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我が愛しのアスリート図鑑コミュの名波浩(サッカー)

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名波 浩(ななみ ひろし、1972年11月28日-)は、静岡県藤枝市出身のサッカー選手である。ポジションはミッドフィルダー。Jリーグのジュビロ磐田・セレッソ大阪・東京ヴェルディ1969に所属。一時イタリアのACヴェネツィアにレンタル移籍していた。日本代表にもたびたび選出されフランスワールドカップにも出場した。Jリーグでベストイレブン賞を4度受賞している。

清水商高時代は大岩剛・山田隆裕・薩川了洋・望月重良らと共に高校総体・ユース選手権を制覇した。その後順天堂大学を経て、1995年にジュビロ磐田に入団。ジュビロでは入団直後からレギュラーとして活躍し、同年から日本代表入りしている。

1998年フランスW杯では、アジア地区予選から日本代表の一員として出場し、背番号10の日本のエースとして、本大会にも全試合に先発出場した。その後、日本代表の10番として、右ひざの怪我をするまで、約6年間君臨した。1999年夏にイタリアのSSCヴェネツィア(当時ACヴェネツィア)に移籍するも、出場機会は多くなく、契約更新には至らずに翌年帰国し、磐田に復帰する。

その後もアジアカップで優勝しMVPを獲得する活躍を見せるが、2001年に右膝半月板を痛めてしまう。手術以降は2002年日韓W杯の日本代表からは外れた。以後代表には1度招集されたのみ(出場は無し)。一方クラブレベルでは、その後もジュビロの中心選手として活躍し、2002年のJリーグ完全優勝(ファースト・セカンド両ステージ制覇)にも大きく貢献した。

2006年はチームの若返りを進める山本昌邦監督の元で次第に出場機会を減らしていた。彼の突然の辞任で就任したアジウソン監督の元でもそれは変わらず、出場機会を求めて暫定最下位と波に乗れていないセレッソ大阪に8月15日付けで2007年の1月31日までの期限付きで移籍した。最終的に自動降格は免れなかったが、加入前はわずかシーズン1勝だったチームが加入後は入れ替え戦出場を争うまでに調子を上げていった。なおセレッソ在籍時の2006年11月26日大宮アルディージャ戦で、Jリーグ通算300試合出場を達成した(J史上23人目)。

2007年1月16日、磐田から今度は東京ヴェルディ1969へ期限付き移籍することが発表された。期間は2007年2月1日-2008年1月31日まで。サッカーダイジェストインタビューにて、今シーズンをもって引退する事を匂わすコメントを発している。

現在二児の父である。

藤田俊哉を尊敬し、自他共に彼のプレーを一番理解していた人物であると評する。「でも、個人的な付き合いは高校時代からほとんど無かった」(名波談)。
全国高校サッカー選手権では市立船橋高校の主将・脇田(ペナルティのワッキー)にシュートを止められたことがある。
1997年第1ステージ、スキラッチや中山などの主力FWがケガで離脱した際、その鈍足ぶりにも関わらず前線でのキープ力を見込まれFWで数試合起用されたことがある。
足の遅さについては自身でもネタにしている。しかし長距離走ではそうでもなく中3のサッカー部引退後の秋のスポーツテストでは、1500メートル走を努力の末4分47秒で走り抜いてみせた、というエピソードもある。
「試合を見る眼」については自信があると述べ、「現役を辞めたらサッカー誌で採点の仕事でもさせてもらおうかと思うことがある」「サッカーマガジンの採点よりは公平に見れる」という発言をトークショーでしたことがある。
Mr.Childrenの大ファンとしても知られ、プライベートでもよくフットサルやサッカーに興じている。特にボーカルの桜井和寿とは長年親友関係でもある。彼らの17作目のシングル『I'LL BE』は名波がセリエAに移籍する際に、応援歌として捧げた曲である。
黒沢健一(L⇔R)に風貌が似ていると言われ、カラオケでもミスチル以外に『BYE』などのL⇔Rの曲が持ち歌の一つになっている。
ヴェネツィア所属時にはイタリアの新聞に、フィジカルが弱い、すぐに倒されて飛んでしまうという意味で「羽毛のように軽い」と表現されてしまった。
磐田に入ってくる多くの選手にインタビューで『最もすごいと思う選手は?』と聞くと『名波』と口を揃えて言う、といわれるほどチームに絶大な影響を与えた選手。磐田ユース育ちの選手にとっては名波のトレードマークである7番こそ中心選手のつける背番号というイメージが今もある。
背番号7番を好む理由について「苗字が『ななみ』だから」と言い、「73番とか773番でもいい。10番はイメージが込められすぎていて好きじゃない」とも述べている。代表では初召集時の14番を気に入っており、理由を問われると「ゴンさん(中山雅史)の後を継いだ感じがするから」と答え、友人である岡野に「10番と取り替えよう」という掛け合いを、テレビ、雑誌などさまざまな媒体で対談など顔を合わせると必ずやっていた。磐田復帰時やC大阪での背番号16は1+6=7と言う意味が込められていた。他に34(3+4=7)も用意すると言われたが、「大きすぎる番号は好みじゃない」と言っている。
2006年シーズン終了後、磐田側にはC大阪からのレンタル期間延長のオファーと、東京Vからのオファーの両方が届いていたが、癌のために東京で闘病中だった母親に近いところでプレーしたい、とヴェルディを選択したという。しかしその母は移籍発表直後の1月20日に64歳で死去してしまった。

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