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我が愛しのアスリート図鑑コミュのR・ブライアント(野球)

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ラルフ・ブライアント(Ralph Wendell Bryant , 1961年5月20日 - )は、プロ野球選手。右投げ左打ち。

アメリカ合衆国・ジョージア州フォートゲインズ出身。ボールドウィン農業大学で農学を学ぶ傍ら、アメリカンフットボールに没頭する(ポジションはレシーバー)。ロサンゼルス・ドジャースを経て、1988年に中日ドラゴンズ、同年途中から1995年まで近鉄バファローズに在籍。三振を全く恐れないパワフルな打撃で多くの伝説的な本塁打を放ち、多くのファンを魅了した。2005年に仰木彬監督の招聘でオリックス・バファローズの打撃コーチに就任した際に再来日したが、1年で退任した。

1981年 二次ドラフトで1位指名されドジャースに入団(前年のドラフトでもドジャースに、同年の一次ドラフトではミネソタ・ツインズに指名されたが、双方とも指名を拒否していた)。
1985年 初のメジャー昇格を果たすが、レギュラーは獲得できず、マイナーリーグとの往復を余儀なくされる。
1988年5月 ドジャースとの友好球団であった中日に入団。
同年6月 リチャード・デービスの退団で急遽外国人獲得を目指していた近鉄に金銭トレードで移籍。一軍戦では74試合で34本塁打を放つ驚異の長打力を発揮。近鉄躍進の原動力となった。
1989年 129試合に出場し、打率.283、49本塁打、121打点で本塁打王のタイトルを獲得。近鉄の9年ぶりのリーグ優勝に貢献し、シーズンMVPに選出された。
以降、1995年まで近鉄でプレーした。

1988年、西武ライオンズと優勝争いを繰り広げていた近鉄の主砲であったリチャード・デービスが同年6月7日に大麻不法所持により逮捕され、そのまま退団した。シーズン途中の前代未聞の戦力喪失にショックを隠せない近鉄は、急遽新外国人選手のリストアップを開始したがアテがあるはずもなく、途方に暮れていた。そんなある日、中日の二軍で変化球に対応できず三振を繰り返し、いかにもその年限りで見限られそうな左打ちの外国人選手を発見。それがブライアントだったのだ。二軍戦で、下手投げの軟投派投手である近鉄の佐々木修から、バックスクリーンに本塁打を叩き込んだのを目の当たりにした近鉄首脳陣は、その左打者の獲得を中日に打診した。

中日の二軍スタッフは彼の将来性を高く評価し、当時の星野仙一監督に一軍昇格を要請していたことから近鉄への放出にも反対した。しかし、当時のルールでは一軍登録の外国人枠は2名であり、しかも中日には郭源治(当時は未帰化)とゲーリー・レーシッチが一軍で活躍していたため、長打力はあるが三振があまりにも多すぎるブライアントは一軍に昇格させることができなかった(ウエスタン・リーグでの成績は、試合数26、本塁打6、打率.275、三振24)。 結局、中日は近鉄からの申し入れを受け入れ、6月28日に金銭トレードが成立。こうして、新聞にも掲載されないほど静かに「近鉄、ラルフ・ブライアント」が誕生したのである。

しかし、その後近鉄に移籍したブライアントは1試合3本塁打を3回達成するなど、わずか74試合の出場で34本塁打を放ち、近鉄のシーズン後半の驚異的な追い上げに貢献した。この頃は2点本塁打が多かったことから「ミスター2ラン」とも呼ばれていた。それまで中日の二軍にいた選手がここまで打ちまくることは近鉄・中日両球団はもちろんのこと、他球団も想像がつかず、近鉄ファンとフロントは狂喜乱舞し、他球団関係者はあ然とした。シーズン終盤に父親が危篤となるも、日本に最後まで残りチームに帯同。その最後の2試合こそ、伝説の「10.19」である(そして第2試合で見事に34本目の本塁打を打っている)。ちなみに近鉄への移籍当時、近鉄はナゴヤ球場でも試合を行っていたが、中日ファンの観客から「ブライアントを返せ!」のヤジがよく飛んでいたという。

そして翌1989年のシーズン終盤、パシフィック・リーグでは近鉄、オリックス、西武が三つ巴で優勝を争っていた。10月12日の西武球場での西武との直接対決(ダブルヘッダー)はまさに天王山であったが、ブライアントは第1試合、0-4のビハインドから4回表に郭泰源投手からチーム初得点の46号ソロ、6回表にも郭泰源から47号同点満塁弾、そして8回表、渡辺久信投手から48号勝ち越しソロとチームの6得点全てをブライアントが叩き出し勝利した。なお、この試合でブライアントは王貞治の持つ1試合3本塁打の通算回数(5回)に並んだ。

第2試合は1打席目は敬遠、2打席目は「まさかの4打数連続」を夢見るファンの期待に見事に応えて高山郁夫投手から49号ソロ。ブライアントはダブルヘッダー連勝の立役者となった。10月14日の対福岡ダイエーホークス戦勝利によるリーグ優勝決定時、仰木監督の次に胴上げされたのはブライアントであった。こうして、この年の近鉄のリーグ優勝に大きく貢献したブライアントはリーグMVPに選ばれた。

1989年の流行語「アンビリーバブル!」は10月12日のヒーローインタビューでカメラに向かって絶叫していた言葉。一方、西武の主砲清原和博は試合後このインタビューが終わるまで無言で腕組みをしたままベンチに残り、最後に起立して脱帽し一礼する様子がテレビに映し出された。実は清原はすべての試合でこの礼をしていたのだが、見た者は誰もが清原が近鉄とブライアントに敬意を表し、自らが優勝争いでの敗北を認めたと受け止めた。また、渡辺久信は台湾大聯盟・年代勇士での現役引退の際、最も心に残る場面として、数々の輝かしい自己の活躍があるにもかかわらず、ブライアントから勝ち越し本塁打を打たれたことを語り、その野球人としての誠実な答えは大いに評価された。

怪力を物語るエピソードは枚挙にいとまがない。

1990年6月6日、東京ドームで日本ハムファイターズの角盈男投手から天井スピーカーを直撃する一打を放ち、東京ドーム特別グラウンドルールにより本塁打に認定された。推定飛距離170m。当てることは不可能と予測された高さに天井スピーカーは設置されていた。そしてこれをきっかけに、東京ドームでは天井スピーカーに当てる認定本塁打を記録した選手に対してスピーカーの提供メーカーより賞金300万円を贈呈することになった(メインスピーカーのみ)。しかしその後、屋根を直撃させる選手は多数出るものの、この認定本塁打を打った選手は現れていない。
1990年7月24日、オールスターゲーム第1戦(横浜スタジアム)で斎藤雅樹投手からスタンド最上段広告板直撃の先制2ランホームランを放ち、次の打席では木田優夫投手から振り逃げというブライアントらしい活躍でMVPに選ばれた。
1992年、逆風8メートルの千葉マリンスタジアムで千葉ロッテマリーンズの今野隆裕投手からスコアボードを直撃する本塁打を放ち、電光掲示板を破壊した。
1993年4月18日、福岡ドームの公式戦第1号本塁打をダイエーの若田部健一投手から放つ。TV中継のアナウンサーは「打つべき人が打つものですね」と語った。
三振した後、ヒザでバットをへし折っていた。
空振りした後の戻しのスイングも速かった。
コーチ時代の2005年の交流戦、横浜スタジアムにて試合前のイベントとして横浜ベイスターズ打撃コーチの田代富雄とホームラン競争を行ったが、0本だった田代に対し、バックスクリーン横に2発、ライトスタンドに1発の計3本のホームランを放ち、自身のパワーの健在ぶりを見せ付けた。また2002年のモルツドリームマッチでのホームラン競争ではライトスタンドのJ-PHONE(現・ソフトバンクモバイル)の看板を直撃するくらいの大ホームランを放った。
三振が非常に多く、1シーズン200三振以上(204三振、1993年)を記録した日本・メジャー双方で唯一の打者である。日本のシーズン三振最多記録の上位4位までをブライアントが独占している。豪快なバッティングのため「ホームランか三振か」「ミスターK」「大型扇風機」と言われたほどである。

ブライアントが近鉄で大化けしたのは中西太ヘッドコーチの指導によるところも大きい。中西は、前に突っ込んで叩いていたブライアントに、呼び込んで打つ間合いの取り方を伝授した。また、ブライアントの三振の多さを指摘した記者に対して、中西は「いくら三振してもいい、アイツのホームランのおかげでどれだけいい思いをさせてもらったか」と答えている。そのような思いっきりの良いバッティングを推奨した指導がブライアントをここまでしたといっていいだろう。

ホームランと三振のイメージが強いため余り目立たなかったが、フォークボールを打つのがうまい選手でもあった。 それをセンター前にはじき返すバッティングは一級品と言ってもいいほどのものであった。

外野手としての守備範囲は狭かったが、意外と強肩であった。

1991年7月2日、二塁ベース帰塁の際、右膝半月板を損傷し、手術のためアメリカに帰国。このまま引退かとファンを心配させたが、翌シーズン無事に復帰した。

コーチ就任で来日したブライアント本人および仰木監督らによる後日談では、近鉄時代のホームランには1本あたり10万円のインセンティブが付けられていたと語った。当時の相場は1本100万円であったらしく、本人は当初「ケタを一つ間違えているのではないかと思った」と語っている。

俳優エディ・マーフィに風貌が似ていることから、チームメイトに「エディ」とニックネームをつけられた。金村義明ら当時のチームメイトによると、本人がこのニックネームで呼ぶことを強要していたとも言われる。

1989年10月12日のダブルヘッダーで、奇跡の4打数連続本塁打で西武を倒した翌日のスポーツ紙にはこう記載された。「エディ・マーフィにそっくりのブライアントがいるのではない。エディ・マーフィがブライアントに似ているのだ」

近鉄時代の応援歌の元曲は『仮面ライダーV3』のオープニング・テーマ「戦え!仮面ライダーV3」。

1995年オフ、ケガでほとんど出場できなかったために解雇されたが、その直後の近鉄ファン感謝デーに前ぶれなく飛び入りで参加し、最後までファンサービスに努めたという律儀な一面も持つ(通常なら解雇された外国人選手がシーズンオフも日本に残り、しかもファン感謝デーに参加することはまず考えられない)。また1999年11月21日に大阪ドームで行われた読売ジャイアンツとのOB戦では、両軍唯一の外国人OBとして出場した。心底日本野球を愛し、そして日本の野球ファンにいくつもドラマチックな本塁打を見せてくれたブライアントとの再会を観客は心から喜んだ。

一説によると引退後は故郷に戻り古本屋を経営していたという。

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