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我が愛しのアスリート図鑑コミュの伊達公子(テニス)

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伊達 公子(だて きみこ, 1970年9月28日 - )は、京都府京都市上京区出身の元女子プロテニス選手。日本人の女子テニス選手として、史上初の世界ランキングトップ10入りを果たした名選手である。シングルス自己最高ランキングは4位(1995年11月)。WTAツアーでシングルス7勝、ダブルス1勝を挙げ、4大大会の女子シングルス準決勝に3度進出した。本来は左利きであるが、子供の頃に日本の習慣に従って右利きに直された。そのため、テニスの試合でも相手選手がバックサイド(通常は右打ちの伊達から見れば、テニスコートの左側)に打ってきたボールを左打ちする場面がしばしば見られた。身長163cm、体重53kg。

伊達は「ライジング・ショット」の名手として、世界的にも有名な選手であった。これは、相手の打ったボールが自分のコートでバウンドした直後の上がり端を打ち返す、非常に高度な技術である。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、当時のテニス界で“ライジング・サン”(Rising Sun)と呼ばれたという。

6歳の時から、京都市北区にあるテニスクラブ「セブンスリー」でテニスを始める。滋賀県大津市に転居後、京都市山科区にある「四ノ宮テニスクラブ」でレッスンを積む。このクラブのオーナーである竹内穣治は、現デ杯監督・竹内映二の父親である。中学校時代に滋賀県テニス選手権で優勝した。中学卒業後は兵庫県尼崎市にあるテニスの名門校・園田学園高等学校で、名コーチ光国彰(みつくに・あきら)監督の指導を受けた。1988年のインターハイでシングルス、ダブルス、団体優勝の3冠獲得を達成する。高校卒業後の1989年にプロ転向した。

1989年 「サントリー・ジャパン・オープン」でWTAツアーにデビューし、岡本久美子との準々決勝まで進出。全仏オープンで4大大会にデビュー。予選3試合を勝ち上がり、本戦2回戦に進出。ウィンブルドンと全米オープンにも本戦出場。女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップ(当時の名称)の日本代表選手に初選出され、西ドイツ・チームとの2回戦でダブルス戦に起用された。
1990年 全豪オープンで初の4回戦進出を果たす。この時はヘレナ・スコバに 4-6, 3-6 で敗れた。
1991年 8月中旬の「バージニア・スリムズ・オブ・ロサンゼルス」大会で準優勝。準決勝で当時世界ランキング3位のガブリエラ・サバティーニを破る大金星を挙げ、決勝では当時の女王モニカ・セレシュに挑戦した。全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を果たす。
1992年 2月に東京の「東レ・パン・パシフィック・テニス」で、当時世界ランキング5位のアランチャ・サンチェスを破る。3月末の「リプトン国際選手権」4回戦でシュテフィ・グラフと初対戦。全仏オープンで初めて4大大会のシード選手になり、4回戦に進出。全日本テニス選手権で2連覇。この年、女子テニス協会の「最も進歩した選手賞」(Most Improved Player of the Year)に選出された。
1993年 全米オープンで初の4大大会ベスト8進出。この4回戦で、当年度のウィンブルドン準優勝者ヤナ・ノボトナを破る。
1994年 1月にオーストラリアの「ニュー・サウスウェールズ・オープン」で海外初優勝。日本人の女子テニス選手として、史上初の世界トップ10に躍進する。直後の全豪オープンで初の4大大会ベスト4進出を果たしたが、準決勝でグラフに 3-6, 3-6 で完敗。全米オープンで2年連続ベスト8入り。日本人選手として初めて女子テニスツアー年間最終戦の「バージニア・スリムズ選手権」の出場権を獲得し、準決勝まで進出した。(この大会は世界ランキング16位以内の選手しか出場資格を得られない。1994年までは「バージニア・スリムズ選手権」の名称で、1995年からスポンサー変更により「チェイス選手権」の名称となった。)
1995年 2月の東レ・パン・パシフィック・テニスで初優勝。その決勝戦では親友のリンゼイ・ダベンポートを圧倒した。リプトン国際選手権で準優勝。この大会では決勝でグラフに完敗したが、準決勝でガブリエラ・サバティーニを 1-6, 1-5 の土壇場から逆転し、1-6, 7-6, 7-6 で逆転勝利を収めた。この年は全仏オープンで日本人初のベスト4進出を達成するが、準決勝でアランチャ・サンチェスに 5-7, 3-6 で敗れた。11月に自己最高の世界ランキング4位を記録する。
1996年 4月27日-28日、東京・有明コロシアムで開かれた女子国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ」1回戦でドイツと対戦し、28日の試合で女王シュテフィ・グラフを 7-6, 3-6, 12-10 で破る大金星を挙げた。7月4日-5日の2日間にわたり、ウィンブルドン準決勝でグラフと最後の対戦をする。第1セットはグラフが 6-3 で先取したが、第2セットを伊達が 6-2 で取り返したときに試合が日没順延となり、翌日に持ち越された第3セットはグラフが 6-3 で取ったため、日本人選手初の4大大会決勝進出はならなかった。アトランタ五輪でも女子シングルスのベスト8に進出し、アランチャ・サンチェスに惜敗する。しかし8月25日、アメリカ・サンディエゴで開かれた「トーシバ・クラシック」決勝戦でサンチェスを 3-6, 6-3, 6-0 で破り、WTAツアー7勝目を挙げた。9月24日に現役引退を宣言。WTAツアー年間最終戦の「チェイス選手権」2回戦で、当時16歳のマルチナ・ヒンギスに 1-6, 2-6 で敗れたのが現役最後の試合となる。世界ランキング8位での引退だった。
グラフ選手との名勝負のほかに(通算対戦成績は1勝7敗)、スペインのコンチタ・マルチネス選手には「6勝2敗」と大きく勝ち越した。またアメリカのリンゼイ・ダベンポート選手の若き日の好敵手でもあった。

2000年2月6日-8日にかけて、シュテフィ・グラフの「引退世界ツアー」で日本の対戦相手に指名され、東京体育館、名古屋レインボーホール、大阪城ホールの3会場でエキシビション・マッチを行った。2001年12月1日、ドイツ人レーサーのミハエル・クルムと結婚。

伊達の世界的な活躍は、日本の女子テニス界にも計り知れない刺激を与えた。1995年の全米オープンでは、実に8人の日本人選手が本戦に直接出場するなど、伊達が活躍した時代は日本勢全体の活躍が目立った時期であった。しかし伊達の引退後、日本の他のトップ選手たちの相次ぐ引退もあり、日本女子テニスは衰退の一途をたどってゆく。最も引退が早かったのは神尾米であったが、1998年には遠藤愛、沢松奈生子、長塚京子、雉子牟田直子も現役を引退したため、一時期は杉山愛ひとりにに頼りきりの状態が続いた。その後、伊達の後輩にあたる浅越しのぶが2004年全米オープンでベスト8進出を果たしたが、2006年に浅越と小畑沙織が現役を引退する。2006年10月末の時点で、女子世界ランキング100位以内の日本人選手は、杉山と森上亜希子、中村藍子の3人になった。そのような状況の中、2005年4月に日本人テニス選手として史上最年少のプロ転向を認められた森田あゆみが日本のテニスファンの期待を集めている。

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