ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

我が愛しのアスリート図鑑コミュのM・ファンバステン(サッカー)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten, 1964年10月31日 - )は、オランダ・ユトレヒト出身の元サッカー選手。2004年からオランダ代表監督を務めている。「オランダトリオ」のひとり

FWに必要な能力を全て兼ね備えた万能型ストライカー。1987年から在籍したイタリアセリエAのACミランでは、ルート・フリット、フランク・ライカールトらと共に「オランダトリオ」と呼ばれ、国内リーグ優勝やUEFAチャンピオンズカップなどの数々のタイトルを獲得。ACミラン黄金期の象徴的存在となった。

オランダ代表としては、1988年のEURO1988において栄冠を勝ち取っている。特に決勝のソ連戦で見せたダイレクトドライブボレーシュートは、「20世紀最高のゴール」とも賞されている。

度重なる怪我のため活躍した期間は長くなかったが、世界のサッカー史上最高のフォワードの1人としてファン・バステンを推す声もある。一方、バロンドール最多受賞(3度、タイ記録)やクラブチームでのタイトルの栄光に比べると、FIFAワールドカップにおける活躍が乏しいこと(ゴールなし)が評価を下げていることも事実である。

キャリア全盛期を過ごしたACミランでは、ファンに「神は8日目にマルコを創造した」とまで言わしめた。また、彼が引退を表明した直後のシーズンにはホームスタジアムの観客席に「マルコのいないサンシーロは羽の無い風車だ」という横断幕が掲げられた。

本名はマルセルでマルコは愛称である。マルコの由来は彼の祖母がマルセルの発音が難しかったことからマルコと呼び始め、それが定着したからである。

スパイク契約はミラン移籍後からディアドラであり、オランダ代表のチームカラーであるオレンジ色のロゴのスパイクを履いていた。ロベルト・バッジョと並び、当時の同社の看板選手であった。

長身ながら繊細なボールタッチが魅力的な万能センターフォワード。その優雅なプレーの数々から「ユトレヒトの白鳥」の異名をとった。

自らサイドに流れてのプレーは言うに及ばず、下がりながらボールを受け、ラストパスを出す事もたやすくこなした。オフサイドラインをかいくぐりゴール前に飛び出すプレーも得意であったし、ドリブルでディフェンダーを抜くこともでき、当然ながら長身を生かしたヘディングも素晴らしく、さらに、アクロバティックなシュートも決めいていた。豪快さには欠けるが、頭、両足から繰り出されるシュートは針の穴を通すように正確で、かつ、ミドルシュート、ループシュート、ドリブルでキーパーをかわしてシュート等、得点パターンを豊富に持っていた。自らのゴールで勝利を呼ぶ事も多かったが、マークを自分に引き寄せ周りに得点させることも多かった。あらゆるプレーの質が高く、一発で試合をひっくり返すことができた。これだけの選手でありながらセットプレーからの得点時にはフリーでボールを受ける場面も多く、ディフェンダーのマークを振り切る技術にも長けていた。

また、彼は執拗なきついあたりやバックチャージなどを度々受けていたが見事なボディーバランスで倒れようとはしなかったため(有名なのは1990年のトヨタカップのループシュートまでのプレーの流れ)、そのことが怪我をまねく原因と見る人も多かった。

PKの蹴り方が独特であり、一度ジャンプしてから長めの助走をつけて蹴る(これは練習中の癖が残ったものだという)。しかしGKに間を読まれることもあり、1992年の欧州選手権ではデンマークの名手・ピーター・シュマイケルに読み切られ止められてしまう。オランダは彼だけが失敗し、準決勝で敗退することとなってしまった。

プロデビューは17歳のときで、先発のヨハン・クライフが自ら指名して交替出場。その試合でハットトリックを達成している。

クラブチームで活躍で、彼をサッカー史上最高のFWと評価している人もいるが、オランダ代表、特にワールドカップでの活躍が皆無のため、そのことに対して異論を唱える評論家もいる

彼に憧れる選手は多く、ティエリ・アンリ(アーセナル・フランス代表)、アンドレイ・シェフチェンコ(チェルシーFC・ウクライナ代表)、日本では高原直泰(アイントラハト・フランクフルト・日本代表)らがいる。

「9本のスーパーゴールと10本の平凡なゴール、どちらかを選べというなら僕は迷わず10本の方を選ぶよ」との発言からわかるように「どんなゴールだったか?」よりも「ゴールしたか否か?」にこだわっていた。また彼はゴールを決めたあとも、チームメイトに祝福された瞬間だけ笑顔をみせ、それ以外は素っ気無い表情でゆっくり自陣に戻るというのが常だった。

1988年、欧州選手権決勝のソ連戦に見せたシュートは伝説とも言われるワンプレーだった。アーノルド・ミューレンの左サイドからのクロスに走り込み、ダイレクトボレーで自分とは対角のゴールに豪快にたたき込む。しかも、ドライブがかかっていた(ファン・バステンによれば「意図してかけたわけではなかった。ふと見たら、ゴールにボールが入っていたので僕が驚いた」)ため、レフ・ヤシンの後継者と呼ばれた当代屈指の名GKリナト・ダサエフですら防ぐことは不可能であった。

難易度の極めて高いプレーを、後で自分でも驚くほどいとも簡単にやってのける、それが全盛期のファン・バステンだった。

1995年に引退後はしばらくサッカーから離れていたが、2003年に古巣アヤックスのユースチームのアシスタントコーチに就任すると、そのわずか1年後にはディック・アドフォカートの後任としてオランダ代表監督に就任した。

指導者としては皆無に等しい実績から、疑問を差し挟む声も少なくなかったものの、フタをあけてみればワールドカップドイツ大会予選でチェコ、ルーマニアといった強豪と同居し「死のグループ」と呼ばれたグループ1を10勝2分けという圧倒的な成績で1位通過を果たし、日韓ワールドカップ予選敗退の悪夢を払拭した。

監督としてのファン・バステンは4-3-3システムを重用しているように、リヌス・ミケルス以来のトータルフットボールの伝統を受け継いでいるが、最大の特徴は新しい選手の召集に非常に積極的な点である。彼はこれまでほとんど注目されていなかったオランダ3強(アヤックス・フェイエノールト・PSVアイントホーフェン)以外のチームからも多くの選手を召集している。特に2000年代に3強を脅かすクラブに成長したAZアルクマールの選手を重用し、デニー・ランツァート(現ウィガン・アスレティック)、ヤン・クロンカンプ(現PSVアイントホーフェン)、ヨリス・マタイセン(現ハンブルガーSV)、バリー・オプダムなどの有能な選手がブレイクするきっかけともなった。

またライアン・バベル、ヘドヴィヘス・マドゥロ といったリーグでの実績がほとんど無かった選手でも戦力になると思えば躊躇なく召集する一方で、実績はあるが調子が悪かったり代表でのプレーの質が悪い選手(パトリック・クライファートら)は容赦なく戦力外としている。彼の下では実績は意味を成さない。そのため、クライファートなど実績のある代表候補の選手の中には「(ファン・バステンが監督在任中は)代表に復帰しない」と明言する者もいる。

アドフォカート時代の硬直的な選手起用で溜まっていた代表の閉塞感を打破し、チーム内の風通しをよくしたことは大きな意義がある。もっとも、あまりにもメンバー構成が毎試合異なるので、「いくら何でも試しすぎ」との批判もある。

2006年のワールドカップは死のグループと呼ばれたグループCを2勝1分けの成績で突破したが、決勝トーナメント1回戦でポルトガルに敗れベスト16に終わった。しかしオランダサッカー協会はファン・バステン監督を留任させることを決定し、契約を2010年まで延長した。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

我が愛しのアスリート図鑑 更新情報

我が愛しのアスリート図鑑のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング