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我が愛しのアスリート図鑑コミュの福原 愛(卓球)

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福原 愛(ふくはら あい、1988年11月1日 - )は、日本の卓球選手。宮城県仙台市生まれ、早稲田大学スポーツ科学部1年生で全日本空輸(ANA)所属。日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。2007年6月時点での世界ランクは12位。

1988年11月1日に仙台で生まれた福原は3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受け、4歳でテレビに初登場し、「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれるようになった。一躍国民的アイドルとなった5歳10ヶ月で全日本選手権バンビの部(小2以下)史上最年少で優勝、以降数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作った。 小4でプロ宣言し、ミキハウスと専属契約を結び、仙台より大阪へ引っ越した。小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。中1の4月に公立中学に入学したが、卓球面での環境を考え青森に引越し、青森山田中学校に転入した。以降、中学の3年間は世界各地のITTFツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。選考会などを経て14歳の若さで世界卓球選手権に抜擢され出場したが日本勢の中で一人躍進、ベスト8まで進む快挙を成し遂げた。このことが、アテネ五輪出場につながった。

福原の人気を再燃させたのが2004年アテネ五輪だった。日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選を勝ち抜け、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取った(他は梅村、藤沼。なお、小西と組んで挑んだダブルスは予選で敗退)。テレビでアテネに向け調整する福原が大きく取り上げられるようになり、長嶋茂雄の代役として、聖火リレーの最終走者も務めた。アテネ五輪では1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに辛勝、3回戦はガオ・ジュン(高軍)に圧勝、4回戦は金暻娥に負けた。福原の試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかってない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得。これはアテネ五輪放送の中でトップクラスに高い数字だった。その後も福原愛への関心の高さは続き、学校に登校したり髪を切るだけでニュースとなった。2005年3月にはミキハウスとの契約をが満了し、翌月グランプリとの契約を結ぶ。直後に、中国で最もレベルの高い超級(スーパー)リーグに参加、遼寧本鋼チームと契約した。この超級リーグは週1,2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいた為、シングルの出番が少なくダブルスが多かった。期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場した。8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行った。2005年2月にはアジアカップで強豪の郭炎を破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場したが、リ・ジャウエイやティエ・ヤナといった強豪相手に快進撃を続け見事3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげた。2006年5月には世界選手権団体でエース級の活躍を見せ見事銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)。放送したテレビ東京の視聴率も最高12%を出し好調だった2006年度はチームを広東佐川急便に変えて超級リーグに参加(なお、チームの2006年度オーナー権を福原サイド(千秀企画)が買っている)。 2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し、青森から引っ越した。2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。TVでは2007年4月よりとっさの中国語にレギュラー出演中。

幼少時から明るく、屈託の無い笑顔が特徴的だったが、思春期になるにつれメディアに対し喋りたがらないこともあり、思いつめた表情をすることも多くなった。福原自身は、当時を振り返って、「周りのこととか、卓球以外のことが見えてきていた」と語っている。中学二年生頃から、徐々に再び笑顔を見せるようになり、現在ではインタビューでも模範的な受け答えを見せている。

卓球をしている最中は、感情の揺れが激しくなるらしく、気持ちが顔に出易い(負けた時に相手選手との握手の際に笑顔が出せない、相手がネットイン、エッジをすると不快な顔をする、など)。負けると直後は非常に落ち込むが、立ち直りは人一倍早い。ニュースでも親しみをこめて「愛ちゃん」と呼ばれることが多い。

中国での福原の関心は高く、日本には無いファンサイトも複数存在する。福原の写真が入ったシャツを着て観戦する熱心なファングループもいる。Yahoo!の中国サイトが2005年4月に発表した世界卓球8大美女に福原愛が選ばれた(他には張怡寧、王楠、白楊、リ・ジャウエイなど。日本人では他に柏木有希が選ばれている)。[1]

2005年「面対面」という中国の人気インタビュー番組に出演。その中でキャスター王志から「家族は本業をやめられたそうですが、あなたが一家を背負うことにプレッシャーは無いですか?」という質問がされ、福原は戸惑って「そんな難しいこと、聞かないでください」と涙をこぼした。近年、福原がテレビの前で泣くことはめったに無かったこともあり、この出来事は日本でも大きな話題となった。だが結果的にこの事は、日中の福原ファンを増やすことに貢献した。

ちなみにその後、王志は日本のメディアから質問を受け、「彼女が泣くとは思わなかった。私の配慮が足りなかったのですね。しかし視聴者が一番聞きたいと思っていることを聞くのが私の仕事です。多くの中国人が福原に興味を持っていました。だからゲストに呼んだのです。」と答えている。福原自身は、涙の理由について「初めて受けるタイプのインタビューだったので、どう答えたらいいか戸惑ってしまい、ちょうどその頃中国リーグの疲れもあって(精神的に不安定だったため)泣いてしまった。」と答え、また中国のネット掲示板で「王志が子供(福原)をいじめている」と、一部非難があったことについて、「私はいじめられたとは思っていない。それは間違いです。しかし、今後そういうインタビューも増えてくると思うので、もっとうまく対応できるようにしたい。」と語った。

当時の小泉純一郎首相の靖国問題などで、中国では反日感情が高まり、日本への政治にも冷たい態度を示すことが多かったが、そんな中でも福原のニュースを中国英字紙チャイナ・デーリーは2006年3月16日付紙面の1面トップで、卓球の中国スーパーリーグの広東省チームに移籍した日本人選手、福原愛のカラー写真を掲載した。 中国は、小泉首相に非難の的を絞る一方、一般の日本国民について日中関係冷却化の責任はないとして友好関係を強調する姿勢を見せていた。同紙が福原を取り上げたのも、こうした対日配慮の一環とみられる。 写真は赤いユニホーム姿の福原が地元の子供たちに囲まれ笑顔を見せているもので、福原を「著名な日本の卓球選手」と好意的に紹介している。福原は日本の中国大使館を何度か表敬訪問しており、「中日友好」の色紙を持って王毅駐日大使と撮影に応じた。他にも日中友好関連のイベントによく招かれている。

また、福原は中国語が堪能である。これは幼い頃より中国人コーチと話す機会があったこと、また頻繁に中国で合宿を行っていたことから、自然と身についたらしい。2006年1月にはNHK教育の中国語会話にも出演した。ただし、読み書きはまだなかなかできないらしい。福原愛の中国でのニックネームは「瓷娃娃(ツーワーワー)」(磁器のお人形という意味、肌がきれいな事から)。掲示板ではよく小愛と呼ばれている。

2006年10月に中国のウルムチで行われた女子ワールドカップではチケットにも大きく写真が載せられた。
右利き前陣速攻。中国卓球の経験を積んでいる事から、中国スタイルの卓球である。その為中国人には手の内が読まれ苦手意識があるが、中国以外のヨーロッパ等の選手にはめっぽう強いのが特徴である。

世界ランキングは日本でトップだが、国内では何故かなかなか優勝できず、全日本選手権でもベスト8が最高。優勝を絶対視された高校総体でも準優勝に終わった。福原がもっとも注目される有名な選手なために、多くの選手により、よく研究され、”福原対策”を立てられてるのがその原因と思われる。苦手日本人選手が複数存在する。

ペースの速い卓球で、ラケット裏面には粒のある表ソフトラバーを貼り、ナックルなどの変化球を出せる。ちなみに、小学生の頃は日本卓球協会の規定で違う種類のラバーを貼れなかった為、両面表ソフトラバーであった。

「試合中、みんなが思っている以上に何も考えていません」と話すように、あまり考えないタイプの選手らしく、それゆえに研究されると弱い一面を持ち、本人は「ビデオ研究すると、相手が強く見えるから嫌い」とあまり研究しないのも課題である。その割にラバーを貼ったりするところを見られるのを非常に嫌い、自分の問題点を言う事を避けたがる一面も持つ(相手に有益な情報が広がる為)。

流れを変えるのが難しいらしく、勝つときは圧勝して勝つが、流れが悪くなるとその流れを変えれない事も多い。王子サーブというしゃがみ込みサーブを使う。体がやわらかく低い打球点から繰り出すバックハンドは世界でもトップクラスである。

福原は当初あまりかけ声を出していなかったが、中学後半ぐらいから徐々に大きなかけ声を出すようになり、アテネ五輪で「サー!」は福原の代名詞ともなった。(もっとも卓球でこのように声を出す選手は多く決して珍しいことではない。)ただ、強い相手などにはかけ声が全然出ない事もある。「サー!」のかけ声には最大で3連続「サー!サー!サー!」もあり、「サー!ナイスボールサー!」もある。気合が入ると相手がミスしても「サー!」が出る。声が裏返る時もあり、年々闘争心が強くなっている。福原は「かけ声をかけるという事は、自分が点を入れているという事なので、いっぱい叫びたいですね」と話す。声の音程には気を使っており、「会場で他の人と同じような音を出すと意味が無いじゃないですか」ということで今の甲高い声になったらしい。

小学校時代は「ヨー!」(「よーし」の略)というかけ声を使っていたが、中学以降は思春期に入ったためにこのかけ声を使わなくなり、その代わりに中国の選手たちの影響で「サー!」を採用したことを、2006年10月30日放映のフジテレビ系列番組SMAP×SMAPで明らかにした。(たまに間違えて「ナー!」になる事があるらしい。)
小さい頃から天才少女と言われてきた理由の一つに、同世代の国内選手には絶対負けなかった事がある。中1で全日本ジュニア(高校以下)を制すとその後3連覇。どの大会でも一度も負けなかった。だが'06年8月のインターハイ、シングル決勝で同じ年齢の宇土弘恵(就実)に初めて負けを喫した(しかもストレート)。尊敬する選手は王楠。左利きに憧れている。国内ではカットマンや、粒高ラバーなどの異質攻撃選手に苦手意識があるようである。
2004年度末まで日本代表監督は西村卓二で、特に中学時代多くの熱血指導を受けてきたが、その後は近藤欽司が協会より代表監督に指名され、現在も指導している。
2007年全日本後あたりにラバーをよりはずむものに変えたとの事


血液型はB型。お菓子が大好き。好きな飲み物はクリームソーダ
愛犬は黒のミニチュアダックスフント。名前はチャッピー。2006年10月に購入。当初、福原はトイプードルを買いたかったらしいが兄に「それじゃ、浅田真央ちゃんとかぶっちゃうよ」とさとされミニチュアダックスフントにした。
口ぐせは「すごい」で、会見では頻繁に聞かれる。「やばい」「超」なども普段はよく使う。
携帯メールが好きで多用している。アテネ前の話では一日100件、多い時で150件していた。しかし中国に行くと日本との交信が難しくなり、最近は少なくなっていると話している。
福原は宮城県仙台生まれだが、両親はともに秋田県出身。
名前の「愛」は母方の祖母、愛子から一字もらっており、「みんなに愛されるような子に」という願いをこめて父が命名した。卓球を始めたきっかけは、10歳離れた兄が中学から卓球をはじめ、経験者の母は息子の卓球練習にかかりっきりになり、自分もかまって欲しくてやりはじめた事だった。

NHK、2004年正月の番組で足型を取ったところ偏平足であった(他にイチローも)。フジTVでは安藤アナが多くの練習で足の裏にまで筋肉がついた為に扁平になった、と説明したことがある。足は24cmと大きいので、本人はもっと身長が伸びると思っていたが中3で成長は止まってしまった。現在公称155cm
時期により体重の増減が大きい(練習量が多く、その分食べる為)大きな大会が始まると緊張、疲れから食が進まなくなり痩せてしまう為、大会前は多少体重を増やして望むことが多い。ベストは48キロ。母は小さい頃食が細いのを心配していたが、今はその必要はないようである。
アテネ五輪では家族が大量のおにぎりを会場に持参したが、入り口の持ち物チェックで「爆弾ではないか」と係員に一時引き止められた。
「18歳になったらすぐ車の免許をとりたい」「20歳になったら自由なので早くなりたい」と話している。
子供好きだが、小、中学生ぐらいの大きな子は苦手と話している。
2004年1月のクロアチアオープン中に39度の高熱になり、スポーツニッポン新聞がマスク姿の福原を一面に載せた。
2006年4月26日に世界卓球選手権(テレビ東京)の放送時間が30分延長され、同日の番組が30分ずれたが、その為番組の録画に失敗したということで抗議文と人骨のようなものが局に送りつけられた。番組はTV東京アニメ「いぬかみっ!」とされている。差出人は分かっていない。同日はシンガポールとの一戦で、福原愛が強豪リ・ジャウエイを下し、予選リーグ通過を決めた試合だった。
大阪は2008年度五輪開催地として正式に立候補し、さまざまな招致活動を行ったが(大阪オリンピック構想)福原愛を誘致のシンボルの一つとした。(福原が大阪に引っ越した一つの要因ともされる。)大阪は大阪五輪の盛り上げの一環として、2001年に世界卓球選手権シングル、団体(同時開催)を大阪に誘致し、福原愛もエキシビジョンとして桂三枝とオープニングマッチを行なうなどして、盛り上げた。
座右の銘は「よく寝て、よく食べ、よく笑う」だったが、2006年に兄から変更を促され「一意専心」に変わった。
GP・GATE制作のアニメ「こてんこてんこ」で再びアイちゃんが出てきた2006年5月4日、7月6日、7月13日、の回の声優はかないみかになっていた。
幼少時、「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演した時、明石家さんまとの試合で敗北し、番組中に泣いたことがある。福原の主張によればこれはさんまがルール違反のサーブをした為と福原は主張しており、それを今でも認めないさんまとは対立関係が続いている。アテネ五輪直後、現地で福原をゲストに呼んだ時は「日テレさん、福原愛を殴ってもいいですか?」と発言し、司会の柴田倫世アナらを慌てさせた。帰国後、別のアテネ特集番組で福原が台風で番組にこれなかった時、司会のさんまは「よかった〜」「あの子、私に対してなんか反抗期なんですよ〜」と胸を撫で下ろしていた。しかし、福原は好きなTV番組によくさんまが司会の「からくりTV」をあげており、そもそも嫌いなわけではないようである。
幼少時に、デーモン小暮との対決で山なりの叩きつけサーブを打たれ、福原はボールに届かず悔しくて泣いた事がある。
これまでマスコミに福原愛2世と呼ばれた選手は石川佳純と平野美宇、三村優果の三人である。
卓球以外のスポーツは苦手らしく、高校では体育は好きな教科でなくなったとの事。小さい頃は水泳教室にも通っていて、親は卓球と水泳のどちらに専念させるか考えていた時期があった。ランニングが苦手らしく、自分がリレーに入るといつもチームがビリになるらしいが、2005年以降はランニングなども強化し、筋力をつけスピード、パワーのアップを図っている。
将来なりたい職業や、好きな異性のタイプはその時々でさまざま変わるようで気分屋な面もあり、メディアの方が振り回されることもある。
スコートをたまにはくことがあり、2006年1月の全日本選手権ダブルスで小西とともにスコートをはいた。
2004年10月、埼玉県彩の国まごころ国体では、会場の春日部ウイングハット(客席3500人)に連日5000人もの客がつめかけ、国体初の入場規制がされることもあった。
秋田県湯沢市の稲住温泉敷地内に卓球道場が10月26日に完成。移築してあった旧秋ノ宮村役場(白井晟一設計の建造物)を改装した。
試合の時に発するかけ声は、小学生の時は友達をまねて「ヨー」(「よーし」の意味)と言っていたが、中学生からは、中国人が試合で「サー」と言っていたのをまねて使うようになった。(2006年10月30日放送「SMAP×SMAP」より)
浅田真央は日テレでの徳光とのインタビューで、刺激を受けた同世代のアスリートを尋ねられ、福原愛の名をあげた。小さい頃から福原のニュースは「熱心だなー」と感心しながらよく見ていて、福原のように注目される選手になりたい、という気持ちもあったとのことである。(2007年4月15日放送「ザ・サンデー」より)また、福原も浅田の事を「すごい」と語っている。

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