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我が愛しのアスリート図鑑コミュのラモス瑠偉(サッカー)

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ラモス瑠偉(ラモス ルイ、Ramos Ruy、1957年2月9日-)は、ブラジル出身の日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現東京ヴェルディ1969監督。ブラジル名はRuy Gonçalves Ramos Sobrinho(ルイ・ゴンサルベス・ラモス・ソブリニョ)。

ブラジルのリオデジャネイロでサッカー好きな税理士の父の元、5人兄弟の4番目の子として生まれる。愛称のカリオカは「リオっ子」という意味で出身地に由来する。1977年に来日。1989年に日本に帰化。1984年に結婚した初音夫人との間に1男1女。

少年時代リオからサンパウロに移り、20歳の時に当時読売FC(現東京ヴェルディ1969)でプレーしていたジョージ与那城にスカウトされる。1977年4月に来日し入団。当時のニックネームはラモスの細い肉体に着目して名づけられた「エンピツ」。その後「リオっ子(リオデジャネイロ生まれ)」を意味する「カリオカ」の愛称で親しまれる。

MFとして有名だが、本人によればブラジル時代はDFとしてプレイしていたという。そして来日からしばらくはFWとしてプレイした。若くて気性も荒く、日本語もわからなかったためトラブルを起こし、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けた事もあった。国内唯一の"クラブチーム"、ブラジルスタイルの"プロの集団"である読売クラブに対しては、日本サッカー協会や実業団チームからの妬みや反発が強く、クラブを代表してラモスが被害を被った側面もある。しかし1年間の出場停止が解け復帰した1979年はいきなり、"得点王"と"アシスト王"の二冠を獲得。この偉業は日本サッカーリーグ史上、釜本邦茂とラモスしか成し遂げた者はいない(Jリーグではアシストの個人表彰を行っていない)。

サントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表を招いた85年キリンカップでは、日本代表と並んで読売クラブが参加した。この大会でも読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に善戦、ラモス自身もテクニックが高いことを十分に証明した。この大会で何とも情けないのが日本代表。海外クラブに勝てないどころか、対読売クラブ戦に「惨敗」。勝てないのも当たり前で当時日本代表レギュラーの約半分が読売クラブ。国の代表として全く良いところ無く終わり、その反面、読売クラブの、そしてラモスのテクニックが「世界基準」であることを改めて証明した大会であった。

このころよりセルジオ越後らと共に全国で少年サッカー教室を開き、後のJリーグ世代となる多くの子供たちの憧れの選手となる。

日本サッカーが低迷する時代、読売FC(現在の東京ヴェルディ1969)対日産自動車(現在の横浜F・マリノス)だけはラモスの活躍もあり「黄金カード」として注目の的であり続けた。敵チームながら木村和司らと不遇の日本リーグ時代を支え、Jリーグ開幕、W杯出場へと日本サッカー発展させた功労者の一人。当時のラモスを木村和司は「非常に汚い選手だった…うまいけどね」と振り返る。

1989年に日本に帰化しサッカー日本代表に加わり、中心選手として活躍。1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア予選の日本代表に選出されるが、ブラジル流サッカーを信奉するラモスは、規律と組織を重視するハンス・オフト監督批判をマスコミ上で展開したため、一時期代表を外されかねない危機もあった。オフトとの和解後は代表のキーマンとして活躍するも、ドーハの悲劇を経験。

Jリーグの発足で、読売FCからヴェルディ川崎になっても中心選手としてJリーグ創生期のクラブ黄金時代を支える活躍を続けていたが、1996年夏にヴェルディの監督に就任したエメルソン・レオンとは以前から確執があったことから、レオンの下でプレーする事に対して拒絶反応をあからさまに示し京都パープルサンガへ移籍する。しかし翌1997年夏にレオンが退任するとすぐさま古巣のヴェルディ川崎に復帰。入団時に「関西のサッカーを盛り上げるために来た」と発言しながら、結果的には腰掛けにされた形の京都のサポーターには、このためにラモスの人格に対して疑念を持つ者も少なくない。

1998年11月に現役を退く。1999年8月にはカズや武田修宏、北澤豪などのヴェルディ・オールスターズとJリーグ選抜軍によるJリーグ初の公認引退試合が国立霞ヶ丘競技場で開催された。この試合の最後の挨拶でファンに向けて「生まれかわっても、日本に来てワールドカップへ出たい」と涙ながらに語った。

引退後は評論家として活動。一時、解説業も行っていたが、サッカーへの情熱が人一倍強いがゆえに、プロ意識の低い選手をストレートに批判する際に乱暴な言葉遣いになってしまうことから、テレビ局側から敬遠されてしまう。

2000年にブラジル政府より「リオ・ブランコ勲章」を受勲した。

2002年に、沖縄かりゆしFC(九州社会人リーグ所属)のテクニカルアドバイザー兼任の形で現役復帰を果たすが、シーズン終了後の経営陣との対立からの退団でチーム内選手の集団退団騒動にまで発展した。またこの年、連続テレビ小説さくらに居酒屋の主人役で出演した。かりゆしFC退団後は、退団選手が中心で、恩人・与那城ジョージが監督を務めるFC琉球(JFL)のテクニカルアドバイザーを務める。

2004年10月にJリーグの監督を務めるために必要な公認S級コーチの資格を取得。2005年にビーチサッカー日本代表の監督に就任し、ビーチサッカーワールドカップではベスト4の躍進に貢献。同年9月13日、J1リーグで降格争いの真っ只中にあった柏レイソルのコーチに就任。古巣ヴェルディのJ2降格を決定させる試合の対戦相手として引導を渡す役目になるという皮肉な巡り合わせもあった。柏では監督の早野宏史よりもメディアに取り上げられるなど話題性はあったが、チームはヴェルディともどもJ2降格となりコーチを辞任。

2006年からはJ2落ちした古巣の東京ヴェルディ1969の監督に就任。前年度のレギュラーの殆どを失うチーム状況の中、「1年でJ1復帰」を掲げ、J2に加えACL出場のため登録メンバーを大幅に増やして臨んだが日程は過密となり、前年からの課題であったディフェンス面での不安を解消することが出来ず、J2初年度は7位で終了した。

2007年も指揮を執ることが早々と決定。チームは名波浩、服部年宏ら実績あるベテランを獲得。在籍メンバー大半を入れ替える大型補強を行い、開幕前にはJ1昇格候補の筆頭に挙げられた。体制発表の際にクラブの萩原代表からは、圧倒的な強さを見せられなかった場合は早期解任の可能性まで示唆されており、背水の陣で臨むシーズンとなった。開幕5試合で4勝1分とスタートダッシュに成功したが、その後課題のディフェンス面の不安が露呈し連敗を重ね、第7節(対アビスパ福岡戦)から第12節(対サガン鳥栖戦)まで6連敗を喫してしまい、「(この先)2連敗なら解任」などといった厳しい状況に追い込まれた。そのような状況の中、第13節(対水戸ホーリーホック戦)も大敗を喫しクラブワーストタイの7連敗となり、しかも不調の水戸に大量得点での今期初白星を献上するという失態に、次節の結果に関係なく解任濃厚(後任はコーチの柱谷哲二の昇格が有力)と報道された。しかし、続く第14節(対京都サンガF.C.戦)で4-1と大勝し、一転続投が決まった。

技術・攻撃的能力が高く、FW、攻撃的MF、ボランチと中盤から前ではどのポジションでも一流の実績を残した。日本リーグ時代のプレー振りからドリブラーの印象も根強くもたれているが、本質的にはパサーであり、「ラモスのように正確でやわらかいパスを出せる選手はその後現れていない」 元々DFだったため守備的能力も高い。最も印象的な(得意な?)プレイは、中盤で相手のパスを奪ってそのままダイレクトに素早く縦パスを出すもので、93年のドーハの悲劇の時、韓国戦で取ったカズの得点は、ラモスのこのカウンター気味のパスから生まれた。

来日当初はうまい選手としては思われていなかった。その後、悪質な反則(本人曰くブラジルではあたりまえのプレー)で1年間の出場停止を食らい、試合に出られず練習しかできない日々の中で技術的に向上したと思われる。当時を知る者は「下手な選手だったけど、日本に来てからうまくなった珍しい選手だ」と評価する。

現役引退後でも、親交のある選手(いわゆる"ドーハ組"など)の引退試合等に招待出場する機会があると、現役選手に混ざっていても色あせないプレーを見せ周囲を驚かせる。 生田智子(中山雅史の妻)はテレビ番組で「ラモスさんは技術があったから40歳までプレーできた」とコメントしている。

2007年にTBSスーパーサッカーの企画にて、現役バリバリのサッカー女子日本代表を揃えた「なでしこオールスターズ」を相手に、元日本代表で固めた「スーパーサッカーオールスターズ」の一員として参加。年下の小倉隆史や福田正博をさしおいて49歳とは思えないプレーでチームの挙げた得点の半分である5得点を叩き出し衰えない技術を披露。この活躍ぶりに加藤浩次から賞賛の意味で「今季は(ヴェルディで)プレイングマネージャーでいけるんじゃない?」とコメントをもらった。

子供のころ、体格的に細身だったのでジーコ(Zico・やせっぽち)とも呼ばれていた。これは前・日本代表監督であるジーコとおなじ理由である。
食事面でも日本にも慣れ親しんだが、本人曰く海産物は苦手。フジテレビ系『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王」出演の際には、豆腐も「味がしない」という理由で食べられないとコメントしていた。酒は生ビールしか飲まない。
左肩に妻の名前とハートマークに弓矢の刺さったタトゥーを施しており、Jリーグ開幕前後に多数あったスポーツニュース系番組での密着取材の際に愛情の証として度々披露していた。
ディスコ好きで有名。私服時は靴下は履かず、常に裸足で靴を履くこだわりを持つ。
「もっとも卑怯なフェイント」(一部のファンが良い意味で言っていることだが)こと「審判が笛を吹いた」フェイントの考案者として知られている。これは、相手選手とボールを奪い合っている真っ最中に、突如動きを止めて両手を広げ「おい、今のプレイのどこがファウルだって言うんだ!」と叫ぶというもの。相手選手は、審判がラモスのファウルを取ったと勘違いしてボールを奪う動作を中断するが、実際はオンプレイなのでその隙にラモスがボールを奪ってしまうのである。試合場はサポーターの歓声や鳴り物が響いているので相手選手が笛を聞き逃したと思ってしまう可能性は高く、面白いほど効果を挙げたそうだが、相手チームから「あのフェイントは止めろ」と言われ封印したという。
喧嘩サッカーを信条としており、指導者になってからも「組織力や技術が優れていても、裏づけとなる精神力・闘争心がなければそれは無駄になる。どちらも必要だ」という発言をしばしばしている。ピッチ上でもピッチ外でもラモスは闘争心を剥き出しにしており、その気性の荒さゆえにチームで浮いたり和を乱す存在と目されることもあった。1993年には当時ガンバ大阪に在籍していた賈秀全からファールを受けた際、報復行為として賈秀全の顔面にボールを投げつけ大乱闘となった。
1998年のフランスワールドカップ時にNHKの番組にて、惨敗した日本代表チームのプレーについて「こんなサッカーじゃオナニーしてるのと一緒だよ」と発言し、その後同局での解説はなくなってしまった。
いわゆる「ブラジルサッカー」の信奉者であること、また先に挙げたように精神面を重視する発言がよく取り上げられるが、選手時代に代表監督だったオフトをはじめ、引退後はヨーロッパサッカーにかかわる指導者の元でコーチ修行をするなどその思想の影響も受けており、指導者としてはイメージと裏腹の現実的な視点も持つ。東京中日スポーツでサッカー評論を担当した際には理論的・冷静な分析を披露し、驚くサッカーファンも少なくなかった。
元DFだった影響かディフェンスには厳しく、ドイツW杯前に、日本代表の三都主アレサンドロの守備が雑なため、サイドバックとしては使うべきではないと名指しで批判した。
2006年J2終盤、「J1復帰できたら丸刈りしヒゲも剃る」旨の発言があったが、同年のJ1復帰はならなかった。

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