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我が愛しのアスリート図鑑コミュの貴乃花(大相撲)

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貴乃花 光司(たかのはな こうじ、1972年8月12日 - )は日本の大相撲の元力士。第65代横綱。一代年寄。本名花田 光司(はなだ こうじ)。

父は元大関の貴ノ花健士、母は元女優の藤田憲子。兄はタレントの花田勝(元第66代横綱・若乃花)。妻は元フジテレビアナウンサーの河野景子。若乃花幹士(第45代横綱)は伯父(父の兄)。

入門当時からその優れた素質が話題となり、前評判に違わず数々の最年少記録を打ち立てた。新弟子検査時には「これは新弟子の体じゃない、今すぐ幕下でも通用する」と体作りの基礎ができていたことを検査を担当した親方から驚嘆された。兄若乃花とともに「若貴ブーム」を起こし、ライバル曙らと名勝負を演じた。優勝22回は当時歴代4位の記録であり、平成の大横綱と称されている。22回優勝を果たしながら期待ほどの優勝回数ではなかったとも評されるのは、若手の頃の期待感の大きさを表すものでもある。場所の序盤から中盤で優勝争いのトップに立てば独走する一方、千秋楽までもつれたときや優勝決定戦での敗退の多さが、「ここ一番での勝負弱さ」を印象付けることにもなった。このため「並の名横綱」との評価もある。ただ、一人横綱の時代が長かった北の湖や千代の富士とは異なり、同期に多くの外国人力士のライバルがいたことからも同列に評価することが困難であることも事実である。

現役中、受けて立つ万全の四つ相撲を得意とした。本来元々横綱としては普通なのだが、当時は千代の富士貢の先に出る相撲のために横綱像が変化しており、存在感はあってもずば抜けた力感や威圧感はないと評された事もあった。これに対し「基本に忠実であることが貴乃花の得意」「貴乃花は得意のないのが得意」と反論もあった。全盛時の相手に得意の技を出させずに寄りで完封する取り口は、まさにその通りのものであった。他方、同時代のライバル曙と比べ豪快さに欠けるとの評を気にして、叔父初代若乃花の必殺技だった「呼び戻し」を試みるなど、完成間近だった相撲を自らおかしくしてしまう一時期もあった。

一方で、良く言えば他者の評価に真摯な性格が負けを呼んでしまった事もある。千代の富士を倒した場所でその後なかなか白星が上がらなかったり、婚約場所になった1992年九州場所で序盤4連敗した例なども雑音に負けた好例といえよう。一時期相撲記者やカメラマンとの間で深刻な対立を招いたこともあった。師匠二子山や兄弟子の安芸乃島勝巳らの仲裁、助言もあって、こうした面は徐々に緩和される。

1994年11月場所後に横綱昇進が決定。横綱として最初の2年近く(1995年1月場所〜1996年9月場所)は他を寄せ付けない圧倒的な強さで、12場所中8場所をも制覇していた。特に1996年は年明けから3場所連続14勝。3月から9月場所では自身初の4連覇達成。9月は4度目の全勝優勝。当時24歳という年齢で優勝15回という実績や全く隙の無い完璧に近い彼の相撲内容を考えると、大鵬や千代の富士の優勝回数を抜くのは時間の問題であるとさえ言われていた。この頃が貴乃花が最も強い全盛期だったと言える。

しかし1996年11月場所に、背筋の肉離れと急性腸炎で休場したことを境に、相撲に陰りが見え始める。休場の間に上体だけが肥えてしまい、1997年以降は体をのしかけて潰す相撲に変貌。更に強引にねじ伏せたり浴びせ倒したりする等明らかに相撲の質が落ち、好角家からも批判されるようになる。大型力士に対抗するために自らの判断で体重を増やしたのだが、あまり上手くいかなかった(兄の花田勝は洗脳騒動で話題になった整体師に過食を勧められたからであると自身の著書で述べた。だが、貴乃花自身は2005年に「大変お世話になった人。洗脳騒動は母と兄によって捏造されたものだ」と否定している。話題となった整体師は何も語っていない。)。それまではかなり熱心で体の毛も生えない程だった稽古も、準備運動は入念にするものの実戦的な稽古量が激減するという事態に陥ってしまった。1997年は過去の稽古の貯金もあって3度優勝して横綱の面目は十分に保てたが、1998年以降はその貯金も底を付いた状態となった。1998年1月場所終盤、原因不明の発熱と湿疹で途中休場、翌場所も序盤から崩れて肝機能障害により休場に追い込まれた。7月場所と9月場所は連覇して優勝回数を20回の大台に乗せたが、その後は怪我や病気に苦しみ、2年以上優勝から遠ざかる事になった。

特に1999年は年明けから大崩れして、1月場所は序盤から崩れて盛り返す事無く8勝7敗。3月場所は10日目の相撲で左肩を骨折して途中休場。5月場所は全休、復帰した7月場所は序盤は好調だったものの、中日の出島との取り組みで左手薬指を脱臼し、その影響で終盤崩れて9勝止まり。9月は怪我が治らないのに、何故か出て来て一つも勝てずに3日目から休場。再起を賭けた11月場所も初日に敗戦して、最後を思わせるほどになってしまった。しかし中盤以降は持ち直して、千秋楽まで優勝争いをして望みを繋いだ。またこの頃から稽古量が上向きになり、2000年は12勝、11勝、13勝と復活間近を思わせた。7月場所に上腕二頭筋を断裂してまたもや途中休場、翌9月場所を全休してしまうが、休場明けの11月場所に11勝で繋ぎ、翌2001年1月場所にとうとう復活優勝を遂げた。一度変貌した相撲内容は更に変貌し、嘗ての自在の内容に代わり、完全に腰を固め、充分に捕まえて逡巡せず勝負に出るようになって新生貴乃花を印象付けた。ただ一歩腰の備えが崩れると根こそぎ持っていかれたりバッタリ手を突いてしまう危険性を孕んでいたので安定感には然程信頼を置けないものの力強さは最盛期以上とも思える相撲振りで、5月場所は初日から13連勝して向かう所敵なしの強さだった。

しかし、その同年5月場所14日目の武双山戦で、土俵際で巻き落としを喰らって右膝半月板を損傷する大けがを追う。もはや立つことも困難なほどの重傷であり、本来休場するべきところであったが、幕内優勝が掛かっていたため、翌日の千秋楽は無理矢理強行出場した。しかし本割りの仕切り最中に右膝を引き摺るような仕草があり、勝負にならないのは明らかで、予想通り武蔵丸戦には自ら負けるような内容で全く相撲にならなかった。決定戦は誰もが武蔵丸の勝利を確信していたがそれを覆し、武蔵丸を豪快な上手投げで破った。奇跡ともいえる優勝を飾り、小泉純一郎首相からも絶賛されるほどであった。この一番は多くの相撲ファンが感動したものであったが、後にその代償は予想以上に大きい事が判明し、逆に大きな禍根を残す事になった。貴乃花は翌場所から1年以上休場し、大けがした右膝をフランスで手術を受けて再起を目指した。世間も最初は「休場してゆっくり治せば良い」と温かい目で見ていたが、休場が1年近くになった頃から、貴乃花に対する風当たりは場所毎にきつくなり、横綱審議委員会も苦言を呈するようになった。

2002年9月場所、万全の状態では無かったものの横審委員会からの勧告も有って、遂に8場所ぶりの出場に踏み切った。序盤は足が思うように動かずにややもたついた相撲が有り、場所途中での引退も囁かれたが中盤から終盤にかけて星を伸ばし千秋楽に武蔵丸と横綱同士の相星決戦にまで持ち込み敗れはしたものの12勝を上げての準優勝、7場所のブランクを考えれば上々とも言える結果だが相撲内容は最後まで良くなることは無く場所終盤には再び膝の状態が悪化、翌11月場所はまた休場することになる。

そして、貴乃花自身最後の場所となった2003年1月場所、初日の若の里に土俵際追い込まれながらも、辛うじて小手投げで勝つという有様で、翌2日目の雅山戦では二丁投げを喰らって左肩を負傷、明らかに不利な体勢であったが取り直しとなり勝利したが翌日から休場する。5日目に再出場して2連勝はしたものの、かつての貴乃花の相撲には遠く及ばない内容だった。そして7日目は出島に一気に押し出され、8日目には初対戦の安美錦に完全に翻弄され良い所無く送り出しで敗れてしまい、この安美錦との一番を最後に、翌日ついに引退を発表した。引退会見で連発した「非常にすがすがしい気持ち」、「心の底から納得しております」は、一時流行語にもなった。しかし右膝の大怪我が無ければ年齢的にもう2、3年は取れそうでもあっただけに、30歳という早い引退は非常に惜しまれる。貴乃花が引退したことにより、番付から日本で生まれ育った横綱が姿を消してしまい、2007年現在もその状態が続いている。

なお、初土俵以来本場所ではガチンコを貫いたといわれており、昨今取りざたされる(金銭授与の)八百長疑惑とは完全に無関係である。かえって逆に引き合いに出される事もある。当時貴乃花は事あるごとに相撲とは「命懸け」なのだと発言していた。当時怪我だらけだったのも八百長に見られるような相撲を取りたがらなかった為と言われている。

身長185cm、体重154kg(いずれも全盛時)。少年期〜中学生時分にはいわゆる肥満児だったが、入門後一度ガリガリにやせた後で、その上に徐々に肉がついていくという、相撲取りとして理想的とされる成長の仕方をした。この太り方は学研の学習雑誌小学生の学習・科学にも写真が掲載され紹介された。特に初優勝から大関へ駆け上がる時期の変貌ぶりは鮮やかで、それゆえにドーピング疑惑まで取りざたされたほどだった。肩幅広く、鳩胸で太鼓腹、あと胴長短足なら力士の理想像そのものとまで言われたが、最後の点だけは当人もどうしようもなかった。又、横綱正装姿はとても絵になったが、いざ土俵入りとなると四股は美しかったが、肝心のせり上がりが低く構えすぎであると酷評され、あまりの酷さに当時の境川理事長が激怒した事もあった。この点、四股に注文がつけられ、せり上がりが評価された曙と好対照をなしている。

横綱曙とは数々の名勝負を演じた。幕内での対戦成績は21勝21敗、優勝決定戦まで含めた本場所中の対戦成績は25勝25敗と、全くの五分である。

右四つ、寄りを得意としていたが、時に左四つの相撲や突き押しも見せるなど、取り口は多彩。横綱昇進後は、安定感のある下半身で相手を受け止める、いわゆる「横綱相撲」を得意とした。東京場所で強かったが特に9月秋場所とは相性が良く、通算で6回優勝、1994年から98年まで5連覇、3年連続全勝、48連勝などを記録した。

引退後は、父親の代から引き継いだ貴乃花部屋の親方になったが、部屋に住んでいないなど奇行も目立った。2005年5月30日の父の死に際して兄との確執が噴出し、マスコミを巻き込んで騒動に発展した。また返す刀で日本相撲協会の体質をも批判したため、同年7月場所中に相撲協会から厳重注意を受ける舌禍事件まで起こしてしまった。

松村邦洋やバナナマンの日村勇紀らがものまねをしており、雨上がり決死隊の宮迫博之も「松村がやる貴乃花親方のものまね」を披露している。また現役引退後には葉巻を吸い始めたが、1日も早く関取誕生を願うという意味で、2006年4月から止めているという。また近年は減量も始めており、現在の体重は80kg台と言われている(本人談によると現在は85kg)。最近は夫婦でバラエティ番組に出演する機会が増えているが、出演すると最初に必ず体重のことに触れられている。現役時代は何を訊いても殆ど答えないという相撲記者泣かせであったが、最近は番組内でよく喋る姿が映し出され、現役時代には想像も出来ない天然振りを発揮することもある。

『就職場所』と言われるほど新弟子採用の多い春場所であるにもかかわらず、2006年3月場所の貴乃花部屋入門者は0人、という事態が発生している。また、年を追うごとに在籍力士数も減少、関取および幕下上位力士も同年9月場所終了時点で1人も存在しない。これらの事から「あと5年で貴乃花部屋は消える」と言われるほど、部屋の運営状況は深刻化している。あまりの状況に「(同じ一門で最初に横綱になった2代目若乃花の)間垣部屋に吸収合併され、二子山部屋として再スタートする」などの噂が流れたこともある。ただし、これらの背景には若い世代の相撲離れがあり、多かれ少なかれどの部屋も抱えている問題でもある。

決して外国出身やアマチュア相撲の実績者など、即席の関取づくりに走らない指導方針は、一定の評価も得ている。現役中から児童むけの相撲道場を主催するなど、かつての自分がそうだった様な根っからの相撲っ子あがりの力士を育成したいという、長期展望の持ち主でもある。ただ、そうした理想論すぎる部屋の運営方針に、旧二子山部屋時代からの後援会などと軋轢を起こすことも多々あり、師匠として部屋の経営者として、その手腕が問われるのはこれからともいえる。

1972年 8月12日、東京都杉並区で、大関貴ノ花の花田満、元女優の藤田憲子(2001年離婚)の次男として生まれる。
1979年 杉並区立松ノ木小学校に入学。
1982年 東京都中野区の藤島部屋土俵開き。光司も一家とともに、部屋のある中野区に本籍を移転。(現在の本籍も中野区にある)
同年6月、わんぱく相撲東京場所に出場、4年生の部で優勝。
1985年 明治大学付属中野中学校に進学。同校の相撲部に入部し、中学3年間で40勝1敗の成績を残す。
1988年 兄勝(元横綱若乃花、現タレント花田勝)とともに、藤島部屋に入門。同年3月に初土俵。四股名は貴花田光司(たかはなだ・こうじ)。ほかに同期の力士は曙太郎、魁皇博之など。
1989年 九州場所に十両昇進。
1990年 春場所に幕内昇進。
1992年 初場所で初優勝。
宮沢りえ(女優)との婚約を発表し、当時国民的な人気を誇っていた2人の若者同士の交際が大きな話題となる。
1993年
初場所後に大関昇進。四股名を貴ノ花と改名。同日、宮沢との婚約解消を公表。この時相手を悪く言うことをせず「(彼女への)愛情がなくなりました」とだけ言って泥をかぶった姿は感心もされたが、多くの女性と宮沢ファンを敵に回した。宮沢と最後に会った時に言われた言葉は「強い横綱になってください」だったという。
夏場所を14勝1敗で優勝。ちなみにこれは宮沢との破局がなければ、「挙式直前場所」になっていたはずの場所である。
つづく名古屋場所でも曙、若乃花と優勝同点だったが横綱昇進を見送られる。
秋場所では曙に優勝を許し、最年少での横綱昇進を逃す。しかし14連勝の曙を千秋楽で全勝を阻止した一番は名勝負として語り継がれる。
九州場所でも成績次第では横綱昇進とされたが7勝8敗と負け越し、翌年初場所は史上最年少のカド番大関として臨むことになる。
1994年 カド番の初場所で14勝1敗と優勝で復活、以降秋場所まで5場所で1場所おきに3場所優勝する。
特に秋場所は初の全勝優勝を達成。場所後、横綱昇進を議論されたが、名古屋場所が11勝4敗と成績が振るわなかったことから見送りが決定。
四股名を貴ノ花から貴乃花と改名して臨んだ九州場所千秋楽で、横綱曙を下し、2場所連続全勝優勝。横綱昇進を確実とする(この貴乃花−曙は平成の名勝負と騒がれている)。
1995年 初場所に横綱昇進。
同年5月、元フジテレビアナウンサーの河野景子と結婚。
1998年 秋場所に20回目の優勝。このころ、整体師による洗脳騒動などで父の二子山親方、兄の横綱若乃花らと不和。特に兄とは絶縁まで宣言した。
1999年 9月に兄と一旦和解。 
2001年 夏場所14日目の大関武双山戦で右膝の半月板を損傷。出場が危ぶまれた千秋楽に強行出場。優勝決定戦で横綱武蔵丸を下し、通算22回目の優勝を果たす。観戦に訪れた首相の小泉純一郎は、表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡し、「痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!」と称賛。これが最後の優勝となり、この後7場所連続で全休する。
2002年 秋場所、8場所ぶりに出場。進退をかけて臨んだこの場所で、6日目からの9連勝を含む12勝をあげ、最後まで横綱武蔵丸と優勝争いを繰り広げたが、千秋楽の直接対決に敗れ優勝を逃す。
2003年 初場所8日目限りで現役を引退。日本相撲協会は、相撲界の隆盛に格別の功績があったとして、一代年寄・貴乃花を贈り、功労金1億3000万円を支給した。同年3月、年寄名跡・山響株を取得(名乗りは一代年寄・貴乃花のまま)。同年6月1日に断髪式を行う。
2004年 6月1日に正式に二子山部屋を継承。名前も貴乃花部屋に変更され、同日、1500人を招待して創設パーティーが行われた。
その後、相撲にかかわる人間としてはありえないくらいあばらが浮き出ていて、激やせぶりも注目された。胃袋が一般人より大きくなり、食事量を減らすのは至難のわざと言われる引退後の相撲取りの中では異例とも言えるやせ方である。彼の並々ならぬ精神力が伺える。
同年7月7日、兄・勝の遺産相続の放棄の宣言により、父の遺産は次男である本人が受け継ぐことになっている。その理由はまだ明らかにされていない。
同年7月18日、民放のテレビ番組などで日本相撲協会の運営を批判するかのような発言をしたとして協会から厳重注意を受ける。
2006年5月25日 両国国技館で行われた師匠会に出席。
2006年5月28日 故二子山親方の一周忌法要が東京都杉並区の天桂寺で行われるため列席し営まれた後、墓前で相撲協会錬成歌を若手力士らと共に歌った。
2006年5月30日 命日の30日に旧二子山部屋に縁のある元力士らを集めて千代田区のホテルで、しのぶ会を開く。

コメント(1)

兄弟の活躍した時代は、ほとんど興味がありませんでした。
何故か・・うまく言えませんが、
千代の富士にはあって彼らにはないもの・・
言葉に出来ません。
私の中で相撲が終わった時代でした。
ただ宮沢りえちゃんとの婚約会見は清々しさがあり、好感が
持てました。

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