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我が愛しのアスリート図鑑コミュの中田 英寿(サッカー)

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中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日-)は元サッカー選手である。元日本代表。山梨県甲府市出身。世界三大リーグ、イタリアのセリエAやイギリスのプレミアリーグなどでプレーした。愛称はヒデ。2006年7月3日、自身のウェブサイトにて現役引退を表明。その引退メールは大きな反響を呼んだ。

小学3年、8歳の時『キャプテン翼』の影響でサッカーを始める。幼少期から高校まではFWとしてプレー。甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15(15歳以下日本代表)に選出され、アジアユース選手権(U-16)で世界への第一歩を踏み出す。以後、全ての年代別日本代表に選出され、全ての年代別の世界大会(U-17世界選手権、ワールドユース、アトランタオリンピック、シドニーオリンピック)において飛び級で出場し、存在感を見せる。

また韮崎高校時代、2年時に高校選手権に出場している。そこで圧倒的な存在感を放った中田は1995年、Jリーグ全12クラブ中ヴェルディ川崎以外の11クラブからオファー[1] を受け、ベルマーレ平塚に入団。翌年、ゲームメイク能力を買われてトップ下にコンバートされる。1996年シーズンオフ、イタリア・セリエAの名門、ユベントスに短期留学[2]。中田の目は海外に向いていることが伺えた。

各年代の日本代表において主力として戦ってきた中田は、1997年、前園真聖の離脱により日韓親善試合で日本代表デビュー。ワールドカップ・アジア最終予選で苦しむ日本代表をワールドカップ初出場へと導く原動力となっていく。

日本代表の中心選手のポジションを勝ち取ると、同年12月の『ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜』に選出され、弱冠20歳でアジアの顔となる。引退までに計8回も世界選抜試合に招かれ、引退後も各国各人から世界選抜試合[3] や親善マッチ[4]への招待が続いている。

1998年、日本初出場となるフランスワールドカップではチームの核としてグループリーグの全3試合にフル出場。チームは全敗し国内では酷評されたが、そのプレーは海外のクラブに認められ、同年7月、中田獲得の名乗りをあげた11クラブからの移籍リスト[5] の中から交渉の結果、21歳の若さでイタリアのセリエA・ペルージャに移籍した。

開幕戦でユベントス相手に2ゴールを奪い、セリエAでの鮮烈なデビューを飾ると、このシーズンはリーグ戦合計10得点(うちPK4得点)を挙げる活躍をし、ミッドフィルダーとして、当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立てた。

1999-2000シーズン途中に、名門・ASローマに移籍。これは当時監督であった、ファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。当初は中盤の底で起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場して高いパフォーマンスを発揮した。しかし、生粋のローマ育ちでチームの象徴的存在になりつつあったトッティが復帰すると再び中盤の底で起用され、シーズン半ばから途中出場が多くなり、トッティの交代要員としてトップ下でプレーした。このような状況下でも、腐らずに与えられた時間の中で質の高いプレーを見せ、出場時間を徐々に増やしていった。中でも2000-2001シーズン終盤の第29節ユヴェントス戦での、途中出場ながら引き分けに持ち込むゴールを叩き出した活躍は、ロマニスタに称えられ、語り草となっている(パルマ移籍以降も、ローマのホームスタジアムであるオリンピコにおいては、中田をコールする前に「SHOGUN(将軍)」のキャッチフレーズが付けられていた)。この試合をきっかけに、一時は遠ざかりかけた優勝を再び手繰り寄せたローマは、その年のスクデット(セリエA優勝)を獲得。中田は日本人で初めてスクデットを握った人物となった。

2001年、アジア人最高額の32億円でパルマに移籍。レンツォ・ウリヴィエリ監督の信頼の下、トップ下でプレーしたが、高額な移籍金に見合うパフォーマンスとは言い難く、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリ監督の更迭後は指揮官が次々と変わり、出場機会も減っていった。その後2002-03シーズンから指揮を執ったチェーザレ・プランデッリ監督は、中田を右サイドハーフでレギュラーとして起用した。アドリアーノとアドリアン・ムトゥを生かす徹底したチーム戦術は、中田を加えて「トリデンテ」と呼ばれ奏功した。しかし中田の動きを厳しく制約したため、確執が生まれた。

2002年、25歳で記念すべき地元開催の日韓ワールドカップに出場。精神的にもチームを牽引する中心選手としてグループリーグ3試合、決勝トーナメント1試合の全試合に出場した。予選リーグのチュニジア戦では、ヘディングによる自身ワールドカップ初ゴールを記録している。

2003-04シーズンの冬のマーケットで、中田に甚大な信頼を寄せるカルロ・マッツォーネ監督率いるボローニャに半年のレンタル移籍。センターハーフを任され、かつての輝きを取り戻す。セリエAと日本代表戦の過密日程でグロインペイン症候群を発症するも、セリエA残留に貢献した。マッツォーネは中田の完全移籍を熱望したが、ボローニャ側はレンタル元のパルマ側が要求した移籍金と年俸を工面できず頓挫した。

2004-05シーズン前にフィオレンティーナへ完全移籍。合宿の直前まで日本でグロインペインの治療に専念したが、今まで大きな故障をしてこなかった中田は、回復の目算を大きく見誤り、痛みを抱えたままの低調なプレーに終始することになり、現地ファンから酷評される。結局回復には1年を要し、その間にクラブと日本代表の両方の出場機会を失っていった。完治後は代表に復帰し、ドイツワールドカップ最終予選に出場。クラブにおいても来季に向けての決意を新たにした直後、2005-06シーズンより新監督としてパルマ時代に確執があったプランデッリが就任することを知り、急転直下、移籍先を模索することとなる。

2005年、28歳で7年間住んだイタリアを離れ、イギリスのFAプレミアリーグ・ボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。加入後すぐにレギュラーとして出場していたが、間もなく日本代表の親善試合に招集されると、アラダイス監督はコンディションを憂慮して招集に難色を示した。しかし中田は代表戦の招集には全て参加。やがてサム・アラダイス監督の信頼を失い、リーグ戦の途中出場とカップ戦での出場になっていった。しかしそこでのパスを繋ぐプレーが徐々に認められて、リーグ戦の終盤には5試合連続してスターティングメンバーに起用され、チームの勝利に貢献。ドイツワールドカップに向けての試合勘に対する不安視を払拭した。

2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツワールドカップのグループリーグ全3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントへの進出を阻まれたが、第2戦のクロアチア戦では灼熱の試合の中で抜群の運動量を見せてチームを牽引、引き分けながらマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。グループリーグ敗退国から選ぶベストイレブンにも選出された。

2006年7月3日、自身の公式HP上で現役引退を表明。現在は世界各地を旅しており、見聞を広めながら自分にできることを探したいという趣旨の発言をしている。また、サッカーの恩恵に感謝しており、「今後の発展を願っているし貢献もしたい」と語っている。

瞬時に周囲を見渡せる視野の広さと抜群のスタミナと強靭な精神力を持つ。トップ下、ボランチ、ウイングなど、中盤の様々なポジションをこなし(本人はセンターハーフと答えていた)、特にトップ下でのプレーを好んでいたが、多くのトップ下の選手に特徴づけられる、ファンタジスタと言われる一瞬の閃きによるプレーというよりも、リアリストと言われる予測や合理性に裏打ちされた独特のプレースタイルであると言われている。

「論理的に考えること」が中田の突出した能力である。戦術理解、状況分析と修正、コーチング、スペースメイキングの様に、目に見えない「考える」プレーのクオリティが非常に高く、90分を通して集中を途切れさせることなくチームを引率しながら攻撃を組み立てた。自分の考えを明示する中田は試合中に大声で要求や指示を出すが、特に日本代表の試合では、常にチームメイトを鼓舞し、叱責し、檄を飛ばす姿が目立っていた。しかし、自らは悪質なファウルを受けてもすぐに立ち上がり、淡々とプレーを続ける選手であった。

中田の最大の武器は相手DFを切り裂くスルーパス。スピードとコースの正確性からキラーパスと称された。インサイドから繰り出されるパスも、スピードとコースの正確性において世界でも数人しか出来ない高レベルのプレーであり、また、空スペースの察知力に優れ、アシストのみならず二列目からの飛び出しによるゴールも数多く決めている。

これらの能力は、フィジカルコンタクトの強さ、優れたボディバランス等をベースにした抜群のボールキープ力によって、自らドリブルして相手DFを引き付け、空いたスペースにスルーパスを出す中田の特徴的なプレーや、縦への早いビルドアップを展開するプレースタイルを造っていた。ちなみにボローニャ時代のチームメイトからは「中田は銀行。中田に預けておけば安心」と賞賛された。

このようなプレースタイルは、ポゼッションサッカーよりもカウンターサッカーにより適すが、事実、その特徴を最大限に生かせたベルマーレ平塚やペルージャ、ボローニャといったチームや、1998年フランスW杯日本代表では攻撃の核となった。

また、プレイスキックの名手でもあり、壁の足元を抜ける地を這うような低い弾道を得意としていた。「よっしゃあー!」と雄たけびを上げてガッツポーズを見せた、コンフェデレーションズカップ2001オーストラリア戦におけるFKでのゴールが印象的である。

中田の出現によって日本サッカーはラモス瑠緯に代表される個人技をベースとしたブラジル様式から、少ないタッチでパスをつなぐヨーロッパ様式に変わった、とも言われている。

高校生の時からセリエAへの移籍を考えてイタリア語の勉強をしており、今ではほとんどの訛りも分かる程イタリア語を身につけている。また、イタリアにいるころから英語の家庭教師に付き、英語のインタビューには英語で応対していたが、プレミアリーグへの移籍会見で初めて全て英語で応答している姿が放映され、いつの間に英語も習得したのかと驚かれた。さらに、映画『GOAL!』の主演男優とはスペイン語で話している映像も見られたが、スペイン語やポルトガル語・フランス語も簡単な会話が出来、ますます語学力を広げている。
彼が日本に帰国するたびに「成コレ」と呼ばれるファッションがファンやマスコミの注目を集めていた。しかし、マスコミのフラッシュを浴びる中田に対し、空港に居合わせた一般客に「フォーの人?」っとレイザーラモンHGと間違えられたこともある。
98年フランスワールドカップ時の一連の出来事(朝日新聞が「『君が代』ダサい」と発言したと報じたが中田側は「歪められた」と否定。これにより右翼から家族を巻き込んだ嫌がらせを受ける)を契機に「真実を伝えない」として、マスコミとの軋轢が絶えなくなった。そのため一時期は日本における生放送以外でのメディア出演は一切拒否する姿勢をとり、自身のホームページで情報・メールを発信。スポーツ選手のホームページの先駆けとなった。ワールドカップ日韓大会終了時あたりからは録画放送へも出演するようになった。さらにnakata.net TVという自身のテレビ番組も企画作成していた。
上述の「君が代事件」に端を発する右翼団体からの圧力を警戒し、国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちによるボディーガードが付いていた事がある。その中の一人は、2001年のK-1 JAPANで優勝した経験を持つニコラス・ペタス選手であった。
メディアとの接触を極力避けるため無愛想に映るが、中山雅史曰く、中田は非常に礼儀正しく、体育会よりももっと上下関係を重んじる人間だそうで、特に年上から可愛がられる一面を持ち、世界各国に人脈があり友人がいる。
寡黙な性格だと思われているが、ドーハ世代やアトランタ世代である中山雅史や三浦知良、川口能活らは「人懐っこく、明るく、普通の若者」としている。逆に、シドニー世代以降の選手は近寄りがたく思う選手が多かったようで、代表の晩年には、和気藹々とした代表に馴染まない厳しい態度によって、敬遠される存在になってしまった。プライベートで連絡を取り合う前園真聖は、「(ドイツワールドカップメンバーに)自分がいたら、プレー以外の事でフォローが出来たはず。もしかするとヒデも引退を先延ばしにしたかもしれない」と歯がゆそうに語った。
韮崎高校時代、「サッカーしか知らない人間になりたくない」とメディアのインタビューで答えたことがあり、30歳ぐらいには引退して他の道に進むのではないかという青写真をそのころから持っていた。
引退後、アジアの孤児院などを訪問して子供達の心に触れたことで「結婚はしたくないが子供は欲しい」と語った。
野菜は形が残っていると食べられず、中国の孤児院で子供達と一緒に作った餃子も食べるマネをしてしのいだ。
2007年F1モナコGPに姿を見せる場面を取り上げられるなど、放浪中の旅行先が判明するとメディアで取り上げられている。
前園真聖とともに、日清ラ王のCMに出演したことがある。どちらかといえば一連のラ王のCMシリーズはメインは前園であり、中田はコメディリリーフ的な役割であった。前園がサッカー選手として絶頂の時期であり、中田はまだ知名度的に前園に及ばない時期であったためである。
ホワイトバンドプロジェクトに参加した。なお、このプロジェクトの日本版の企画は中田をマネジメントするサニーサイドアップである。

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