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我が愛しのアスリート図鑑コミュのC・シリング(野球)

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カート・シリング(Curtis Montague (Curt) Schilling、1966年11月14日 - )はアメリカ合衆国アラスカ州アンカレッジ出身の野球選手。フルネームはカーティス・モンタギュー・シリング(Curtis Montague Schilling)。投手、右投右打。現在はMLBボストン・レッドソックスに所属している。

150km/h台の速球とスプリッターに加え、抜群のコントロールを武器に3度300奪三振を達成している。

現在まで3度、"穴馬" チームにおいてリーグ優勝した経験がある。1993年のフィラデルフィア・フィリーズ(前年のナ・リーグ東地区最下位)、2001年のアリゾナ・ダイヤモンドバックス(球団創設後最短年数での優勝)、2004年のボストン・レッドソックス(ポストシーズンのヤンキース戦で0勝3敗からの逆転劇)。またワールドシリーズを3度制覇している(2001年、2004年、2007年)。


アラスカ州アンカレッジ出身。シャドウ・マウンテン高校を卒業後、アリゾナ州プレスコットのヤバパイ短期大学に入学。1985年のJUCOワールドシリーズ制覇に貢献した。


1986年、ボストン・レッドソックスからドラフト2巡目で指名され契約。1988年ボストンのマイナーからマイク・ボディカーとの交換トレードでブレイディ・アンダーソンと共にボルチモア・オリオールズへ移籍。同年9月7日にオリオールズでメジャーデビューしたが、ブロンドの髪に青いラインを入れたため保守的なフランク・ロビンソン監督を怒らせた、ということくらいでしか知られていない存在だった。

ヒューストン・アストロズで投げた1991年シーズン終了後、シリングはロジャー・クレメンスから、「君は時間を無駄にしている」と2時間に及ぶ大説教を受けた。クレメンスから努力することの大切さを学んだシリングは、今までのやり方ではダメだと気づき、それまでとは「まったく違うアプローチ、視点、態度でゲームに臨む」ようになった[1]。翌1992年からフィリーズに移籍したシリングは、それから2000年までの8年以上、フィラデルフィア・フィリーズでエースとして活躍した。

1993年には16勝7敗・防御率4.02・186奪三振の成績を残し、フィリーズのペナント獲得に大きく貢献。ナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ(NLCS)ではディフェンディングチャンピオンのアトランタ・ブレーブスを相手に番狂わせを演じる立役者となった。自身に勝敗はつかなかったが、シリーズの6試合において防御率1.69・19奪三振の活躍でNLCSのMVPに選出された。ワールドシリーズでもディフェンディングチャンピオンのトロント・ブルージェイズと対戦。第1戦では負け投手となるものの、本拠地ベテランズ・スタジアムでの第5戦を被安打5で完封、チームも2−0の勝利を手にした。しかし第6戦では、ミッチ・ウィリアムズがジョー・カーターに3点本塁打を許し敗戦、ブルージェイズの2連覇でワールドシリーズは幕を閉じることとなった。ウィリアムズがマウンドにいる間シリングは、白いタオルで顔を覆う姿(これがさらにチームメイトの不安を煽った)をカメラに何度も撮られるなど、終始落ち着かない様子をしていた。

フィリーズはその後暗黒時代に突入。自身は1997年と1998年に2年連続で300奪三振を達成するなど回復を見せるも、次第に不甲斐ないフロントへの不満を口にするようになり、最終的にトレードを要求するに至った。

2000年のシーズン途中にダイヤモンドバックスへトレード。アリゾナにおける2001年はレギュラーシーズン22勝6敗・防御率2.98、ポストシーズン4勝0敗・防御率1.12の大活躍だった。ダイヤモンドバックスがニューヨーク・ヤンキースを7試合で下しチーム初の栄冠を手にすることになる同年のワールドシリーズでは最優秀選手賞をランディ・ジョンソンと分け合い、二人はまたSI誌の2001年度 "スポーツマン・オブ・ザ・イヤー" にも選ばれた。2002年には23勝7敗・防御率3.23を記録。2001年・2002年ともにサイ・ヤング賞の投票においてジョンソンに次ぐ2位につけた。

2003年6月末、審判技術向上のため導入されていたクエステック・システムの監視カメラをバットで破壊したことがある。これは非難されるべき行為には違いないが、シリングの「あんなカメラに左右されるなんて、冗談じゃない! これまでストライクとコールされた球が、ボールとコールされる。しかもスタジアムにカメラがあるなしでコールも変わる。最悪のシステムだ」という主張は、同システムに不満を感じていた一部のメジャーリーグ関係者から強い支持を集めた


2003年は故障のためシーズンを通じての活躍はできず、2003年12月ダイヤモンドバックスからボストン・レッドソックスへトレード移籍。2001年のワールドシリーズ以来のヤンキース・キラーの役をここでも務める。2004年4月NHLボストン・ブルーインズのプレイオフの試合では、 "ヤンキー・ヘイター" の帽子(刺繍のNYのNの部分がH、つまりYankee Haterになっている)を被っている姿を見せた。

2004年9月16日にシーズン20勝目をあげ、1978年のデニス・エカーズリー以来となるレッドソックス史上5人目の入団1年目での20勝を達成。その年は21勝6敗でシーズンを終えた。

同年ディビジョンシリーズ(対アナハイム・エンゼルス)第1戦において、右足首の腱を断裂する負傷を負う。そのままアメリカンリーグ・チャンピオンシップ(対ニューヨーク・ヤンキース)の第1戦で登板するも、痛みのため惨憺たる結果に終わる。球団医療スタッフは、痛めた足首の周囲の皮膚を縫いつけ、断裂した腱が動かないようにする応急処置を敢行する。当時の報道によれば、この応急処置はこれまで誰もやったことがなく、有効性を確かめるために医療解剖用の死体を使ってリハーサルを行ったという。シリングは同チャンピオンシップ第6戦に先発すると、今度は好投し勝利投手となったが、試合の終盤には応急処置の縫合部分から出血し、靴下が血に染まるまでになっていた。これ以後シリングは、先発前日に足の皮膚を縫い合わせ、登板が終わったら抜糸する、ということを繰り返していた(縫い付けたままでは患部が化膿する恐れがあるため)。

ALCS第6試合の勝利により、MLBポストシーズン史上初めて0勝3敗からタイに持ち越したレッドソックスは、翌日の試合でヤンキースを打ち破り1986年以来のワールドシリーズ出場を果たした。セントルイス・カージナルスを相手に迎えた同シリーズにおいては第2戦に先発するが、前述の傷めた右足首はまたしてもソックスを血で染める。しかしそれでも七回を投げきり失点1・被安打4に抑え、4つの三振を奪い、見事勝利を収める。その後レッドソックスはカージナルスに1勝もさせないまま4連勝で、1918年以来実に86年ぶりとなるワールドシリーズ優勝を達成した。この試合の血染めのソックスは、ワールドシリーズでボストンがセントルイス相手に4連勝したのち、野球殿堂館に展示されることになった。

2004年のサイ・ヤング賞では、ヨハン・サンタナ(ツインズ)に次いで再び2位に終わる。28の投票数のうち、サンタナはすべての1位票を、シリングは27の2位票を得票した。のちにレッドソックスはチーム全体でSI誌の2004年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞し、シリングは同賞を二度獲得ないし共有した史上二人目の人物となった。

2005年の投球は足首の故障により多大な影響を受けた。故障者リスト入りの状態でシーズン開幕を迎え、その後復帰したときにも、それまでのカート・シリングと同じ投手だとは全く思えないほどであった。球速は下がり、制球力は落ち、スプリッターも以前の鋭さを失っていた。再び故障者リストに名を連ねた後は、7月にクローザーとして復帰。これにより力を取り戻し、また先発ローテーションに戻る事ができるのではないかと考えられていたが、この試みはほとんど失敗と呼んでよいものだった。数個のセーブは獲得したものの、投球への効果は無いに等しく、結局先発に戻って奮闘を続けることになり、9月のヤンキース戦では8回2失点と好投した。レッドソックスは同年プレイオフに進むが、シカゴ・ホワイトソックスに1勝も出来ず3連敗で敗退。第4試合の先発を予定していたために登板の機会を得ることは無かった。

2006年は健康的な状態でシーズンを迎え、傷めた足首もほとんど影を潜めたようであった。開幕後4勝0敗・防御率1.61という数字を残すと、引退が迫ってきたのではという声も退けた。その年は15勝7敗・奪三振198・防御率3.97の成績で終えた。

2006年はまた数々の記録を打ち立てた年でもあった。5月27日のタンパベイ・デビルレイズ戦では通算200勝を達成。メジャー19年目にして歴代104人目、現役(達成当時)では6人目となる偉業を成し遂げた。7月9日、USセルラー・フィールドにおけるシカゴ・ホワイトソックス戦で400回目の先発出場を達成。8月30日のオークランド・アスレチックス戦ではニック・スウィシャーから通算3000個目の三振を奪い、与四球が1000を数える前に3000奪三振を達した史上3人目の投手となった(他の二人はファーガソン・ジェンキンスとグレッグ・マダックスである)。四死球が非常に少なく、制球力に長けていることの証拠と言える。

2007年1月にデニス・アンド・カラハンというラジオ番組の中で、家族との話し合いののちに考えを変えた結果、2007年度のシーズンの閉幕をもって自身の引退とする意思のないことを表明した。しかしシリングは現契約の延長を申し出るも、レッドソックス経営陣は年齢・体調などを理由にシーズンの終わりまで交渉を拒否した(伝えられたところによると、キャンプ入り時にシリングの体重はオーバー気味であったようである)。それに対しシリングは、今シーズンの終わりには自身初のフリー・エージェントとなるつもりであり、レッドソックスが独占交渉権を持つワールドシリーズ終了後の15日間に同チームとの交渉をするつもりはないとの発言を行った。

2007年6月7日のオークランド・アスレチックス戦では9回2アウトまで無安打に抑えるも、シャノン・スチュワートに95マイルの速球をライトへ打たれ、ノーヒットノーランをあと一人という所で逃した。その試合の後は2度の先発で結果を残せず、7月20日にボストンへ帰り肩にMRI検査を受け故障者リストに入った。8月6日に復帰した後は9試合に登板し、いずれも6イニング以上を投げた。

大舞台に強い投手であり、特にポストシーズンの15試合109回1/3で8勝2敗・防御率2.06・104奪三振という成績は目を見張るものがある。また最優秀選手賞を1993年のNLCSと2001年のワールドシリーズで受賞している(後者はランディ・ジョンソンとの合同受賞)。

気迫溢れるプレーを信条とし、日本のマスコミからは敬愛をこめて「マウンドの鬼」と称されたこともある。しかし、それとは対照的に心優しい一面もある。特筆すべき事項としては、ここ10年以上筋萎縮性側索硬化症(ALS)の研究に積極的に支援しており、奪三振数に応じて毎年寄付を行っている。人気クイズ番組Jeopardy!(2006年11月9日放送)に出演した際は獲得した25,000ドルをチャリティへ寄付し、2004年のプレイオフでは、足首の手術を受けたあと(カメラが足によく向かうのを知りつつ)シューズに "K ALS" (Kは三振の意)と書いてプレーした。

2006年オフにレッドソックスに移籍が決まった岡島秀樹と松坂大輔のために日本語を少し学び始めた[3]。シリングはウィンターリーグで海外でのプレー経験があり、そのとき周りで全くわからない言葉をしゃべられると言うのがいかに気持ちのよくないものであるかわかっているため、少しでもそれを軽くするようにチームメートが努力をしてやるのが最高の解決方法だと語っている。

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