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我が愛しのアスリート図鑑コミュのカール・ゴッチ(プロレス)

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カール・ゴッチ(Karl Gotch、1924年8月3日 - 2007年7月28日)はプロレスラー、無我ワールド・プロレスリング名誉顧問。本名はカール・イスターツ(Karl Istaz)。1961年まではリングネームとしてカール・クラウザー(Karl Krauser)と名乗っている。プロフィールではドイツ・ハンブルク出身とされているが、ベルギー出身との説もある。[要出典]身長188cm、体重110kg。得意技はジャーマン・スープレックス。2007年7月28日、死去。

日本においては、1961年4月日本プロレスの第3回ワールドリーグに出場するために、カール・クライザー(Karl Crauser)のリングネームで初来日。吉村道明を相手にジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開する(試合は引き分け)。力道山とも対戦し、引き分ける。なお、来日中、ビル・ミラー(覆面レスラーのミスター・Xとして来日)と共に控え室でグレート・アントニオへ制裁を加えたという噂がある。1966年7月に再来日、ジャイアント馬場のインターナショナル選手権に挑戦が決まっていたが怪我で断念。1968年1月日本へ移り住み、日本プロレスのコーチに就任。「ゴッチ教室」を開き、アントニオ猪木に卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授。さらに山本小鉄、星野勘太郎といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。ヨーロッパ仕込みのテクニックから「プロレスの神様」と称される。

その後はハワイで清掃の仕事などをしていたが、1971年3月国際プロレスの吉原功社長の招きで、第3回IWAワールドシリーズに参加。ビル・ロビンソンと5回対戦し、全試合とも時間切れで引き分ける。モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めるが、レフェリーがリング外でダウンしていたためフォールは認められず、ロシモフの逆襲に不意を突かれ敗れる。国際プロレスに所属していたアニマル浜口らを指導する。

1972年1月の新日本プロレス設立に助力。1972年3月から1974年8月にかけて、アントニオ猪木と5回対戦し、3勝2敗。1973年10月ルー・テーズをパートナーとしてアントニオ猪木&坂口征二組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。その後、フロリダ州タンパの「ゴッチ道場」において、藤波辰巳、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明ら、正統派プロレスラーを数多く育成する。1982年1月8日後楽園ホールにおいて木戸修と対戦したエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である。

その後は、第一次および第二次UWF、藤原組の顧問に就任し、所属プロレスラーを指導。佐山聡が設立したスーパータイガージムでも指導をする。シーザー武志へはシュートボクシング創設につながるアドバイスを与える。また、船木誠勝、鈴木みのるが1993年5月に設立した団体に「パンクラス」の名を与えている。2006年7月より藤波辰爾、西村修が設立した無我ワールド・プロレスリングの名誉顧問に就任。晩年は、タンパの自宅で西村修と夜な夜なビールを酌み交わしながら、プロレス談義に花を咲かせていたという。

2007年7月28日21時45分、アメリカ合衆国フロリダ州タンパ市にて82歳の天寿を全うした。2007年7月30日発行の東京スポーツ紙の記事では『大動脈瘤破裂』が死因だったとしている。

ゴッチはプロレスラーとしてそれほど大きな成功を収めておらず、アメリカではあまり知られていない。しかし、レスリングの技術とトレーニングに対する拘りで、日本では有名なプロレスラーである。インドのクシュティ、日本の柔道、ロシアのサンボを含む世界中のあらゆるレスリングに精通しており、「朝目覚めてから夜眠るまで常に『素手でいかに効率良く人を殺せるか』を考え続けている」と言われている。
ゴッチはレスリングを最も古く、最も難しいスポーツと考えており、キャッチアズキャッチキャンをレスリングの中で最強のスタイルとしている。打撃を含む総合格闘技に関しては一貫して否定的である。
ゴッチの行うトレーニング方法はインドに由来するものが多い。レジスタンストレーニングとしてはフリーウエイトを使うことは好まず、自重によるトレーニングを多用している。
柔道出身のプロレスラーであった木村政彦とゴッチは友人であった。ゴッチはグレイシー柔術については「自分も知っている昔の柔道以上のものではない」と語っており、あまり評価していない。
ゴッチは宮本武蔵を尊敬しており、五輪書を愛読している。武蔵の心境に近づくために、プロレスラーとして試合をすることがなくなってもトレーニングを続けている。
左手の小指の大部分を欠損している。この欠損の原因は、レスリングとは関係ない事故とされている。
ゴッチのファイトスタイルは、レスリング技術を主体とする「正統派」で、派手さが無く、興行が盛況に至らないという理由から、一部プロモーターには煙たがられていた。見る人間によって「独り善がりでプロレスを理解していない人間」か「妥協無き真のプロレスラーでありシューター」という風に、評価が真っ二つに分かれるプロレスラーである。プロレスラー間でも、日米問わず賛否が分かれており、ルー・テーズやビル・ミラーから高い評価をされている一方、新日本プロレスの道場での稽古で再会したザ・グレート・カブキはゴッチが関節を極める際に指を眼に入れるなどの妥協なき「技術」を駆使して来るために「ずるい」と、またジャイアント馬場も「コーチとしての腕は認めても良いが、レスラーとしては駄目」と発言している。
ゴッチがルー・テーズの保持するNWA世界ヘビー級王座に6回目の挑戦をした試合(1964年5月2日、ミシガン州デトロイト)において、ゴッチはテーズからバックドロップを仕掛けられた時に、自分の体重をテーズにあずけ、テーズの肋骨5本を骨折させた。テーズはダブル・リストロックで試合には勝ったものの、この骨折から回復するのに7ヵ月間かかり、特に骨折直後の2ヵ月間は、後に人生で最悪の時間であったと語るほど苦しんだ。テーズはゴッチがこの試合でシュートを試みて自分を傷付けたと信じており、そのことが二人の仲違いにつながったとも言われている。
ゴッチの一部熱狂的な「信者」の間では、ゴッチがレネ・グレイのタッグパートナーとしてWWWF(後のWWE)に参戦していたことや[7]、WWWF世界タッグ王座に就いていたことは[8]、事実ではないということになっている。なお、弟子の一人であるボブ・バックランドのWWWF入りにも否定的であったと言われるが、真偽は定かではない。
ゴッチのジャーマンスープレックスホールドはもっとも軌道が美しいと称えられており、ミスタージャーマンのスープレックスを投げられるレスラーは、ある意味勲章であった。


コーチとしてのゴッチは、豊富な知識から様々な練習方法を提案し、やる気を出させる教え方が上手なため、慕っているプロレスラーが多い(ただし、スパーリングは非常に厳しいらしい)。ゴッチの教えは「ゴッチイズム」と呼ばれ、ゴッチの指導を受けたアントニオ猪木が新日本プロレスで「ストロングスタイル」を確立したため、特に新日本プロレス出身のプロレスラーの間では畏敬の念を抱かれている。もっとも、これはアングルの一種でもあり、弟子たちの多くはゴッチを利用して有名になるとゴッチの下を訪れなくなったため、ゴッチがインタビューでかつての弟子たちに苦言を呈したこともある。なお、全日本プロレスの渕正信がゴッチの下を訪れた際にもゴッチは熱心に指導しており、指導するプロレスラーの所属団体についての拘りはないようである。
長州力がデビュー戦から使用し続けているサソリ固め(スコーピオン・デスロック)は、ゴッチが伝授したと言われている。
藤波辰爾の得意技だったドラゴン・スープレックス(フルネルソン・スープレックス)は、ゴッチが元祖である。
ゴッチは「12種類のスープレックス」を新日本プロレス期待の若手であった当時の前田日明に伝授している。前田がヨーロッパ遠征から帰国した際、前田の帰国第1戦の対戦相手であるポール・オンドーフが、ゴッチ直伝のスープレックスで前田を売り出そうとする新日本プロレスに対して「前田のスープレックスは危険だから受けたくない」と訴えると、そのことを知ったゴッチは、試合前に控え室でオンドーフを非難すると、試合では前田のセコンドに付き、「オンドーフをつぶせ(受身の取りづらい種類のスープレックスをかけろ)」と指示を出した。
ゴッチは小沢正志のためにモンゴル人のギミックを考案し、「テムジン・モンゴル」と命名したが、小沢がアメリカへ進出する際に「キラー・カーン」と改名したために破門している。その後、ゴッチと小沢が和解したかどうかは不明である。
第2次UWFブーム当時、ゴッチは週刊ゴングのインタビューで「日本には私のファイトスタイルを忠実に再現しているレスラーが1人だけいる」と発言し、記者から「それは誰ですか?やはり前田(日明)さんですか?」と尋ねられたのに対して、「木戸修だよ」と答えている。この発言からも分かるように、蹴りを多用する前田日明、高田延彦には、「彼らはキック・ボーイになってしまった」とやや冷水を浴びせるところがあった。ただし、ゴッチは来日時に山本小鉄へ見事なソバットを決めたこともあり、キックを嫌う傾向はあるが、必ずしも否定はしていないという見方もある。また、鈴木みのるがUWF時代にこだわりを持って使用したドロップキックやストンピングを批判していないところから、繋ぎ技、裏技、奇襲として足の裏で蹴ることは否定していないのではないかと思われる。
ゴッチはレスリングをするために筋肉増強剤は有害であると考えており、ケン・シャムロックが筋肉増強剤を使用していると批判している。パンクラスがゴッチの批判を無視してケン・シャムロックを重用したため、ゴッチはパンクラスと決別したと言われている。
ゴッチは1999年からしばらくの間マット・フューリーを指導したことがあり、2000年にトニー・チチーニーがフューリーを批判した時にはチチーニーを非難したが、その後はフューリーを厳しく批判している[9]。かつての弟子とのトラブルについて、ゴッチは「魂だけは教えることができないものであり、本人が生まれながらに持っているものである」と述べている。
グレコ特有のロックアップしてからの展開を基本としていたため、自ら飛び込んでの片足タックルを全く教えなかった。ゴッチの技術体系では現在の総合格闘技に対応できないことは明らかであり、パンクラスがゴッチから訣別した一因ともなっている。

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