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我が愛しのアスリート図鑑コミュの千代の富士(大相撲)

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千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、本名:秋元 貢(あきもと みつぐ)、1955年6月1日 - )は、北海道松前郡福島町出身の力士。第58代横綱。身長183cm。現在は年寄・九重。現役時代の異名・愛称はウルフ、大将。血液型はA型。

史上最多の通算勝星・1045勝など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いた。 右四つ、左前廻しの体勢から、自分よりも大きな相手をぐいぐいと寄り切ったり、一瞬の呼吸で投げ飛ばすさまはファンを熱狂させた。四股の美しさも特筆すべきもので、高々と頭の高さほどまで上げた足が空中で一瞬静止したのち、力強く踏み下ろされるまで、体には僅かなぶれもない堂々たる四股だった。

本名で初土俵を踏み、翌場所には大秋元と改名。その後、千代の冨士、後に点をつけて千代の富士となる。相撲は始めたが、転入した中学でも陸上を続け、区大会入賞するなど活躍、中学卒業後は帰郷するつもりでいた。しかし土俵での成績も概ね好調で、逸材を手放すのを恐れた師匠は、後援会に世話を頼んで貢少年を高校に通わせる。高校で学業と相撲の両立をはかったが困難となり、退学して相撲に専念することに決し、ここに至って貢少年は本格的に力士の道を歩むことになる。

千代の富士の四股名の由来は、師匠の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱「北の富士」。異名の「ウルフ」については、魚を捌いていたところを見た親方が「狼みたいだな」と言ったことからついた狼で当初呼ばれていたのがいつしか変化したそうで、これを聞いた当時の春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる、儂はマムシだった、狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。

小兵ながら(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)気性の激しさを表す取り口で順調に出世して、史上初の5文字四股名の関取になり、1975年(昭和50年)新入幕。しかし相撲の粗さもあってその後幕下まで陥落。這い上がって1978年(昭和53年)には再入幕するが、今度はそれまでも課題であった、生来の骨の形状からくる肩(特に左)の脱臼癖が顕在化。昭和54年(1979年)3月場所播竜山との取り組みで右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いを強いられることとなる。この時、肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、ウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。

翌5月場所は十両に陥落したものの怪我が取組中であったため、公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずであった。しかし、手続きの不手際で公傷と認められないことが場所の直前に発覚。3日目から強行出場することとなったが、9勝を挙げて翌7月場所に幕内に復帰。以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。

肩の脱臼癖もあってそれまでの強引な投げから、前廻しを取ってからの一気の寄りという形を作りあげ、人気者となる中、1980年(昭和55年)11月場所に新関脇。この場所は11勝を挙げ、大関を目前として1981年(昭和56年)を迎えた。

1981年1月場所、横綱北の湖との優勝決定戦を制して初優勝し大関昇進。千秋楽が行なわれた1月25日の大相撲中継視聴率は、52.2%、瞬間最高で65.3%に及び、これは今に至るまで大相撲中継の最高記録である(ビデオリサーチ調べ)。3月場所、5月場所と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所に2度目の優勝を果たして横綱に推挙される。土俵入りは師匠と同じ雲竜型を選んだ[1]。

新横綱となった9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る。新横綱誕生の期待が失望に変わり、「11月場所は進退が懸かる」などと報じたマスコミもあった。しかし、11月場所では優勝決定戦を制し、横綱として初優勝を飾ることで見事な復活を見せた。隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で、千代の富士を長く苦しめることになった。

この1981年には、同一年中に関脇、大関、横綱の3つの地位で優勝するというかつてない記録を達成した。関脇から横綱へと駆け上がるとともに、新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であったと言える。こうした事情から、関脇千代の富士(不詳)、大関千代の富士(テレビマガジンにおける永谷園「味ぶし」の宣伝に登場)と記された各種記録は数が多くない。 この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から、若い女性や幼い子供にまで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。とりわけ一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。千代の富士の取り組みにかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を一周してまだ余るような状態だった。

1982年(昭和57年)には3連覇を達成した。横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが、やや頼りない部分も見受けられ、特に1984年(昭和59年)は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。翌5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖に一方的に寄り切られて11勝止まり。7月場所は左肩の脱臼で全休。9月場所は入幕2場所目の新鋭小錦の突き押しにあっけなく土俵を割り、場所後横綱としての責任を問われる羽目になってしまった。11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。しかし、千代の富士にとって本当の黄金時代は30代に入ってからであった。両国国技館のこけら落としとなった1985年(昭和60年)1月場所は全勝優勝で最高のスタートを切り、夏場所から廻しの色が「青」から「黒」に変わり、この年史上3人目となる年間80勝を達成した。さらに、1986年(昭和61年)5月場所〜翌年1月場所まで5連覇を達成した。1987年(昭和62年)前半は僅かに崩れ、千代の富士時代は終わりに近づいたとの声もあり、「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。しかしその声を打ち消すかのように、1988年(昭和63年)5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝。他を寄せ付けない圧倒的な強さで、昭和50年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」の中でも、昭和最後の4年間は驚異的な成績を残した。ちなみに、53連勝でストップした大乃国との一番が奇しくも昭和最後の一番となる。

その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg体脂肪率10.3%)、逞しさ漂う風貌でも人気を集めた。また、人気漫画『キン肉マン』のキャラクター「ウルフマン」(アニメ版では力士マン)のモデルにもなっている。引退した年の1991年(平成3年)にも、アニメ『ゲンジ通信あげだま』に千代の富士並みの力を得られる「ウルフカード」というアイテムが登場している(番組前半の登場であるため、おそらくデザインされたのは引退前と思われる)。

幕内→大関→横綱と一気に昇進してしばらくは絶大な人気を誇ったが、あまりの強さにファンがやや飽きたこと、若手のライバル北天佑の実弟(千代の富士と同じ九重部屋に所属、目に余る素行不良でいわゆる「かわいがり」を受けた)を稽古でリンチまがいにシゴき重傷を負わせたという疑惑が起きたこと、週刊誌などの大相撲八百長疑惑報道で名指しされたことなどで、やや人気が低迷した時期もある。

角界屈指のゴルフ好きだが、元々休みの日は麻雀や、ファミコンに夢中の彼に対して、北の富士勝昭(当時:九重)は「健康的な休みを取らないとダメだ!」と、無理やり彼をゴルフに連れて行った。しかし、初めてのゴルフのハーフで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かった彼は「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ!」と、北の富士のメンツは丸つぶれ。この日を境に、千代の富士はゴルフに狂い出した程。

横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することは稀であったが「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ系)には1985〜1987年まで3回、特別ゲストとして番組オープニングからエンディングまで出演している。これは当時の同番組司会者であり、千代の富士、及び師匠の九重との親交がある芳村真理の誘いを受けての出演であった(そのため、彼女が司会を降板した1988年以降は1回も顔を出していない)と言われている。特に初めて番組に顔を出したときには、アン・ルイスが吉川晃司との過激なパフォーマンスを展開し物議を醸した回であり、歌の最中、千代の富士は明らかに不機嫌な表情を浮かべながらその一部始終を見届けており、その形相を気にした芳村真理が、話題をそらそうとして千代の富士に頻繁に話がけている様子が確認されている。

1989年(平成元年)6月に、同年2月に誕生したばかりの三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くす不幸に見舞われる。千代の富士の家族をはじめ、千代の富士自身も精神的なショックが大きく、もう相撲が取れないのではないかと思われた程だった。しかし直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、成績は12勝ながらも千秋楽の優勝決定戦で弟弟子の北勝海を下して、神がかり的な優勝を果たした。涙ながらに「供養になった」という言葉は、相撲ファンに大きな感動を与えた。翌9月場所に通算勝ち星の新記録を達成し、9月28日に大相撲の世界で初めての国民栄誉賞受賞が決定した。この日は先代九重の千代の山の13回忌が行なわれた日でもあり、この時千代の富士は「苦労をかけた師匠にいい報告ができます」と言ったそうである。これにより協会は一代年寄千代の富士貢を満場一致で承認するが、本人は九重(北の富士)とも相談のうえでこれを断わっている(このため彼を一代年寄に含めるかどうかは議論が分かれているが大鵬は還暦土俵入りの際に千代の富士も含まれるとの見解を示した)。

1990年(平成2年)1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。翌3月場所の7日目には花ノ国戦の勝利で前人未踏の通算1000勝を達成した。しかし5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、千代の富士は2場所連続準優勝に終わり、旭富士の横綱昇進の引き立て役になってしまった。更に夏巡業で左足を痛めて9月場所を全休。35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して4横綱がいる中14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。翌1991年(平成3年)1月場所初日に幕内通算805勝目を上げ、史上単独1位としたが翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。そして1991年5月場所初日に当時18歳の新鋭貴花田、三日目に貴闘力に敗れ、35歳11か月で気力・体力の限界を表明して引退、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。

弟弟子の北勝海との稽古は壮絶な物であったと言う。が、その甲斐もあって、北勝海は1987年(昭和62年)7月場所に横綱に昇進している。さらに、1989年(平成元年)7月場所では千代の富士は、その北勝海と史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦し、優勝している。北勝海本人も千代の富士がいなければ綱などとても取れなかったと語っており、千代の富士の指導力ならびに影響が如何に大きかったかを物語っている。事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は関取は千代の富士だけだったが、その後は北勝海を筆頭に、孝乃富士や巴富士らが関取に昇進している。当の千代の富士本人も、「北勝海との猛稽古がなかったら自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。又その北勝海も「大将(千代の富士)がいたおかげで、自分も横綱になれたと思う」とコメントしている。

また、北勝海の横綱昇進に伴い、同部屋に横綱が2人となったため、力士が2人をどう区別して呼ぼうかと迷った際、北勝海の提言で、千代の富士を「大将」と呼ぶ様にさせた、という話も残っているが、横綱となった身の者が、先輩横綱という意味のみならず、ワンランク上の横綱、と見ていた存在感の大きさを現すエピソードである。

横綱土俵入りは四股も美しく、全体として気合の入った土俵入りで、かなり上手い部類に入る。重い横綱を付けた状態で、上げた足が頭より高い位置に達するのは、千代の富士のほかにはほとんど例がない。また取り組み前の入場時には両手で下がりを持ち、制限時間いっぱいになった時には、頭を下げて、回しを右手で叩いてピンク色のタオルを受け取って汗を拭くなど、几帳面に見えるほど、礼儀作法を重んじている。

場所中は、『中日新聞』に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載している(系列紙の『東京新聞』には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した一番・力士に対する独自の解説や、相撲界への提言、優勝力士の予想など、幅広く執筆している。優勝力士予想については、千秋楽当日であっても当たらない場合がある。しかし、親方業の傍ら執筆しているので、自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞記者の記事とは違った魅力がある。近年は、力士の稽古不足、下半身の強化不足に警鐘を鳴らし続けている。

日本相撲協会では、1994年(平成6年)武蔵川親方と共に役員待遇に昇格し、現在は審判部副部長を務める。しかし、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身[2]であるため、理事に立候補することができないでいる。また1998年(平成10年)に弟弟子の八角が格上の監事に就任[3]したり、貴乃花光司が理事選に立候補をほのめかした際、「九重ですら理事になれないんだから、親方になったばかりの貴乃花に務まる訳がない。」と順番を考慮する発言を誰もしなかったなど、彼の評価は現役時代に比べると低い。審判部長は理事が担当するため、古くから審判部副部長職にあるにもかかわらず、二子山、押尾川、放駒と三代続いて大関止まりの理事が九重を抑えて審判部長になっており、「副部長を務めている」というよりも「部長になれないでいる」という感が漂っている。

育成面では大関千代大海龍二、元小結の千代天山大八郎などを育てているが、後が続かないでいる。ただし、大鵬以降の一代年寄で大関を育てたのは九重一人だけである。

体格・素質で上回る力士との差を埋めるため、土俵上では凄まじい集中力を見せ、本場所で負けた相手に対しては相手の部屋に出向いて稽古、攻略法を身につける努力家。廻しを緩まぬようにきっちり巻くことにより、四つに組み相手の指が廻しにかかっても腰の一振りで払いのける、など体格差を感じさせない取り口で、全盛期に見せた相手の頭を押さえるような独特の上手投げは、「ウルフスペシャル」としてつとに知られた。鍛え抜かれた腕力を生かした廻しの引きつけには脅威的なものがあり、重い相手も腰を浮かせた。また、体の芯が異常に強く、常に軸がぶれずに堂々とした相撲を取った。

立ち合いの踏み込みの鋭さは歴代屈指のもので、短距離走のスタートにも例えられた。この鋭い立ち合いが、すぐに得意の左廻しを奪うこと、重みに優る相手にも当たり負けしない強さを可能にしていた。

優勝決定戦に出場した6回すべてで優勝している。北の湖との1回、北尾(双羽黒)との2回は、千秋楽に負けた後の再戦で、土壇場での強さを見せつけた。決定戦での勝率ならびに決定戦での優勝回数はそれぞれ記録。弟弟子の北勝海との優勝決定戦の経験もある。


優勝回数31回、全勝優勝7回はそれぞれ最多を誇る大鵬に次ぐ記録であり、53連勝も昭和以降では双葉山に次ぐ第2位の記録。また連続優勝5場所も歴代3位タイと堂々たる記録である。参考ながら、九州で行われる11月場所では、1981年(昭和56年)から1988年(昭和63年)までの8連覇を含め9度優勝している。夫人が九州出身であるため、「千代の富士にとって九州場所は地元のようなもの」とも言われた。また、両国国技館が開館した1985年(昭和60年)1月場所から1987年(昭和62年)1月場所まで、同所で行われる本場所(毎年1月、5月、9月)に7連覇している。

休場明けの場所に強いことも特徴で、実に6度も休場明けの場所で優勝している。特に30代に入ってからが顕著で、休場の度に限界が囁かれながらも翌場所に優勝して不死鳥とも言われた。

出身地、卒業した小学校とも師匠千代の山と同じである。これは非常に珍しいケースであり他に例がない。故郷の福島町には横綱千代の山・千代の富士記念館がある。

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