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我が愛しのアスリート図鑑コミュの新庄 剛志(野球)

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新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は、阪神タイガース、ニューヨーク・メッツ、サンフランシスコ・ジャイアンツ、北海道日本ハムファイターズに所属していた元プロ野球選手で、現在はタレントである。長崎県下県郡美津島町(現対馬市)生まれ。出身地は福岡市南区寺塚。

現役時代の主な守備位置は外野手、たいていは中堅手だった。阪神タイガースで11年プレーした後、メジャーリーグに挑戦。2004年から日本プロ野球に帰り、北海道日本ハムファイターズに入団した。2006年にチームの25年ぶりのリーグ優勝、44年ぶりの日本一を見届け引退した。元妻は東京都出身で1992年クラリオンガールだった新庄志保(旧姓:大河内)。日本ハム時代の登録名は「SHINJO」。


一般的な野球選手のイメージとはかけ離れた華やかさ、独特の言動で知られる。野球選手としては屈指の強肩と俊足を生かした守備力を誇るが、打撃について調子の波があり、平均打率は2割台中盤が定位置で、首位打者や本塁打王などの個人タイトルを獲得した事は一度も無い。かつての指揮官野村克也には「打撃以外は一流」と評された。だが総合的に見ると日米通算安打は1523本であり、前述の守備力、俊足、意外性のある打撃などは一評価に値するだろう。

成績で目立つ選手ではなく、むしろセールスポイントの守備やセンターからのダイレクト送球など「記録はイチローくんにまかせて、記憶はボクにまかせて」と自身で語るように「記憶に残る」タイプの選手。「魅せる野球」にこだわり、独自に考案したファンサービスも積極的に行うなど野球人気に対する貢献度は高いと思われる。野球漫画家の水島新司は「新庄ほど常にファンのことを考え、楽しんでもらおうと思っている選手はいない。日本プロ野球界において、たった一人で球場を満員にできる唯一の選手だ」と評している。

そうした派手な言動が目立つ反面、周囲に対する気遣いも強く、パフォーマンスを行う際には、必ず事前に周囲に了解を得るなどしており、そうした人柄も人気を支える一因であろう。オールスターゲームのファン投票でも常に上位に入り、出場回数も多い。2006年の日本シリーズでも監督のトレイ・ヒルマンより先に胴上げされるほどだった。

2006年4月18日、同年限りでの引退を表明。自身のHPやテレビ出演にて概ね以下のように引退の理由を語っている。

守備の衰えと体力の限界
視力の低下(遺伝性の眼病によるものとされる)
足(左内太股)の故障
芸能界入りも視野にいれていた
引退発表からシーズン後半にかけてマスコミの注目度は日に日に増し、新庄のパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて報道された。

非常に甘党であり、市販のデザートにはヨーグルト等に付いている砂糖を入れて食べると言う。但し、粒餡は大の苦手であり、本人曰く「見ると、ゴキブリの卵を想像する」。

また、引退後の初仕事は「SMAP×SMAP」(フジテレビ系)のゲスト出演で、同番組にはMLB時代の2001年12月24日以来、これまで3回ゲスト出演。これがきっかけとなりSMAPとも懇意にして、木村拓哉ともプライベートで食事をする仲になる。

彼を指導した人物は多くその潜在能力を認める発言をしている。以前は「ジーンズがはけなくなるから」と下半身強化を全くせず、打撃練習も手に豆さえできないくらいで片付けていたが、それでいて打率こそ低いが20本塁打を何度も記録している。しかしアメリカで太股を肉離れして以降は誰よりもハードな筋力トレーニングで肉離れをカバーする筋肉をつけるトレーニングを一人続けており、岩本勉は鬼気迫る表情でバーベルを担いで片足屈伸を続ける新庄に圧倒されて声をかけられなかったという。

2007年3月1日には第44回(2006年度)ゴールデン・アロー賞「スポーツ賞」を受賞。選考の際は前年2月下旬に開催のトリノ冬季五輪女子フィギュアスケートで金メダルを獲得した荒川静香との争いになったと思われるが、話題となった時期の差や、荒川が五輪出場当時アマチュアであったためか(「受賞対象者はプロ選手に限る」との明文化はされていないが、スポーツ賞およびその前身の賞でアマチュア選手が受賞した例は、シドニー五輪女子柔道での金メダル獲得が評価された第38回=2000年度「特別賞」受賞の田村亮子のみ)、新庄に軍配が上がる。

現在は、タレントとして活躍、2007年8月18日・8月19日放送の日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』では女優の黒木瞳と共にチャリティーパーソナリティーを務めた。プロ野球界からは距離を置いており、野球評論も行っていないが、森本稀哲とは今でも連絡を取り合っているという(その24時間テレビ内で、巨人ヤクルト戦の中継を放送。「俺ならあの場面で(ホームラン)打てたんですけどねー!」と言ったのが、引退後初めてプロ野球にかかわった唯一の事例である)。また、新庄は爆笑問題が進行を務めていた同番組の深夜枠で、現役復帰に意欲を見せる発言をした。

1989年 ドラフト5位で阪神タイガースに入団。背番号は63。
1991年 初の一軍昇格。9月10日の巨人戦でプロ入り初安打を放つ。
1992年 亀山努と共に「亀新フィーバー」を巻き起こし、チームの大躍進に貢献。
1993年 背番号を5に変更。
1995年 「センスが無いので引退します」宣言。当時の藤田平監督との確執が噂されたが、後日引退を撤回。
1997年 打率2割1分と低迷していたにも関わらず人気は既に確固たるものでファン投票2位で出場した為、セリーグ応援団による集団応援ボイコット。スタンドから新庄帰れコールが続発しペットボトルが新庄に投げ付けられた。横断幕に「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」とのメッセージが書かれた。後に一番辛い出来事だったし耐えられなかったと語っている。実力よりも人気だけが先行する現実にも悩まされた。
1999年 巨人戦で槙原寛己投手から「敬遠球サヨナラ安打」を放つ。オールスターでMVPを獲得し、2年前の屈辱を実力で晴らした。
2000年 FA宣言。また、女優の大河内志保と結婚。
2001年 アメリカメジャーリーグのニューヨーク・メッツに入団。背番号は阪神時代と同じ5。
2002年 サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。日本人初のワールドシリーズ出場達成。同シリーズでの日本人初安打も記録する。
2003年 ニューヨーク・メッツに復帰するが、打撃不振でマイナー落ち。日本球界に戻り、日本ハムに入団。登録名はSHINJO、背番号は1。公式発表の前日、映画『バッドボーイズ2BAD』の特別試写会にて、非公式に観客に発表した。
2004年7月11日 オールスターゲーム第2戦(長野)でホームスチールを決めるなどの活躍により、MVPを受賞する。(オールスター寸前のペナントレースではお立ち台で「MVPは僕のものです!」と宣言した)なお、お立ち台で「これからは、パ・リーグです」と当時球界再編問題で合併の危機にあったオリックス・ブルーウェーブ、大阪近鉄バファローズ、そして一リーグ制移行論議の渦中で消滅の可能性にあったパ・リーグのファンを喜ばせた。そのお立ち台で最後にいった言葉は、自身が出演していたオロナミンCのCMの決めゼリフ「元気ハツラツぅ?」であった。
2005年 パ・リーグ開幕戦(対ソフトバンク)での始球式にオロナミンCのCMで共演した上戸彩が登場したが、先頭打者の新庄はバットの代わりにオロナミンCを持って入り始球式を挙行。その直後、「元気ハツラツぅ?」「オフコース!!」と、上戸彩とCMと同じやりとりをした。なお、この時の上戸はオロナミンCの宣伝で始球式をしたのではなく、対戦相手の親会社ソフトバンクが行っているYahoo!BBのキャンペーンのためであった。そのため新庄の持っていたオロナミンCには商品名を隠すシールが貼られていたが、誰が見てもそれが『オロナミンC』であることは明白だった。 
2005年6月5日 中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)で日米通算200号本塁打を達成(投手:山本昌)。
2006年4月18日 恩師の中村勝広監督率いるオリックス戦(東京ドーム)、この日の1本目の本塁打に「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と名付け、この日のヒーローインタビューで、突然の引退表明。この日を最後に打法命名を封印した。
2006年6月16日 広島戦(札幌ドーム)で、第1打席に日本通算200号本塁打を達成(投手:佐々岡真司)。
2006年9月15日 2007年夏の参院選への出馬を、自民党と民主党が要請していたことが判明。球団事務所は打診があったことを認めている。ちなみにその後新庄本人が断ったとのこと。
2006年9月27日 レギュラーシーズン最終戦のこの日限定で、背番号をプロ野球選手生活で最初に背負った63に変更。チームがレギュラーシーズン一位通過を決めた試合終了後、引退セレモニーを行った。

「ダイドーD-1コーヒー」SHINJO引退記念缶2006年10月2日 CM出演契約をしているダイドードリンコから『D-1 COFFEE』の「SHINJO引退記念缶」が12月までの限定発売。同時に『SHINJO引退記念キャンペーン』も展開された。
2006年10月26日 中日との日本シリーズの引退前の最終試合に於ける最後の打席では、涙でまともにボールが見えず3球三振であった(投手は中里篤史)。4勝1敗で日本ハムは44年ぶり2度目の日本一になった。日本一が決まると、トレイ・ヒルマン監督より先に選手・スタッフから胴上げされた(監督より先に選手が胴上げされることは異例である)。
2006年11月18日 札幌で行われた優勝パレードには、私服で参加。ファイターズの新庄としての最後の姿になった。
2006年12月21日 インテリジェンス社とCM契約を結ぶ。現役引退後最初のCMモデル出演で、同社(2006年夏までは学生援護会)が運営する転職雑誌・ウェブサイト「DODA(デューダ)」のCMに登場する。「よろおね」と名刺を差し出すと同時に必要以上に体をよじりながら上体を乗り出すなどする。
2007年1月28日 自身の公式ホームページ「CLUB SHINJO」を再開、HP上で今後の活動の方向性などを報告。
2007年12月28日自身の公式ホームページで女優の大河内志保との離婚を発表。

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