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我が愛しのアスリート図鑑コミュの宇野 勝(野球)

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宇野 勝(うの まさる、1958年5月30日 - )は、中日ドラゴンズ・千葉ロッテマリーンズで活躍した千葉県八日市場市(現・匝瑳市)出身、銚子商業高校卒業のプロ野球選手。愛称は、ウーやん。1980年代の中日ファンに最も愛された選手の一人であり、また、中日ファン以外からも人気があった。引退後10年たった2004年から、古巣の中日で打撃コーチを務める。

千葉県の強豪・銚子商業のショートを守っていた時、中日ドラゴンズのスカウトが甲子園で三遊間の深い位置に転がったゴロをさばいて強肩で打者走者を刺した守備力を評価してドラフトで指名したという話がある。同じ学年の神奈川・東海大相模の原辰徳三塁手から電話で『東海大学で三遊間を組もう』と誘われたが、家が豊かでなかった宇野は、原より先にプロで金を稼がせてもらおうと中日ドラゴンズの誘いを受けて高校からプロ入りに踏み切ったと言われる。守備位置は、内野手(ショート、サード、セカンド)・外野手(レフト)。長距離打者で、1984年の本塁打王のタイトルも獲得して、ベストナインにも選出されている(その他に1982年・1987年)。ただし、三振の多い打者であった。右投げ右打ち。自身の1シーズン最多本塁打は、41本塁打で、遊撃手のシーズン本塁打としては最高である。また、中日時代に打った334本塁打も中日球団記録となっている。

成績もさることながら、あまりにもヘディング事件(後述)の印象が強く、現在まで続く「珍プレー好プレー」の番組誕生となる礎を作ったともいえる点で、ある意味プロ野球のバラエティー化に高く貢献したといえる。

全盛期には、8月に調子を上げてホームランを量産することからファンやマスコミから「ミスターオーガスト」と呼ばれた。全盛期の打順は長距離打者らしく5番が定位置であった。

日本シリーズには1982年と1988年に選手として、2004年と2006年にコーチとして4度とも中日側から出場しているがいずれのシリーズも敗退して涙を呑んでおり、日本一経験は一度もない。尚、1988年に出場した日本シリーズでは敢闘選手賞を受賞している。

1976年 全国高等学校野球選手権大会出場 (銚子商業高校)
1977年 ドラフト会議で中日に3位指名で入団。
1988年 星野仙一監督時代の中日の優勝の原動力となる。日本シリーズで敢闘選手賞を受賞。
1993年 立浪和義との競争に敗れ、地元球団のロッテにトレードで移籍(中日の宇野・長島清幸、ロッテの今野隆裕・横田真之のトレード)。中日で10年間共にプレーした平野謙と再会する。
1994年 成績不振・出場機会減少により引退表明。
また、小松辰雄と並んで星野仙一のお気に入り(子分)であった。第一次星野政権で監督の現役時代を知る選手で放出されなかったのはこの2人だけである(星野の任期中に引退した鈴木孝政と、当時外国人枠であった郭源治は除く)

チームメイトは、落合博満・バンス・ロー・郭源治・彦野利勝・中尾孝義・小野和幸・小松辰雄・長島清幸など、ライバルは、掛布雅之(阪神タイガース)、原辰徳(読売ジャイアンツ)など。

1981年8月26日の対巨人戦(後楽園球場)において、ショートを守っていた宇野が、山本功児の打った打球を捕球しようとしたが、ナイター照明が目に入りその残像でフライの目算を誤りヘディングしてしまう事件があった。ボールはレフト線へ転々。投手で先発の星野仙一は完封目前であったがこのエラーで失点となった。

このとき、巨人は2シーズンがかりで連続得点試合記録(この日までに158試合連続)を更新中で、星野と子分格である小松辰雄ら主力投手陣の間で星野が巨人の記録を止めるか否かを賭けていた(最終的に巨人の連続試合得点は9月21日に小松が止めた)。このことを宇野は当然知っていたため、失策後は珍プレーと見られ、逃げ出しそうにも見える何とも言えない表情となった。イニング終了後、ベンチに恐る恐る戻ってきたところ、直後はホーム横で派手にグラブを叩きつけ感情を露わにしていた星野が「宇野の石頭には参ったよ」と冗談を言うことによってフォローしてくれたことを宇野は感謝したという(ちなみにこの日は2-1で中日が勝ち、星野は9回3安打、1失点、自責点無しに抑えている)。このあと星野は賭けに勝った投手陣の面々を焼肉に連れ出さねばならなくなってしまった。星野が完封していたら=賭けに勝っていたらどうなったのかは未だ謎である。

このプレーで宇野がそらしたボールをバックアップしたのはレフトを守っていた後の日本ハムの監督となる大島康徳である。前述の星野(後の中日・阪神監督)、山本(後のロッテ監督)を含めこのプレーの関係者は宇野本人を除き後に監督となる大選手ばかりである。このような大選手が複数かかわっていたことも(他に同様のプレーをした選手が数名いるにもかかわらず)宇野の珍プレーが有名になった一因であるといえる。

この日のエピソードとして、「この日の試合後、星野が落ち込む宇野を慰めようと食事に誘い、運転中に宇野の車に追突された」というものがある。しかし、この日はビジターでの試合であることと、宇野自身が雑誌のインタビューで「試合終了後、宇野を気遣った星野から食事に誘われたが、千葉から兄が上京していたため断った」と言っていることから事実ではないと思われる。しかし別の日、地元名古屋での試合後、星野から食事に誘われた宇野が星野の車の後について移動していた時に、星野の車に追突したというエピソードもある。おそらくその方が宇野らしい話として2つのエピソードが合成されてファンの間で伝わったものと思われる。ちょっとしたエピソードが「伝説化」するほど宇野のキャラクターはファンの間で愛されていたと言える。実際はファインプレーも多く、守備は上手かったとされる。ただし「取れそうな打球が取れなくて、普通では取れない打球を取ってしまう」ことから、投手陣には守備に対してあまり信頼が無く、二桁エラーの常連であった。毎年、契約更改の記者会見やキャンプで「チームに迷惑をかけないように、エラーを減らしたいです」と決意表明するのが恒例となっていた。

このことがきっかけで『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』という番組が定着し、宇野の知名度も全国区となる(1980年代の珍プレーとしては宇野のほかに広島東洋カープの達川光男も常連で、現在放送される番組の中で登場する1980年代のシーンはこの二人で半分ほどを占める。また、このプレーの時の投手である星野も監督就任後に主に乱闘シーンで登場する常連となった)。珍プレーの常連だが、ファインプレーの常連でもあった。これは宇野勝の珍プレーはファインプレーを行おうとして失敗がダイナミックに見えると言う見方もあった。

後にTBS系テレビ「風雲!たけし城」でこの出来事をモデルにしたゲーム「君も宇野君」が登場した。

ちなみに、これと同じ日に、江本孟紀の「ベンチがアホやから野球がでけへん」発言があった。

引退後、名古屋の米穀会社のCMに出演した際には、米袋をヘディングするという演出だった。

高校時代、同い年の原辰徳からの電話で「宇野君、ボクと一緒に東海大で三遊間を組もうよ」と誘われるが、「あんな人気者と一緒にやるんじゃ、活躍してもちっとも目立たないから面白くない」と思いプロへ進む。
一般的に遊撃手は守備での負担が大きいと言われるが、宇野の場合三塁手や外野手として出場すると逆に打撃不振になることが多かった。
1984年に阪神の掛布雅之と共に本塁打王を獲得している。この年の129試合目、最終戦は阪神戦であったが、両軍投手による掛布、宇野の敬遠合戦の末、両者が本塁打王を獲得した。129試合目には満塁で打席が回ってきた際にも歩かされて、「敬遠で押し出し」を記録している。
中日時代にユニフォームを忘れて球場に来て、背番号77を付けていた飯田幸夫コーチから借りて試合に出場したことがある(宇野の背番号は7)。相手チームの野次の中、宇野はその試合でホームランを放つ。彼のおおらかさと度胸を示すエピソードである。そして2004年から中日コーチとしての宇野が、その背番号77を付けている。また、真偽は定かではないが、高校時代、試合当日に自宅からユニフォームに似たパジャマを持って球場にやってきたことがあるという。
ヘディング事件の後、本人は好珍プレーで毎回のごとく紹介されるのを嫌がっている(その一方で『他人の珍プレーは面白い』とも発言している)が、その割りに著書『ヘディング男のハチャメチャ人生』で「(ヘディングは)やって良かった。感謝している」と書いている。残念ながら著書は現在絶版である。
ヘディング事件ばかりがクローズアップされがちであるが、成功率の低い盗塁を度々敢行していることも宇野の特異さの象徴となっている。78盗塁に対しなんと96の盗塁死を数えている。
1988年のオールスター後の放映された日本テレビ系の珍プレー番組に出演した際に、自身のヘディング事件の映像を見て「忘れてましたね」とコメントした。
自身が解説を務めたナゴヤドームでの中日-阪神戦で延長突入後、中日のサード福留孝介が決勝点となるタイムリーエラーをしたのを見て、「下手ですね〜」としみじみと語っていた。人のこと言えるのかと突っ込みたくなる視聴者もいただろうが、実際には現役時代の宇野はショートの守備は特に下手ではなく(異論はあるが)、強肩でも知られていた(ただしスローイングは不安定)。守備能力を買って中日がドラフト指名したほどである。難しい打球をさばくのは上手だが逆に簡単な打球でエラーすることが多く、そしてあのヘディング事件に代表されるようにフライの捕球技術も低かった。
本塁打王獲得の翌年(1985年)に前夫人と離婚したが、その原因は前夫人の浪費によるものだった。給料を球団管理に置くなどしたが、結局離婚の際、それらの借金(約8000万円といわれる)を宇野は全て自分で引き受けたが、前夫人の悪口は一言も口にしなかった。心労もあってかこの1985年の成績は不振だったが翌年は41本塁打と活躍している。後に、中部日本放送(CBC)の女子アナウンサーだった現夫人と再婚している。
横浜スタジアムでの大洋戦でライトのエラーで出塁したものの、調子に乗って走った挙句、一塁走者の大島康徳を追い抜いてアウトになるという珍プレーをやらかし、やはり年末の『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に大きく取り上げられることとなった。但しこれに関しては、打球を追い続けて走り出そうとしなかった大島のミスであったという説もある。それでもこれは宇野の珍プレーとして、特に前述のヘディングと共に、フジテレビ系の番組でみのもんたのナレーションで放送されることが多く、フジ系のゲストに呼ばれる事が多い。
1992年、シーズン前の目標を聞かれ、「3割、30本、3盗塁」とテレビカメラの前で宣言したが、その年のオフに千葉ロッテにトレードされた。
余談ながら、その後西武ライオンズに在籍していた鈴木健も同じ目標を口にしたが、鈴木も宇野同様、その年のオフにヤクルトスワローズにトレードされている。
ロッテ時代、先発投手の吉田篤史が打球を受けてベンチで手当てを受けている間、ショートの守備位置を離れマウンドで投球練習を開始。これを見た日ハムの小川淳司が打席に入り、宇野の投じた球を打ち返した。打球は両手を広げた右翼手・マックスの頭上を越えて行き、場内が笑いに包まれる中(といっても観客席は満員には程遠かったが)、苦笑を浮かべた宇野は、ガックリと膝をついた。
落合博満と打撃の話で何度も徹夜したという。落合は打撃に関して宇野をかなり信頼しており、監督就任時真っ先に打撃コーチとして声をかけている。
2004年の落合監督初優勝の翌日川崎憲次郎の引退試合で、1回終了後、川崎の胴上げを中日、ヤクルトの両チーム選手がしようとしたとき、コーチでは宇野のみが飛び出し、しばらくしてから気づいてベンチへ戻っていった。珍プレーで登場するクラスのネタと思われるが、未だ珍プレーでの映像の放映は確認されていない。
現在ナゴヤドームの試合終了後、ベンチからスタンドへサインボールを投げ入れるサービスをしており、ファンを大事にする一面もうかがえる。また、1度だけだが、井上のグラブを一塁側スタンドに投げるふりも見せた。
中日時代はシーズン30本塁打を何度も記録し、何度もベストナインに選ばれたにもかかわらず、当時のセの遊撃手には他にも人気・実力を兼ね備えた遊撃手が数多くいたため、オールスターにはなかなか出場出来なかった。逆にロッテ移籍後には、どん底の成績にもかかわらずファン投票で選ばれたことがある。
応援歌は「ウルトラセブン」のウルトラ警備隊のテーマであった(ウルトラセブンの主題歌は既に石毛宏典に使われていた)。


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