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我が愛しのアスリート図鑑コミュのイチロー(野球)

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イチロー(ラテン文字表記:Ichiro Suzuki、本名:鈴木 一朗(すずき いちろう)、1973年10月22日 - )は、愛知県西春日井郡豊山町出身のメジャーリーガー。右投左打。ポジションは外野手(右翼手、2006年終盤より中堅手にコンバート[1])。

愛工大名電高校→オリックス・ブルーウェーブ(1992年 - 2000年)→シアトル・マリナーズ(2001年 - )

妻は元TBSアナウンサーの福島弓子。なお、名前は一朗だが長男ではなく次男である。ちなみに兄は一泰(ファッションデザイナー)。代理人はトニー・アタナシオ。

なお、身長、体重についてはMLB.comを参考にした場合は(身長:5'9'' 体重:170lb)で175cm、77.1kgである[2]。イチロー本人は、以前プロ野球ニュース(現すぽると!)に出演した際「僕は背も低いですし、176〜177cmぐらい」と陣内貴美子に自ら語っている(ただし、公称身長177cmの田口壮よりもあきらかに背は高い)。なお、日本プロ野球在籍最終年である2000年のプロフィールは身長180cm、体重75kgであった。ただし、MLB日本語公式ライセンシーサイト 「MAJOR.JP」では、身長180cm、体重77kgとなっている。また、NHKBSのMLB中継でのデータでは、身長180cm、体重78kgである。日本の球団側が5.9フィートと送ったものを、5フィート9インチと間違えて読んだからとも言われている。

父親の鈴木宣之は、少年時代のイチローを厳しく鍛えた。後年、「私たちにとって楽しいことだった」と父親は述べたが、イチロー自身は「父は楽しかったとしても、『巨人の星』みたいなもので、自分にはつらかった」と述べている。

高校当時の野球部中村監督に「言ってくれればいつでもセンター返し出来ます」と答え、監督が「新入生のただのアピ−ルだ」と思って当時の3年生投手相手にバッティングをさせたら約30球のうち7割は確実に芯でとらえ、ライナーでセンターに打ちまくった。中村監督は寮に帰るなり夫人に「今度入ってきたもやしみたいな奴は、火星人だった」という感想を漏らしている。そのため、新入生・鈴木一朗の愛称は火星人になった[要出典]。
愛工大名電高校時代は、左翼手として夏の甲子園に、また投手として春の甲子園に出場。それぞれ1回戦で相手に投げ負け敗退した(対戦した2チームはいずれも決勝まで進んでいる)松井秀喜のいた星稜高校とも練習試合で対戦がある。高校通算打率は5割5厘、高校通算本塁打は19本である。
高校時代、打者として評価されていた中、唯一投手として評価していた地元の中日ドラゴンズのスカウトも視察に訪れたが、投手としての評価が低かったため獲得を見送った[要出典]。もしプロに指名されなかったら、日本大学野球部への入学が決まっていた。イチローも初めて首位打者を取った年(1994年)のインタビューで、「プロ入りしなかったら、今は、日本大学の3年生」と語っている。

1991年、外野手としてオリックス・ブルーウェーブにドラフト4位で入団。(尚このとき1位が現セントルイス・カージナルスの田口壮である。)
プロ1年目の1992年、フレッシュオールスターゲームに選ばれたイチローは、そのオールスターで代打決勝ホームランを放ちMVPを獲得。賞金100万円を手にするが、全額を神戸市の養護施設に寄付している[要出典]。2軍選手でこのことをしたのは日本プロ野球史上初である。2軍だった時に打撃コーチから将来の目標についてレポートを書くように言われた際、イチローは「12年間で2000本安打」と書いたという[要出典]。この年ウエスタン・リーグで打率.366の高打率を残し首位打者に輝く。1992年7月11日の福岡ダイエーホークス戦(平和台野球場)でプロ初出場。1993年には当時豪腕の名をほしいままにしていた野茂英雄(当時近鉄)からプロ初本塁打を放ったものの、監督の指示を完全に無視していたため、その直後に2軍降格を言い渡されている。土井監督や小川亨コーチから独自性を否定されたことに対して我流を貫き続けた結果、「若いくせに結果ばかり求める」とみなされ[要出典]、1軍に定着することはできなかった。2軍生活を余儀なくされていたイチローであったが、2年目の秋には土井監督が今季限りで自由契約になるという噂が立った。監督に従う必要性はないと判断したイチローは、河村健一郎2軍打撃コーチと二人三脚で振り子打法を鍛え上げて後日の飛躍にそなえた。後に土井は、イチローが日本を代表する打者になると、あたかもイチローを育てたのは自分であるかのように話したが、当のイチローはこれを否定している[要出典]
1993年のオフにハワイのウィンターリーグに参加した。そこで現ニューヨークヤンキースのジェイソン・ジアンビとヒロ・スターズでのチームメイトだった。
1994年、監督に招聘された仰木彬はイチローの打撃センスを見抜くと、登録名を当初の鈴木から「イチロー」に変更させて1軍の2番打者に抜擢する。イチローは1軍打撃コーチの新井宏昌にも理解されレギュラーとして活躍。その後1番打者に定着し、日本新記録の69試合連続出塁、日本球界初となるシーズン200本安打の偉業を達成。最終的に210安打(日本記録)まで延ばし首位打者を獲得。またこの年から打撃の正式タイトルとなった最多安打の初代獲得者となった。この当時イチローは憧れの選手として前田智徳の名前を挙げ、オールスターでは自ら握手を求めている。
1995年シーズン前半戦を三冠王で折り返す。最終的に本塁打数は小久保裕紀に抜かれたものの、終了時には首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率の「五冠王」。勝負強さやパワーも証明した。また、当時のパシフィック・リーグ新記録となる18死球を記録(後に城島健司、ラロッカが更新)。ちなみに本塁打王の小久保は28本塁打、イチローは25本塁打で、日本球界・メジャーリーグともに前例のない打撃タイトル独占にあと一歩であった。この年のパ・リーグ東西対抗戦ではマウンドに上がり、当時日本ハムファイターズの広瀬哲朗をピッチャーゴロに打ち取った。広瀬によれば、本来は当時西武ライオンズの清原和博が打席に入るところだったが、清原が広瀬に「俺が打席に入って三振でもしたらどうするんだ。広瀬さん、行ってくれ」と言ったそうである[要出典]。
1996年、オールスター戦において9回、松井秀喜(当時読売ジャイアンツ)の打席で、仰木監督のアイデアでイチローをピッチャーとして起用する珍事があった。しかしセ・リーグの監督であった野村克也はオールスターの舞台でイチローを登板させることは、対戦する打者にとって最大の侮辱ととらえ、松井に代えて高津臣吾(当時ヤクルトスワローズ)を代打に送った。結果は投手の高津相手にバットに当てられたものの、なんとかショートゴロに打ち取った。後日野村はイチローの投手起用について「ふざけている」というコメントをしている。イチローはピッチャーとしてメジャーのマウンドに立つのが夢だと何度か語っており、かつてテレビ局の番組で、マウンドでの投球を計測したところ146km/hでていた。またオールスターの球速対決では145km/hを記録。ちなみに、この球速対決では松井稼頭央が153km/h、高橋由伸が151km/hを記録している。同年9月23日、日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)では、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ二塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・神戸での胴上げ」を実現させた。さらに日本シリーズ第1戦では、延長10回に読売ジャイアンツ・河野博文投手からライトスタンドに決勝ホームランを放ち、チームは阪急時代の1977年以来の19年ぶりの日本一に輝き、イチローは優秀選手賞を受賞した。
1997年、216打席連続無三振の日本記録を樹立。彼の三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずか3つである[要出典]。
1999年6月13日のダイエー戦では、試合終盤に内野手を使い果たしたため、現時点で日米を通じて唯一内野(三塁)を守っている。なお、この試合は福岡ドームで行われたが、オリックスの主催試合であった。
2000年5月13日のロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏の打席で後藤利幸の投じたワンバウンドの悪球を打ちにいき、ライトに運んでヒットにした。
1994年から2000年まで7年連続首位打者獲得を達成。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録だが、7年連続首位打者は史上初。さらに1994年から1996年までは連続MVPであり、3年連続MVPはチームの大先輩山田久志とイチローしか達成していない。オリックス在籍時を含めて打率3割を切ったのは登録名を「イチロー」に変更する前、つまり無名であった1992年と1993年の2年だけである。日本での通算打率は.353を誇っているが、4000打数以上が条件である通算打率へのランクインには381打数足りない。しかし将来日本に復帰した場合、381打数で3安打すれば通算打率は.3203(4000打数1281安打)となり、現在通算打率1位のレオン・リー(.3200)を上回る計算になる。メジャー行きの話が出る前の国内での落合博満との対談番組では「もしメジャーにいけるなら」という話題になり、「メジャーからいつかまた帰って来てまた日本でやれるのであれば是非挑戦したい」と答えている。

2001年、イチローはポスティング制度を利用してメジャーリーグ・シアトル・マリナーズに移籍する。メジャーリーグ移籍に関して、本人は2000年に移籍と決めていたが、恩師である故仰木彬監督に「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずチームに残ったという[要出典]。当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか、また線の細いイメージ(筋肉のつき方が一般的な野球選手と異なるためそう見られる)のイチローに全シーズン出場できるスタミナがあるかなど疑問視する声が日米問わず多かった。しかし開幕戦からマルチヒットを放ち、その後もヒットを積み重ねる。この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)、チャック・クライン(フィリーズ)以来となるシーズン242安打(歴代9位)を放ち、メジャーリーグのルーキー最多安打記録を更新するとともに、アメリカンリーグの新人王・MVP・首位打者・盗塁王に輝く。また得点圏打率(100打席以上)もリーグトップだった。首位打者と盗塁王を同時に獲得したのは1949年のジャッキー・ロビンソン以来(1901年以降ではタイ・カッブ、ホーナス・ワグナー、ジョージ・シスラー、スナッフィ・スターンワイス、ジャッキー・ロビンソン、イチローの6人しかいない)、新人でアメリカンリーグの打撃部門を制したのは、1964年ミネソタ・ツインズのトニー・オリバ以来2人目、安打試合数の135試合はウェイド・ボッグスら四人と並ぶトップタイ、また打数の692はアメリカンリーグ新人記録であった。なお、新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローの他には1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバー(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目。当時、イチローの安打数が200を超えたあたりから、メディアでは「ルーキー最多安打記録」が話題になったため、リーグ機構が定めたルーキー資格を元に、過去の打撃記録を調べなおした。結果、当初1927年のロイド・ウェイナーの「223安打」と思われていたルーキー安打数記録が、1911年に"シューレス"ジョー・ジャクソンが記録した「233安打」に訂正される事態も起きている(但し、1911年のジョー・ジャクソンは1957年に定められた最初のルーキー資格は満たしていない)。また、新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を同時に手にしたのはメジャーリーグ史上、イチローのみである。このように記録的な活躍でチームのプレーオフ進出に貢献、日本の一流打者(野手)がメジャーリーグでも通用することを証明した。現在、マリナーズ首脳陣から、自分の判断で自由に盗塁できる権利(グリーンライト)を与えられている。
2002年は前年の得点圏打率の高さから敬遠四球が激増し、打率を3分近く下げながらも出塁率を上昇させている。

野球の殿堂にあるイチローブース2003年5月には、メジャー通算500本安打を達成。
2004年には、84年間破られることのなかったジョージ・シスラーの257安打を5本上回る262安打を記録と同時に打率.372を記録し、メジャーでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いた。この記録は内外で高い評価を受け、アメリカでは多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、USA TODAY紙にもバリー・ボンズ選手が700号ホームランを打った時以来の全面広告でメジャーリーグが祝福の意を表し、アメリカの野球の殿堂では特別ブースが用意された(右の写真参照)。日本では、2度目の国民栄誉賞の授与を打診(2度とも本人が辞退)され、アジアの国々や野球に関心の薄いイギリスでも異例の取り扱いで新聞等のメディアがその記録達成を伝えた。2004年、小学5年生の道徳副読本の題材に登場、連続試合出場の「継続」の大切さを伝えた。シーズン最多安打で影に隠れているが、7月にシーズン2度の月間50安打を達成、ジョー・メドウィック以来68年ぶりの快挙を成し遂げる。8月に球団記録のアレックス・ロドリゲスの月間54安打を更新し、大リーグ66年ぶりの月間56安打を打ったが、タイ・カッブの大リーグ記録月間67安打には届かなかった。ちなみに正式な記録ではないが2004年7月18日〜8月17日の間にヒットを67本打っている。通算4度の月間50安打はピート・ローズに並び(メジャー記録はジョージ・シスラーの10度)、他に2ヶ月連続50安打とシーズン3度の月間50安打の記録を更新した。さらに9月にビル・テリーの連続4シーズン918安打を更新した。2004年シーズン後、この偉業に対し正力松太郎賞が授与されたが、その際「打撃の神様」川上哲治に「精神的にも技術的にも、野球の神様といえば彼じゃないかと思う」と最大級の賛辞を送られている。この年は2001年と同様得点圏打率もアメリカンリーグトップだった(100打席以上)。
2005年4月22日、メジャーリーグのバド・セリグコミッショナーは84年ぶりにシーズン最多安打記録を更新したイチローに対して、Commissioner's Historic Achievement Award(コミッショナー特別表彰)を贈り、シアトルのセーフコ・フィールドで行われた受賞セレモニーでイチローの偉業を称えた。(イチローの英語スピーチ訳)「このような賞を頂き大変名誉に思っています。シアトルのファンの前で、セーフコ・フィールドでジョージ・シスラーの記録を破ったことは、私の野球経歴の中でも最も偉大なものでした。まず最初にジョージ・シスラーに感謝したい。わたしがあの最高の瞬間を体験できたのも彼の素晴らしい記録があったからこそです。・・・」コミッショナー特別表彰とはメジャー・リーグにおいて歴史的偉業を達成した選手・チームに対して、メジャー・リーグの最高責任者であるコミッショナー自らその偉業を称えるセレモニーのことで、イチロー以外にもトニー・グウィン、リッキー・ヘンダーソン、マーク・マグワイア、サミー・ソーサ、カル・リプケンJr、ロジャー・クレメンス、バリー・ボンズ、レイチェル・ロビンソン(故ジャッキー・ロビンソン夫人)、ロベルト・クレメンテ、チームとして2001年のシアトル・マリナーズが受賞している。2005年には、日本人選手として初めてメジャーリーグ通算1,000安打を達成した。これは出場696試合目での達成であり、1933年のチャック・クライン(683試合)、1932年のロイド・ウェイナー(686試合)に次いで1900年以降3番目のスピード記録となった(日本では史上最速の757試合で1,000安打を達成している)。6年連続100得点30盗塁はジョー・モーガンに次いで2人目。また、5年連続200安打という記録も達成した。デビューからなら史上初だが、「デビューから」という注釈が付かなければ、1900年以降の近代野球では3人目。連続記録では史上初だが、5度の200安打100得点30盗塁は球聖タイ・カッブ以来89年ぶりの快挙を成し遂げた。また、チャック・クラインの連続5シーズン通算1,118安打を抜いたが、ジョージ・シスラーの5シーズン通算1137安打はあと一歩のところで抜けなかった(ジョージ・シスラーは目の病気で1シーズン丸々プレーしてないため連続記録ではない)。
2006年5月7日にメジャー通算200盗塁達成。その翌日には日米通算400盗塁も達成。さらに20試合連続安打を日米通算だが8回達成した。最高記録はピート・ローズの7回(19世紀の記録はウイリー・キーラーの8回)。6月には日米通算2500本安打を達成。7月26日には戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続6シーズン通算1274安打を抜いた。7月28日には日本時代の1278安打を超えた。8月16日にはロジャース・ホーンスビーが持つ連続6シーズン最多安打1296本を超えた。8月29日にはメジャー通算400複数安打試合を928試合目で達成。これは6年目ではメジャー最速。またこの日20回目の先頭弾を打った。9月5日にはウイリー・キーラーが持つ連続6シーズン最多安打1313本(19世紀の記録)を超えた。9月7日には日米通算800複数安打試合も達成。9月9日にはジョージ・シスラーが持つ6シーズン最多安打1317本を超えた。9月16日、カンザスシティ・ロイヤルズ戦において200安打を達成し、5年連続を6年連続に伸ばした。メジャーリーグ史上3人目となる。なおイチローはこの試合において三盗を成功させたことで33連続盗塁成功となり、ウィリー・ウィルソンのもつア・リーグ記録を更新した。また32歳のこのシーズンに自己3番目の記録となる45盗塁を記録。しかしビンス・コールマンの1シーズンのメジャー記録である44連続盗塁成功には及ばなかった。メジャー通算100敬遠と日米通算200敬遠にも到達した。
2007年5月3日(日本時間4日)、41連続盗塁成功を達成して、シーズンを跨いでのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録を更新(従来の記録は、ティム・レインズの40)。5月16日(日本時間17日)にはア・リーグ記録を45に伸ばした。5月18日(日本時間)対エンゼルス戦の終盤、3点のビハインドで負けているところでヒットエンドランのサインが出るものの、2番打者のホセ・ビドロがサインを見落としてヒットエンドランに失敗。これが盗塁死扱いになり、イチローのア・リーグ連続盗塁成功記録は「45」でストップした。ナ・リーグのビンス・コールマン(カージナルス)の連続盗塁成功50の大リーグ記録の更新はできなかった。5月24日にはメジャー通算1000試合を達成。1000試合での1414安打はアル・シモンズ(1443安打)についで1900年以降では2番目に多い。7月7日にはウェイド・ボッグスが持つ連続7シーズン戦後最多安打1479本を超えた。7月18日にはメジャー通算400打点を達成。同時にビル・テリーが持つ連続7シーズン最多安打1487本に並んだ。7月29日にはメジャー通算1500本安打を達成。1060試合での到達はアル・シモンズ(1040試合)、ジョージ・シスラー(1048試合)についで1900年以降では3位である。8月9日にはジョージ・シスラーが持つ7シーズン最多安打1516本を超えた。8月17日にはジェシー・バーケットが持つ連続7シーズン最多安打1526本(19世紀の記録)を超えた。また9月3日のニューヨークヤンキース戦において、メジャー史上屈指の豪腕ロジャー・クレメンスから1回表に右前打を放ち王手をかけると、3回表には右中間へホームランを打ち7年連続の200本安打を達成した。
2007年7月13日(現地時間)、マリナーズと5年1億ドル(5年8,500万ドル+契約ボーナス500万ドル+出来高1,000万ドル)で2012年まで契約を延長したことを発表した。

オリンピックなどへの参加を断り続けていて世界大会に興味がないようなイメージをもたれていたため、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)への参加に驚いたファンも多い。これは「オリンピックはあくまでもアマチュアの大会で自分はプロ」という考えによる。また常々チームプレーよりも個人プレーの向上が最終的な結果に結びつくと発言していたが[要出典]、WBC日本代表ではチームプレーを優先するとも語り、チームリーダーとして率先して行動、その明るく気さくな姿は誤解されていた従来のイメージを覆し話題になった。 
イチローがWBCへの抱負として語った「今度のWBCで、戦った相手が“向こう30年は日本に手は出せないな”という感じで勝ちたいと思う」という特定の国を指しているわけではなかった発言が、韓国を対象とした発言としてとりあげられてしまい[6]、過敏に反応した韓国メディアの一部からは倭猿と形容されたり、デッドボールを受ける姿を悪意の感じられる形で使用されたり、あるいは「イチロー」という音が韓国語で「歯の治療」を意味することからWBC本戦で「イチローは歯科治療が必要」といったプラカードを使用されたりするなど、バッシングを受ける事態にも陥った。また在日からの批判も少数ながら見られた。もっともイチロー本人は「ブーイングの声は大きいほうが燃える」と気にする風でもなかった。
WBCでは韓国チームに2連敗する。2敗目の時、イチローは試合後に「僕の野球人生で最も屈辱的な日だった」とコメントした。この発言を聞いた大橋巨泉は『週刊現代』連載「内遊外歓」第582回で人種差別発言と批判し[7]、さらに第584回では「『屈辱なら、自分の球団(マリナーズ)が2年連続最下位の方が屈辱では?』くらいの事を何故突っこまなかったか」と記者をも批判した[8]。それに対して、井沢元彦は『SAPIO』5月10日号「大橋巨泉様 私を「ウソつき」、イチロー発言を「人種差別」と決め付けたのはあまりに軽率ですよ。卑劣なのは存在しない差別発言をでっち上げた韓国のマスコミの方である」と反論(また、イチローの「屈辱的」発言を「あんな卑劣な手を使いマナーも最低のチームに負けるとは」という意味だと主張したが、もちろんこれは井沢の忖度であり、イチローが韓国を最低と公言したわけではない)。3度目の正直となる準決勝で日本は韓国を下し、イチロー自身もダメ押しのタイムリーを放った。試合後には「今日負けると日本のプロ野球史に汚点を残すところだった」「勝つべきチームが勝ててよかった」と発言した。

普段はメディアの取材に積極的に応えることはないが、それはファンを軽視してのことではない。糸井重里との対談では「僕はゲームの後にその日の試合のことについて語ることを、あまりしていません。それは真剣に見てくれている人々の事を考えると、いい加減なことを言えないからです。適当にあしらうことはできないんです」と語っている。また「オフになってからは『イチローは何を考えているのだろう?』という質問に答えることにしています」との言葉通り、オフの特別番組やロングインタビュー等には積極的に応えている。

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