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我が愛しのアスリート図鑑コミュの中畑 清(野球)

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中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、1970年代後半-1980年代に読売ジャイアンツに所属したプロ野球選手(内野手)。身長184cm・体重85kg。1980年代の巨人の中心選手の一人だった。右投げ右打ち。現在は日本テレビ野球解説者。愛称は「ヤッターマン」、「キヨシ」。

駒澤大学より1975年、ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。1978年にシンシナティ・レッズを迎えて行われた日米野球で注目され、1979年に衰えの見えた高田繁に代わって三塁手のレギュラーに定着。1981年に自らのケガと原辰徳の入団で一塁手に転向。長打が期待できる打者で、1984年には自己最高の31本塁打を記録している。「絶好調!」が口癖のムードメーカーで、その明るい性格からファンに人気があり、ヤッターマンの愛称で親しまれた。打席での相手選手や審判とのやりとりは非常にユーモアがあり、当時のプロ野球好プレー珍プレー番組の常連の一人であった。

守備もうまく、一塁手で1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。1985年に結成された労働組合・日本プロ野球選手会の初代会長に就任。1989年三塁再コンバートが裏目に出て故障、急激にチームで居場所を失い引退を表明。日本シリーズ第7戦藤井寺球場、近鉄吉井理人投手から代打本塁打。惜しまれながら現役引退。

引退後は日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者を経て、1993年から2年間巨人で第二次長嶋政権で打撃コーチをつとめ、1994年には日本一に貢献し、同年オフに退団。その後は再び日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者として現在に至る。

2004年のアテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチ(監督の長嶋茂雄が病床に伏してからは代行監督)を務め、本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋監督の登録が認められなかったため監督に就任、銅メダルを獲得。同オフ、巨人から非公式に助監督を要請されたが「自分はその器ではない」と断っている。

まだ若くあまり注目もされていなかった頃、当時の長嶋茂雄監督から「どうだキヨシ、調子はどうだ?」と聞かれた際、「まあまあです」と答えた。これを聞いていた土井正三コーチに「監督に調子を聞かれたら嘘でもいいから必ず絶好調と答えろ」と言われて(板東英二曰く、「何を聞かれても」)「絶好調!」と答えるようになった。彼の代名詞とも言える「絶好調」という言葉はこうして生まれた。この当時「オレは多摩川のハナクソだよ」と自嘲していた
駒澤大学時代は殆どがデーゲームの為、常時ではないが黒いサングラスがトレードマークで、当時はサングラスを着用する選手もプロ・アマ問わず珍しく、スポーツ用のゴーグルも無かった時代で珍しかった。
若い頃、当時広島東洋カープの抑えだった江夏豊と対戦。1球投げたところでボールの交換を要求。すると江夏がお腹を揺らせて、マウンドから降りてきて「おい若造!ふざけんな!10年早いんや!」と凄まれ「…ハイ」。この後の江夏との対戦はまったく打てなかったと言う。
中畑いわく、ファーストだった頃、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられた。
松井秀喜が入団して間もない頃に、インタビューした中畑が松井の守備について話していて「お前サード下手だよ」と言うと、松井に「でも俺、中畑さんより上手くなると思う。中畑さん、サード下手だと思うもん。子供の頃、中畑さん見て、うわぁ〜下手くそだなって思ってましたもん。」と言われたり、中畑が「お前が結婚したら、結婚式で俺が歌ってあげるから」と言ったところ「ははは。呼びません!」と松井に言われた。松井が1994年の日本シリーズで初めてホームランを打った時、本塁で両手の人差し指を前方に向けたが、これはシリーズ後にチームを退団する予定だった打撃コーチの中畑を指している。松井は世話になった中畑に恩返しをするためホームランを打つと約束していた。
現役最後の年、リーグ優勝を決める試合で「自分が日本の球場で最初にウェーブを起こした」と言っている。
「日本シリーズ代打ホームラン」の打席が「有終の美」なら良かったが、その次の本当の最終打席は凡打に終わっている。
ドラフトの時、巨人1位指名が有力視され駒澤大学の寮に報道陣が殺到したが、1位指名は銚子商業の篠塚利夫になり「高卒の人間に先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。
明るいキャラクターのようだが、実際はかなりのシャイ。派手なプレーを見せるのも「高い入場料を払ってきてくれるファンのために」と言う気配りから。呑みに行くのは決まって新宿ゴールデン街で「銀座のような晴れがましい所は、俺には似合わない。」と言う素朴な性格である。
自主的にイベントを主催するなどして母校のある駒沢地域の活性化に貢献しており、TVと変わらぬキャラクターで親しまれている。
応援歌のメロディーは秀逸であり、人気が高い。高校野球などにも流用されている。
現役当時に巷で流行だったもみ上げをまっすぐにカットするテクノカット(YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に代表される)を中畑もやっていた。
TOKIOの松岡昌宏が中畑の大ファンであり、中畑もそれを知った時には家族で大喜びしたと言う。
王貞治とはそりが合わない。王が巨人監督時代、酒の席で「ワン公」と呼んでいたと言われる。後日、中畑は王に謝罪している。王が日本代表を率いてWBCで優勝した際には、テレビでお通夜の参加者のような悲しげな顔をしていた。
自らのコーチ時代には、当時レギュラー選手だった駒田徳広から反抗されるという体験をする。
中畑が怪我で戦線離脱すると巨人は優勝するという奇妙なジンクスがあった。左肩を脱臼した81年、自打球で骨折した87年、帰塁の際に指を痛めた89年などが挙げられる。83年も故障がちだった。さらに、それらの間の中畑の代役が派手に活躍して後の巨人軍を代表する選手にのし上がる奇縁があった。81年には原が三塁手に定着するようになり、83年は代役で先発出場した駒田がプロ初打席満塁本塁打を放ち、89年は岡崎が不動のレギュラーに定着したシーズンとなった。
アテネオリンピックでは、急病で倒れ本戦に参加できなかった長嶋茂雄監督の代行をつとめた。「予選を1位なのにアドバンテージないの」などと発言し、野球ファンの顰蹙を買った。大会中、相手チームの研究はそっちのけで、女子柔道の応援に行くなどしたため、一部の選手から大いに不興を買った。
準決勝のオーストラリア戦で、チャンスで藤本敦士に打順が廻り、投手がジェフ・ウィリアムスに交代した際、ベンチに右打ち又は両打ちで二塁を守れる金子誠や木村拓也が残っているのに代打を起用しなかった事等、アテネオリンピックでの中畑の決断力は低く、決勝進出を逃す最大の戦犯と言われた。
ネットなどにおける、解説者や指導者としての評判はおおむね低く、指導者として不適格のレッテルをはられている。中高年層・30代のファンには評判があるが、現役時代を知らない世代には、単なる迷惑なOBと映っているようである。
現役時代の中畑は、積極的な打撃で非常に人気のある選手であったが、極端な早打ちのため打率や長打力の割に四球は少なかった。塁に出ることや投手に球数を投げさせることを重視する人たちには、世間から過大評価されている選手と思われていた。
演歌が大変好きで、テレビ番組のカラオケ大会ではよく山本譲二や北島三郎などの曲を歌う。それが講じて、演歌のCDを今までに2曲発表している。デビュー作の『十和田丸』は、吉幾三の作詞作曲である。
毎年、福岡県北九州市の九州ゴルフクラブにて、「元気だぜ!」というタイトルのプロアマゴルフコンペを行っている。


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