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我が愛しのアスリート図鑑コミュの佐藤 琢磨(F1)

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佐藤 琢磨(さとう たくま、1977年1月28日 - ) は、東京都新宿区生まれのF1ドライバー。身長164cm、体重59kg。20歳からレーシングカートを始め、僅か5年でF1のシートを獲得した。「琢磨」「琢磨君」と下の名前で呼ばれる事が多い。また、「たっくん」「琢ちゃん」と呼ばれることも。英語圏では"Taku"。血液型はRH+ A型。

和光学園高等学校卒業後、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。10歳の時に鈴鹿サーキットで初めてF1を観戦したことからモータースポーツに対して強い憧れを抱きつつも、19歳までは自転車競技に身を投じていた。インターハイ制覇、大学選手権優勝などの記録を残している。

1996年、ホンダと鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを用いたレーシングスクール、鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を設立したことを知ると、モータースポーツの世界に飛び込むことを決心。大学を休学してまずはカートを始め、モータースポーツ歴わずか半年で、選抜方法を変えさせてまでして(当初予定に無かった面接試験を行わせた)競争率10倍の難関を突破してSRS-Fへ入学した。SRS-F入学直後からスクール生はもちろんのこと、時には講師陣さえ上回る速さを披露し、1997年首席で卒業。出身の町田市のガソリンスタンドには、等身大の置物があるらしい。

1998年には名門チームの無限×童夢プロジェクトより全日本F3選手権のデビューを決めたが、F1ドライバーとなるためモータースポーツの本場・ヨーロッパのレースに参戦すべくシーズン半ばに渡英。

イギリスでは、F1関係者も注目するイギリスF3で失敗すれば二度と取り返すことができないと考え、まずはF3より格下のジュニア・フォーミュラであるフォーミュラ・ヴォクスホールJr.にダイヤモンド・レーシングより参戦して活躍を示し、その後に満を持してカーリン・モータースポーツより2000年と2001年にイギリスF3選手権にフル参戦。2001年には日本人初のイギリスF3チャンピオンとなり、国際F3レース(マールボロマスターズ、マカオGP)も制して名実共にF3ドライバーとして世界の頂点を極めた。


2001年10月に、ジョーダンのドライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することが決定し、史上7人目の日本人フルタイム参戦F1ドライバーとなった。初めてレーシングカートに乗ってから僅か5年でF1のシートを獲得するのは奇跡に近い快挙であると言われた。しかし、資金不足に悩むジョーダンチームではシーズン中のテストもままならず、加えて不運なクラッシュやアクシデントもあり、ポイント獲得は日本GPの5位入賞で獲得した2点のみに留まった。F1デビューを飾った開幕戦、メルボルンで行われたオーストラリアGPでは、フリー走行中のクラッシュに加え、予選中もマシントラブルや天候悪化などに見舞われてまともな走行ができず、当時の予選通過基準であったポールポジションタイムの107%以内のラップタイムを満たすことができなかったが、事実上アタックできなかったのと同じであったため、フリー走行のタイムを基に決勝出場は認められた。

1年目の佐藤のシーズンはけっして順風満帆と呼べるものではなく、経験不足からくるミスのみならず、本人が対処しようがない不運にも多く見舞われている。特にオーストリアGPで当時ザウバーのニック・ハイドフェルドの単独スピンの巻き添えとなって死角の右サイドから激突されたアクシデントは、一歩間違えれば命を落としかねない危険なものであった。完全に無防備な状態での予想外のもらい事故であり、クラッシュ後に自力でマシンから脱出できない状況に陥っていたため、一時は容態が心配されたが、骨折などの怪我もなく、次のグランプリから無事に戦線に復帰している。その後も次々と初めてのサーキットを転戦しながら経験を積み、地元の日本GPでは走り慣れた鈴鹿サーキットでついに持てる力を発揮、予選7位、決勝5位と好成績を残した。結局この5位入賞が2002年唯一のポイント獲得であったものの、マシンのポテンシャルを考慮すると日本GPでの予選7位は実質ポールポジションに匹敵する成績として、内外から高い評価を得た(佐藤よりも予選で上位につけたのは、いずれもトップチームと呼ばれるフェラーリ・マクラーレン・ウィリアムズに所属するドライバーのみであった)。しかし、シーズン終了後にホンダが翌年のエンジン供給をB.A.Rホンダのみに絞ることを発表したことから、佐藤を起用することにともなうホンダのバックアップが期待できなくなったチームによって放出、わずか1年でレースドライバーからの離脱を余儀なくされた。

2003年シーズンは、チームの将来性も見越し、翌2004年以降のレギュラー・ドライバー昇格のオプション付でリザーブ兼テスト・ドライバーとしての契約でB.A.Rホンダに移籍した。最終戦日本GPでは、翌年のシートを失うことが確実になっていたレギュラー・ドライバーのジャック・ヴィルヌーヴがモチベーションを失って急遽参戦を取り止めた為、代役として出場。レースでは途中ミハエル・シューマッハと競り合うなど見せ場を作り、6位入賞を果たす。この入賞によって獲得した3ポイントによってチームはコンストラクターズランキングでザウバーを逆転、わずか1戦の参戦ながら大きく貢献することとなった。

2004年はB.A.Rのレギュラードライバーに昇格。この年のB.A.Rのマシンが速さを見せたこともあり、ヨーロッパGPで日本人初のセッションリーダー(予選1回目)、フロントロー獲得、ラップリーダーを記録、さらにアメリカGPで日本人最高位タイの3位フィニッシュを果たす。しかし年間を通して佐藤のマシンの方にトラブルが連続するという不運も相まって、チームメイトのジェンソン・バトンの85ポイントに対し、佐藤は34ポイントに留まった。


2005年カナダGP2005年には、佐藤とB.A.R、アサヒ飲料の共同開発したスポーツドリンク「SUPER H2O」が発売された。また、この年にイギリスからモナコに移住。

このシーズンは前年とは打ってかわって苦難の連続であった。開幕のオーストラリアGPでは最後尾スタートから決勝14位にとどまり、巻き返しを期したマレーシアGPでもウィルス性の発熱により欠場の憂き目にあう。極めつきは4戦目のサンマリノGPで、5位入賞でシーズン初ポイントを獲得したはずが、急転直下、マシンの重量不足でレギュレーション違反の裁定を下されてリザルトを取り消された。加えてB.A.RはスペインGP、モナコGPの2レースの出場停止処分を科され、ほとんどまともにレースさえできないままシーズン序盤を消費してしまう。マシンが前年ほどのパフォーマンスを発揮できなかったこともあり、後半になっても調子は戻らず、最終的にドライバーズポイントはハンガリーGPでの8位入賞による1ポイントのみと、デビュー以来最低の成績に沈んだ。

2005年は佐藤はもとよりB.A.Rというチーム全体が混乱したシーズンとも言えたが、サーキット以外の部分でもそれは収まらず、本人もそれに巻き込まれていく形になっていく。いわゆるバトンゲートによって、ウィリアムズに移籍するはずだったバトンが突如残留。もうひとつのシートについても、バトンより先にバリチェロのフェラーリからの移籍が決定していたことから、佐藤は2006年シーズンのB.A.Rでのレギュラードライバーの座を失うことになる。チーム(特にホンダ)からはサードドライバーとして留まる契約を提示されるも、あくまでレギュラードライバーに拘るとして拒否、移籍先のあてもないままチームを去ることになった。


B・A・Rを出たことで去就が注目され、一説には以前に所属していたジョーダンの後継チームであり、トヨタエンジンを搭載するミッドランドF1などへ移籍するのではという憶測も流れたが、2006年シーズンは、元F1ドライバーの鈴木亜久里がオーナーを務め、ホンダがエンジンを提供する新規参戦チームのスーパーアグリF1チームから、ファーストドライバーとして参戦することとなった。

新規参入チームの上、前半戦はホンダエンジンこそ搭載しているものの基本的には4年落ちのアロウズのシャシーを現行レギュレーションに合致するように改良した「SA05」を使用していたために、チームメイトの井出有治と共に他チームから大きく離されて最下位を走ることが殆どだった。ニューマシンの「SA06」が登場してからもマシンの熟成が進むまでMF1レーシング(2006年Rd.16 中国GP以降はスパイカーMF1チームにチーム名称変更)と最下位争いを繰り広げるに留まったが、鈴鹿・日本GPでは、MF1の前でチェッカーを受け、さらに、最終戦ブラジルGPでは、チーム最高位の10位という結果を出すと共にチームメイトの山本左近とのダブル完走を果たし、着実にマシン及びチームが戦闘力を備えてきている事を示した。

2007年シーズンも同チームからファーストドライバーとしてエントリーし、イギリスF3時代のチームメイトであるアンソニー・デビッドソンとともに新型マシンの「SA07」をドライブする。

新型マシンであるSA07の戦闘力はSA06とは比較にならない程高く、オーストラリアGPではチーム創設後初の予選最終ラウンド進出を果たし、予選10位を記録した。その後のレースでもホンダのワークスチームであるホンダF1チームの不振もあって、ワークスチームと同等以上の成績を収めており、第4戦スペインGPでは、チーム創設後初のポイント(8位・1ポイント)を獲得した。また、この結果は、完全日本製パッケージ(日本のコンストラクターが、日本人ドライバー・日本製エンジン・日本製タイヤ)で記録した、初のチャンピオンシップ・ポイントであった。第6戦カナダGPでは、荒れたレース展開の中で前年度王者のフェルナンド・アロンソをパスして6位(3ポイント)でフィニッシュし、スペインGPで記録したチームの最高記録を塗りかえている。この時ハミルトンが初優勝を遂げているが、レース後に彼の母国イギリスで行われた「一番活躍したドライバーは誰か?」というアンケートではそのハミルトンを超える半数以上の支持を得て1位に輝いている。

2007年開幕時現在、日本人ドライバーの中で最もポイントを獲得したドライバーである(※)。

※2003年にポイント制度が改正されたことを考慮すると事情は違ってくる。2003年以降の制度下であると仮定して成績を見た場合、中嶋悟が52ポイント獲得していたはずであり、佐藤は同様に43ポイントとなる。また逆に、2002年以前の制度と仮定して成績を見ると、中嶋の16ポイントに対し佐藤は20ポイントである。ただし、中嶋の時代に現行システムが採用されていればそれに応じたマシンが作られ、逆の場合でも同様なことが起こる(マシンの製作コンセプトはレギュレーションに依拠するものである)であろうことから、このような仮定もあまり意味がないことに留意する必要がある。

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