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我が愛しのアスリート図鑑コミュの岡部 幸雄(ジョッキー)

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岡部幸雄(おかべ ゆきお、1948年10月31日-)は日本中央競馬会(JRA)の元騎手。美浦所属のフリー騎手(厩舎に所属しない騎手)であった。群馬県太田市出身、血液型はA型。

幾多の記録を塗り替え、クラシック三冠馬シンボリルドルフをはじめ数々の名馬の手綱を取ったことで知られる。ファンの間で名手と称された。また、トレーニングセンターでの通り名は「ジョッキー」。

タレントの岡部玲子とは親戚関係にある。

1948年に誕生。実家は農家で、祖父の岡部岩吉は馬の育成も行っていた。そのため、馬に親近感を抱きながら育った[1]。

幼少期は体質が弱く、また平均よりも身長が低かったためコンプレックスを抱くことが多かったが、やがて乗馬においてはむしろ小柄なことが有利に働くことを知り、中学生時代には騎手を志すようになった[2]。中学校3年生の秋に馬事公苑の騎手養成所に願書を提出、事後に父の承諾を得て受験し、合格した[3]。養成所の同期生には柴田政人・福永洋一・伊藤正徳らがおり、花の15期生と呼ばれる。

1967年に騎手免許を取得。当初は中山競馬場の鈴木清厩舎所属であったが、袂を別ってフリーランスになる(以後、鈴木清厩舎の馬には騎乗していない)。ただ、所属はしなかったものの高橋英夫調教師がその才能を高く評価し、若き日の岡部を主戦騎手として起用することが多かった。そのため、高橋が岡部の師匠であると記述するものもある。

初期の頃から結果を出しており、1971年にカネヒムロで八大競走の一つ優駿牝馬(オークス)を制覇。以降も、血縁に競馬関係者がいないと言うハンデ[4]を抱えながらも、シンボリルドルフ以前にも優駿牝馬3勝(カネヒムロ・ケイキロク・ダイナカール)、天皇賞1勝(グリーングラス)、エリザベス女王杯1勝(ミスカブラヤ)を挙げ非凡なところを見せている。ただし、シンボリルドルフと出会うまでは決して順風満帆ではなく、特にグリーングラスは『五体満足なら絶好調のトウショウボーイ・テンポイントにも負けない』と言わしめる程の才能を持ちながらも、脚部不安に悩まされ、思うような成績を挙げられず(岡部騎乗で勝ったのは天皇賞だけ)、ラストランとなった1979年有馬記念では大崎昭一に交代と言う苦渋を味わっている。

初めて中央競馬(全国)リーディングジョッキー(年間最多勝)を獲得したのはシンボリルドルフ引退後の1987年で、その後も中央全国では1991年に獲得したのみであったが、関東限定では11回を数えた。

2002年12月の有馬記念での騎乗を最後に、オーバーホールのため休養に入る。膝の状態がかなり深刻であったためで、翌2003年4月には膝を手術。長いリハビリを終え2004年1月25日の中山競馬で復帰した。復帰初日には、初心に帰り丸刈り姿でレースに臨み、同日第9競走の若竹賞で、後に桜花賞を勝つダンスインザムードに騎乗し1着となった。しかし、生涯現役を目指し、夢の通算3000勝も見えてきた矢先でありながら、体が思うように動かないことを理由に2005年2月20日以降は騎乗を自粛。そして、3月10日に38年間におよぶ騎手生活からの引退を明らかにした。

これに伴って、2005年3月20日に当初予定されていた「東風ステークス」は「岡部幸雄騎手引退記念競走」(岡部本人は騎乗せず、優勝馬の関係者らに対する賞品のプレゼンターとして表彰式に出席)に変更され、引退式が中山競馬場で開かれた[5]。特定騎手の業績を称えた競走は、地方競馬では佐々木竹見騎手による競走は開催されていたが、中央競馬としては初めてのことであった。

引退後は、調教師や競馬学校教官等のJRA関係職には就かず、フリーランスの評論家的活動を行っている。豊富な経験に裏打ちされた鋭いレース分析は評価されている。2006年10月からはJRAと「アドバイザリー契約」を締結し、審判業務に対する意見や助言、若手騎手に対する技術指導をすることとなった。

また、トークショー等にも積極的に参加しており、現役時代の印象とは裏腹に陽気なオジサンぶりを発揮している。2006年10月からはアサヒ飲料のコーヒー「WONDA」の「Gワンダレースキャンペーン」のCMに出演。

2007年4月22日に開催した元騎手によるエキシビジョンレース「第一回ジョッキーマスターズ」に出場。結果は9頭中5着だった。出場にあたって、美浦トレーニングセンターで特別入講許可を貰い(アドバイザリー契約はしているが、基本的にJRA関係者外扱いのため)、競走馬の調教時間外にトレーニングを行なった。

ディープインパクトとシンボリルドルフの比較を聞かれ、「ルドルフの方が強い」と即答している。本人曰く、「ルドルフは競馬を知り尽くしていた」とのことである。しかし、自ら「ディープのオッカケ」と言うほどディープインパクトのファンでもある。2006年10月1日には、ディープインパクトの出走する凱旋門賞の解説者としてNHKに出演。最後の直線では「まだまだっ(まだ仕掛けるな、という意)」「大丈夫、大丈夫!」「頑張れ!」などの岡部の叫びが実況のマイクに拾われ話題となった。

子供が5人おり、末娘は岡部が40代中盤の時に生まれている。

日本騎手クラブ会長時代に週刊Gallop誌上の対談で「ゲームで我々騎手の名前が勝手に実名で出されている。」とゲーム会社に苦言を呈したことがある。これは騎手各人に所謂「ランク付け」がされていたためとも言われている。

若い頃から海外競馬に関心を抱き単身アメリカ等に出向き武者修行、そこで触れた欧米の競馬文化に多大な影響を受ける。アメリカ競馬における日本人騎手初勝利(デルマー競馬場)という歴史的快挙を達成、更には日本人として海外のダービー(マカオダービー)を勝っている唯一の騎手でもある。1998年にはタイキシャトルに騎乗しフランスのジャック・ル・マロワ賞を勝った時には、悲願であった海外国際G1制覇を成し遂げた喜びから感極まる場面もあった。
馬の事を第一に考えた馬優先主義をポリシーに掲げ、早くからこれを実践していたが、当時の日本では岡部の主張は受け入れられることはほとんど無かった。非常識とされていたことを数々覆し、今日の競馬社会に多大な影響を与えるなど、日本における現代競馬の父とも呼ぶべきオピニオンリーダーであった。
中央競馬におけるフリー騎手の先駆けとして有名。現代では、ある程度キャリアを積んだジョッキーのほとんどがフリー騎手となっているが、昭和後期までは厩舎に所属することが普通であった。

一見紳士ではあるが、怒らせると怖いタイプで、若い頃には危険な騎乗をした騎手を、レース中に騎乗したまま殴るなどの逸話も持っている。1984年2月18日の東京競馬第8競走で、岡部はクインテシオに騎乗していたが、向こう正面で杉浦宏昭(現・調教師)騎乗のスイートボルドーが斜行し、その行為に激高して岡部は最後の直線走行中に杉浦をムチで殴りつけてしまう。それによって実効2日間の騎乗停止を食らい、反省のため頭を丸めた。
岡部の故郷である群馬県太田市には「岡部幸雄 群馬県太田市後援会」が結成されていた。
1990年頃のスポーツ新聞元旦版で、各騎手の趣味が紹介されたとき、他の騎手は「ドライブ」や「ゴルフ」など一般的な趣味を披露していたが、岡部は「靴磨き」と告白。これは新人騎手時代に調教師や馬主の靴磨きをしていたことによるものと思われる。
勝つためには弟子にも容赦なく、最後の直線で弟子相手の叩き合いだと「(騎手名)!まだだぞ、まだだぞ。俺のは一杯だからな、後ろに気をつけろ」と囁き、先に自分の馬にムチを入れるなど勝負事には厳しいところもある。
小倉競馬場初騎乗より、ブラジル競馬初騎乗の方が早かった。


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