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我が愛しのアスリート図鑑コミュのR・バッジョ(サッカー)

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ロベルト・バッジョ(Roberto Baggio 1967年2月18日 - )(バッジオ/バッジォと表記することもある)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身のサッカー選手。 1993欧州年間最優秀選手、1993FIFA最優秀選手。03-04シーズンで現役引退。セリエA通算205ゴールは歴代5位。使用スパイクはデビューから引退までディアドラ(1999年、イタリア代表での試合など一時期のみkappaを使用)。

「イタリアの至宝」、「偉大なるポニーテール」と称され、現役を退いた今も世界中に多くのファンをもつ。華麗なプレースタイルはアレッサンドロ・デル・ピエロやフランチェスコ・トッティらが、その系譜となる。今ほどCSやBSが普及していなかった頃からすでに彼の名は日本でも知られていた。

趣味はハンティング。通称は「ロビー」、愛称は「コディーノ」(馬の尻尾。髪型に由来する)。親日家。

一言でいえばファンタジスタ。ポジションはセコンダプンタまたはトレクァルティスタ。重心の低いドリブルはスピードとテクニックを兼ね揃えディフェンダーは彼の間合いになる前にボールを奪う必要がある。シュートはコースをついたテクニカルさを持ち味とし、キーパーのキャッチしづらいコースを狙う。この点では、シュートとは「スピード」でなく「コントロール」が重要である、ということの証明であり現役選手のよき見本であろう。プレースキッカーとしても一流で、FKは非常に精度が高く、元ブラジル代表のジーコに「バッジョのFKは素晴らしい、もし同じ時代にプレーしていたなら習っていただろう」と言わしめた。 ここ一番の無類の勝負強さを持ち合わせており、代表、クラブのいずれでも発揮された。引退直前は、さすがに多少スピードは衰えたが絶妙なボールコントロールと見事な動きで得点感覚も衰えることはなかった。現役最終の03-04シーズンには、センターフォワードタイプではないにもかかわらずセリエA通算200得点(史上5人目)を挙げるという偉業も達成した。

カトリック信者の多いイタリアにおいては珍しい熱心な仏教徒(創価学会インターナショナル(SGI)の創価学会員)である。これは若手時代に膝の怪我で苦しんでいた頃に信心し、始めたものである。また、漢字で「必勝」と書かれたキャプテンマークを巻くこともあった。これは来日の際、創価大学サッカー部から特別にプレゼントされたもので、以後バッジョはそのキャプテンマーク、またはキャプテンマークから「必勝」の文字が消えた後も、創価学会旗の柄である黄・赤・青の3色ボーダー柄を好んで使用した(この三色ボーダーはチームが用意したのではなく、バッジョ自ら持参したもの)。バッジョはこのキャプテンマークを使用する前には、プラダのスカーフをキャプテンマークとして使用していた。また、バッジョの自伝に創価学会名誉会長兼創価学会インターナショナル会長の池田大作が端書を寄せていることからも、双方の親密ぶりが見て取れる。

キャリアを通じてイタリア国内リーグで活躍。1981年にセリエC1のヴィチェンツァでデビュー。1984-85シーズンに12得点を記録。1985年にはセリエAのフィオレンティーナに移籍した。ところがフィオレンティーナ移籍後まもなく右膝十字靭帯断裂の大怪我を負い、移籍直後の1985-86シーズンを欠場(コッパ=イタリアの試合には出場)、1986-87シーズンも数試合の出場だけにとどまってしまう。だが、怪我の回復した1988-89シーズンには15得点(ヴィオラはUEFAカップ出場)、1989-1990シーズンには17得点という活躍をした。

1990年、(当時)史上最高の150億リラという移籍金でユヴェントスに鳴り物入りで移籍。1992-93シーズンに21得点を挙げ、チームをUEFAカップ優勝に導いた。これはユヴェントスにとっては久々のヨーロッパタイトルだった。この功績・貢献が認められ、同シーズンのFIFA最優秀選手賞とバロンドールを受賞。

その後、自身のケガと若手のアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭するなか、若返りを推し進めるチームはライバルチームであるACミランへ1995年に放出してしまう。ACミランではファビオ・カペッロ(およびアリゴ・サッキ)監督が(ポジションが重なるためとはいえ)FWにはデヤン・サヴィチェヴィッチを重用、さらにバッジョ本人の怪我もあり、在籍2シーズン中は、さしたる活躍はできなかった。

しかし、ワールドカップシーズン直前の1997-98にボローニャに心機一転移籍すると、自己ベストの22得点をマークして結果を残す。このためイタリア代表監督チェーザレ・マルディーニ(当時)は、バッジョの召集を見送ることができなくなってしまった。

1998年から、再びビッグクラブのひとつインテルで2シーズン過ごす。しかしここでも怪我と(特にマルチェロ・リッピ)監督との確執によって再び出場機会が減少してしまう。

このインテル時代のハイライトは、2000年5月23日のパルマ戦(CL出場権プレーオフ)であろう。このシーズンは、スクデット争いにさえも参加できない低調で無様なシーズンであった。そのため、クラブ首脳陣はCL出場権を獲得しなければ、監督更迭をも視野に入れていた。この試合は、まさにバッジョのためのゲームだった。前半35分にFKで先制、同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点を奪う活躍を見せ、ガゼッタ・デロ・スポルト誌での評価点“10”を獲得(通常、最高評価点で有る10が出ることは滅多に無く、引退する選手へのご褒美もしくは生命を救った選手に与えられる)。この試合でバッジョは退団、有終の美を飾り、CL出場権を獲得したリッピは監督続投決定、というなんとも皮肉な結果に終わる。

2000年から、 ブレシアで4シーズンを過ごし、信頼するカルロ・マッツォーネ監督の下でいぶし銀の活躍を見せる。2004年5月16日のサン・シーロでのACミラン戦(2-4で敗戦)を最後に引退した。この試合で83分にバッジョの途中交代(コルッチが出場)を告げられると、バッジョに対してスタジアム全体からスタンディングオベーションが送られた。ブレシアの背番号10はクラブの永久欠番となっている。ちなみに、ブレシアのクラブショップでは彼の引退後も、新しいレプリカユニフォームにNo,10/BAGGIOのネームナンバーが入った物が発売されている。

独自の美学を貫いたため監督と意見が合わず、幾つもチームを渡り歩くキャリアであった(監督の立場としては、怪我が多く常時戦力と期待できない面もあった)。しかし、守備戦術が横行するファンタジスタ受難の時代においても、バッジョのサッカーセンスは何処でもまばゆい輝きを放ち続けた。

バッジョはW杯イタリア代表においての活躍が目立つ一方、欧州選手権にはキャリアを通じて縁がなかった。1988年11月16日オランダ戦がイタリア代表デビュー。'89年4月22日ウルグアイ戦が初ゴール。1990年イタリア、1994年アメリカ、1998年フランスワールドカップに出場し、3位、準優勝、準々決勝進出と、いずれもベスト8に入った。ちなみに3大会の敗退はいずれもPK戦によるもので、バッジョは3大会ともPKキッカーをつとめている。

1990年イタリア大会

1990年の地元開催では、同じポジションにロベルト・マンチーニがいたためスーパーサブ的立場であったが、グループリーグ第3戦目のチェコスロバキア戦において、中盤から単独ドリブル突破を仕掛け、ディフェンダーを次々と抜き去ってゴールを決めた。この得点は、大会のベストゴールのひとつと数えられ、バッジョはイタリア代表の新たな旗手として世界に名を知られることになった。バッジョ自身のサッカー人生にとっても間違いなくハイライトとなるゴールのひとつである。しかし当時は、同じサブメンバーからついには大会得点王になった”救世主”サルバトーレ・スキラッチほどは注目されなかった。それだけ、スキラッチの活躍は眩いものであった。順調に勝利を重ねて迎えた準決勝。相手はマラドーナ率いるアルゼンチンであった。この試合、なぜかビチーニ監督はバッジョをスタメンから外し、変わって不調に陥っていたジャンルカ・ヴィアリを先発させる。その時のヴィアッリの発言である「ハードな試合にはハードな男が必要なんだ」の発言は余りにも有名。 結局イタリアはアルゼンチンに1-1に追いつかれた後、PK戦で破れてしまい、バッジョを先発させなかったビチーニ監督に非難が集中した。フル出場した三位決定戦のイングランド戦ではピーター・シルトンの致命的なミスを付いて先制点を記録し、さらには決勝点となるPKを誘い(蹴ったのは大会得点王のかかったスキラッチ)、幻に終わった試合終了間際のゴールの基点となるなど、存分に持ち味を発揮した。

1994年アメリカ大会

バッジョが出場した3大会で、最もその存在感を示したのは1994年のアメリカワールドカップであることは間違いない。ヨーロッパ予選では、イタリアの10番、まさにエースと呼ぶにふさわしい活躍でチームを本大会出場に導く。さらには前年の1993年にバロンドールを受賞していたこともあって、周囲の期待は大いに高まっていた。ところが大会直前に右足に怪我を負ってしまう。一抹の不安を抱えたまま、ついに1994年ワールドカップを迎えた。

不安は現実となり、予選グループ初戦を落としたイタリアは、1勝1敗1分けで辛うじて決勝トーナメント進出という低調にあえいだ(当時の規定でグループ3位ながら救われた)。気温40度を超すピッチで「ゾーンプレス」戦術が機能しにくかったことが苦戦の原因だが、無得点と精彩を欠くバッジョへの風当たりは厳しく、地元メディアはジャンフランコ・ゾラへの交代を唱えた。さらに屈辱的だったのは、第2戦ノルウェー戦でペナルティーエリア外での故意のハンドの反則をしたGKジャンルカ・パリュウカが退場処分となった際、アリゴ・サッキ監督が控えGKルカ・マルケジャーニの投入のためにバッジョをベンチに下げたこと(このとき、バッジョはサッキに対して「狂っている」と漏らしたといわれる)である。試合後に監督は「(足を怪我して)走れないバッジョを人数の少なくなった状況では使いづらいから」と説明したが、エースと監督の信頼関係は微妙なものになっていった。

しかし、チーム内は徐々に意識統一が明確となり、サッキは1人の力に依存する方法に否定的ではあったが、選手達にはバッジョを中心とした攻撃態勢が整いつつあった。 決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦も先制を許し、しかも反撃の切り札で投入したゾラが退場処分となり1点を追い掛ける苦しい展開になった。しかし、試合終了直前の89分、ついにバッジョが劇的な同点弾を決め、延長戦でもPKを沈めてエースの真価を証明した。同点弾は冷静にコースを狙ったバッジョらしいシュートで、地元新聞は「アズーリを帰りの飛行機のタラップから引きずり下ろした」と見出しを打って賞賛した。

その後も、眠りから醒めたようにバッジョはゴールを量産した。準々決勝のスペイン戦でも再び終了直前にカウンターから決勝点をあげて、2-1で勝利。準決勝のブルガリア戦でも続けざまに芸術的な2得点を挙げて2-1と勝利した。決勝トーナメントの準決勝までの3試合でチーム6得点中5得点、どのゴールも試合を逆転・決定するもので、酷評から一転して救世主扱いとなった。しかし、準決勝で右足を再び痛め、決勝への出場が危ぶまれた。

決勝のブラジル戦はバッジョとロマーリオのエースFW対決(大会得点王争い)が見所のひとつであったが、バッジョは強行出場したものの精彩を欠き、試合はワールドカップ決勝史上初のPK戦となった。ブラジルがリードを保ったまま最終キッカーであるバッジョの番となるが、ゴール上に高く打ち上げてしまい、イタリアは優勝を逃した。このPKには3つほどの見解がある。ブラジル、イタリア国内(世論)、そしてバッジョのものである。 一つ目のブラジルでは大会中に悲劇の死を遂げた同国のアイドル、「アイルトン・セナの手だ」というもの。(バッジョのシュートは空高く吸い込まれていったことから) 2つ目のイタリアでは「筋肉疲労と、極度の緊張、暑さからだ」というもの。 そして最後のバッジョの見解であるが、「仏陀からの究極の問いかけである」というものの3つである。 ちなみに、バッジョは今だ答えを見つけることは出来ていなくさらにはあの出来事をまだ夢で見ることも幾度となくあるそうだ。 このとき撮影された、呆然とするバッジョの後姿の写真はあまりにも有名である。
あまり語られないが、仮にバッジョが成功したとしても後攻のブラジルが成功すればブラジルの勝利だった。
大会MVPはロマーリオに譲ったが、バッジョは悲劇の英雄としてサッカーファンの胸に感動を刻んだ。しかし、後にサッキ監督がバッジョのスタメン志願を「チームに不利益を招いた」と非難し、しばらく代表から遠ざかる結果となった。

1998年フランス大会

1998年フランスワールドカップではデル・ピエロに10番を譲ったが、負傷開けの後輩に代わり、要所でベテランらしい仕事ぶりを見せ、2得点1アシストをマークした。まず初戦チリ戦で先発出場し、因縁のPKを決めてトラウマを払拭。準々決勝のフランス戦では途中出場し、延長後半に決定的ともいえるボレーシュートを放つ。難しい体勢からながらも全盛期のバッジョを彷彿とさせる一瞬であったが、イタリアにとっては惜しくも(そしてフランスにとっては胸をなでおろす)ボールはクロスバーを越えていった。結局、イタリアは3大会連続PK戦敗退という失望を味わうが、今回最後に失敗したルイジ・ディ・ビアージョを優しく慰めるバッジョの姿が印象的であった。

1998年以降

1999年以降は代表からは遠ざかる。現役引退を表明後の2004年4月28日にジェノヴァで行われたスペインとの親善試合にキャリアへの敬意から特別招集され、この試合を最後に代表を引退した。 尚、ロベルト・バッジョのイタリア代表ゴール数は56試合27ゴール。そのうち得点を決めた試合の成績は22試合中18勝4分で“バッジョが点を決めれば負けない”神話を持つ。



コメント(1)

アメリカ大会の決勝は、会社に行く時間なのにPKまでいったので焦りながらも見てました
バッジォが外した背中を見てから慌てて出かけたのであの大会はバッジォの後ろ姿の印象が強いです
髪型もだすがアクセつけてましたし

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