大技は困難とされる後半に再度トリプルアクセルジャンプに挑戦し見事成功。日本人フィギュアスケート選手では初の銀メダルを獲得。金メダルを獲得したクリスティ・ヤマグチに対し、続く世界選手権が雪辱戦となると目されたものの、体調不良で出場辞退。本大会がアマチュア最後の試合となった。同年4月25日にプロ転向を正式に表明、6月28日に名古屋スポーツセンターでさよなら公演「アイスフェスティバル ミドリイトウ フォーエバー」を行い、アマチュア生活に別れを告げた。

1993年に世界プロフィギュア選手権大会で優勝。1994年同大会で2位。1995年、第10回インターナショナル・プロフィギュア選手権(チャレンジ・オブ・チャンピオン)優勝するなど、プロスケーターとしても世界の第一線で活躍を続けた。

1995年には一時アマチュア復帰し、迎えた1996年の全日本フィギュアスケート選手権では26歳でトリプルアクセルを成功させ、4年ぶり9度目の優勝を果たすが、同年の世界選手権は体調不良もあって7位と不本意な結果に終わり、再び引退。1998年開催の長野五輪の開会式では、日本に26年ぶりの聖火を灯す大役を担った。なお、この長野オリンピック実現において伊藤は重要な働きをし、1991年の国際オリンピック委員会総会に振袖姿で出席し、オリンピック招致を訴えるスピーチを行った。

以後、所属するプリンスホテルのアイスショー出演や競技会の解説者としての活動がメインとなる。

現在、グランプリシリーズの解説や、テレビ番組のゲスト出演、新聞・雑誌のコラム等の執筆、フィギュアスケート入門DVDソフトの出演、YAMADAグループのインストラクタ−(アドバイザー)などで活躍している。

伊藤の両親は伊藤が4歳の時に離婚し母親に引き取られている。母親は伊藤にスケートを続けさせるために早朝から深夜まで働きつづけたが次第にそれではまかないきれなくなりコーチに「スケートを止める」と言ったことがある。(現にみどりと一緒にスケートをならっていたみどりの実妹はこのときスケートをやめてしまった。)しかしその才能を惜しんだ山田満知子コーチは伊藤を引き取りスケートを続けさせた。伊藤がコーチ宅に居候をしながらスケートを続けた話はあまりにも有名である。怪我や芸術点での低すぎる評価など、「天才」と言われた彼女も平坦な道を歩いてきたわけではない。しかし氷上の伊藤からは、こうした苦労人の姿を感じ取ることは出来ない。ジャンプが決まれば大はしゃぎし、完璧にプログラムを終えると自ら拍手して喜ぶ。カルガリー五輪で競技中にガッツポーズをする無邪気な姿は、これまでの優美なフィギュアスケートでは考えられなかった。
伊藤は規定演技が苦手で、プログラムが始まる時には6位〜10位の場所から逆転しなければならなかった。しかし、男子選手をも圧倒する高さと安定感のあるジャンプ技術によって、ショートプログラム、フリーで一気に順位を上げてくることから、1981年の世界フィギュアスケートジュニア選手権の頃より、他国コーチ陣から津波に因んだTsunami Girl(ツナミちゃん)という愛称をつけられたこともあった。
フィギュアスケートには、踏み切りや着地の仕方によって多数のジャンプがある。アクセル、ルッツ、フリップ、ループ、サルコウ、トゥーループの六種類が、競技会でよく使われる。ノルウェーのアクセル・パウルゼンが考案した「アクセルジャンプ」は、この六種類のジャンプの中で最も新しく考案されたもので、最も難しいジャンプと言われている。通常のジャンプは後ろ向きに踏み切るが、アクセルは前向きに踏み切って後ろ向きに着氷するので、半回転分多く回らなければならない。当然、ジャンプの高さや飛距離を誤れば転倒や怪我の恐れがある。

伊藤がトリプルアクセルを跳ぼうとした当時、女子選手はダブルアクセル(二回転半)が限界で、男子選手でも世界のトップクラスの数名しかトリプルアクセル(三回転半)を競技会で使うことは無かった。その理由は、失敗の危険性が高かったからである。「表現力不足」を指摘された伊藤は、「技術力」によって点数を補うべく、トリプルアクセルの成功にかけた。80年代半ばに一旦完成をみるも、競技会では成功せず、やがて成長期を迎えたことで怪我のリスクを考え練習を中断。カルガリー五輪後の1988年5月、練習を再開。競技会で初めてトリプルアクセルに成功したのは、同年10月に地元名古屋で開催された愛知県選手権だった。そして、翌年の世界フィギュア選手権で成功させると、世界中の女子選手は、伊藤の独走を抑えるため、トリプルアクセルに挑むようになる。しかし、1992年のアルベールビル五輪までにトリプルアクセルを成功させた女子選手は、伊藤とトーニャ・ハーディングの二人だけだった。

伊藤は、アルベールビル五輪でトリプルアクセルを成功させたことで、女子フィギュアの歴史を塗り替えた。それから十数年を経た現在でも、女子選手でトリプルアクセルを成功させた選手は数えるほどしかいない。こうしてトリプルアクセルは、伊藤みどりというスケーターを象徴する技となった。

まず、トリプルアクセルで世に知られているように、速いスピードで滑りながらも確実に決めるジャンプ技術の高さが挙げられる。短い助走、離氷してからゆったりと回転を開始し余裕をもって着氷するスタイルで、なおかつ高さと幅があり飛距離が長いという、非常に質の高いジャンプを跳び、着氷後の流れも美しいことからジャンプ技術に抜群の定評があった。特に、幅に比しても高さは高く、氷面にナイフを突き立てるような鋭角的なジャンプが特徴的であった。今日に至るまで、6種類の主要なジャンプを正確に跳び分けることのできる数少ない女子選手の一人である。

しかし、伊藤はジャンプ技術だけの選手ではなかった。頭を大きく振り上げて入る高さのある豪快なフライングシットスピンや、高速スタンドスピン(アップライトスピン)、そして豊富なスピンのバリエーションに裏打ちされたコンビネーションスピンなど、当時としては最高水準の、軸がぶれない美しいポジションのスピンをこなす技術をも兼ね備えていた。

さらに、複雑な切れの良いステップ、ステップからのジャンプ、腰に手を当ててのダブルジャンプ、イーグルからのトリプルループやトリプルジャンプ直後のデスドロップなど、当時としては最難度の技を駆使していた(ウォーレイやトゥウォーレイのように主要な6種のジャンプに数えられない種類のジャンプも飛んでいる)。

そして、91年世界選手権のSPにおいてリンク外に飛び出すアクシデントからわずか2秒足らずでの演技再開や、92年アルベールビルオリンピックのSPにおいてトリプルルッツ転倒後助走なしでダブルトーループを垂直に跳ぶなど、伊藤は自己修復力(リカバリー能力)の高さも目を見張るものがあった。

途中いかに失敗をしても最後まで諦めず、精一杯の演技を披露する姿、さらにはよく「charming young woman」(愛嬌のある若い女性)と海外で紹介されていたように、決して奢らない謙虚な姿勢が、多くのファンを国内外に生む要因であったと考えられる。

また、前期は高い技術点に比し芸術点が大きく抑えられていたが、伊藤の内面からほとばしる自然な躍動感とスピードが影を潜めるのと引き換えに、後期には芸術点が上昇していった。前期の伊藤の演技こそが、真の伊藤の演技であるとの評価も少なくない。

伊藤は、世間に知られるトリプルアクセル以外にも、数多くの技のパイオニアである。パイオニアになるべく、伊藤は当時の男子のトップレベルの技を参考に練習に取り組んだ。以下は、女子選手としては初成功となった技の数々である。

トリプルトーループ−トリプルトーループ[世界ジュニア選手権では81年オーベルストドルフ、世界選手権では84年オタワ、五輪では88年カルガリー]  (*この記録は同時に、女子選手として初の3回転3回転のコンビネーションジャンプ成功も意味する)
ダブルループ−トリプルループ[世界ジュニア選手権では83年札幌、世界選手権では84年オタワ、五輪では88年カルガリー]
トリプルアクセルを除く5種類のトリプルジャンプ[世界ジュニア選手権では81年オーベルストドルフ、五輪では88年カルガリー]
トリプルアクセル(88年愛知県選手権)[国際大会では88年NHK杯、世界選手権では89年パリ、五輪では92年アルベールビル]
トリプルアクセルを含む6種類のトリプルジャンプ[公式戦では88年全日本フリースタイル、世界選手権では89年パリ]
トリプルルッツ−トリプルトーループ[国際大会では91年ラリック杯、NHK杯]
*男子選手としての初成功は、 トリプルトーループ−トリプルトーループは80年(ポーランドのグジェゴシュ・フィリポウスキー:この記録も同時に初の3回転3回転のコンビネーションジャンプ成功も意味する)、トリプルアクセルは78年世界選手権(カナダのヴァーン・テイラー)。

**ちなみに、女子選手としてトリプルアクセルのコンビネーションジャンプの初成功はアメリカのトーニャ・ハーディング[91年スケートアメリカSP(トリプルアクセル−ダブルトーループ)]。

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