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我が愛しのアスリート図鑑コミュのジャイアント馬場(レスラ−)

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ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年1月23日 - 1999年1月31日)は、新潟県三条市出身のプロレスラー。全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長。

本名は馬場 正平(ばば しょうへい)。

プロレスラーに転向する以前は、読売ジャイアンツのプロ野球選手であった。

第49・55・57代NWA世界ヘビー級王者(日本人としては初の世界タイトル奪取)。全日本プロレス創立者。血液型O型。身長209cm(読売ジャイアンツ時代の発表は203cm)、体重135kg(全盛期は145kg)。リングネームは高い身長からではなく、プロ野球読売ジャイアンツの元投手だったことから、師の力道山が命名したという。生涯現役のまま逝去した(逝去後に引退セレモニーが執り行われた)。

日本のプロレス界では力道山、アントニオ猪木と並ぶビッグネーム。日本プロレス史上最大の巨体を持ちながらも、その物腰の柔らかさからCMやテレビ番組などでも人気を博す。


新潟県の三条実業高校野球部出身。在学中の1955年にスカウトされ、中退してプロ野球・読売ジャイアンツに投手として入団する。背番号は59。新潟県第1号のプロ野球選手だったということもあり、将来を嘱望されていた。長嶋茂雄とは、「馬場ちゃん」と呼ばれるほど親友であり(プロ入りは馬場のほうが先だが、年齢は長嶋のほうが上)、長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場である。
1960年、巨人を自由契約になり(一軍での通算成績は3試合0勝1敗、防御率1.29。唯一責任投手となった1敗は杉下茂の200勝達成試合でのもの)、大洋ホエールズの練習生としてキャンプに参加した際、宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷め、野球を断念し、現役を引退。
1960年4月には日本プロレス(日プロ)に入団、力道山の元に弟子入り。力道山からは特別可愛がられる。新弟子の中で唯一給料を貰い、アパートから道場に通っていた。同年9月30日デビュー。その後何度かアメリカに渡り、数々のタイトルに挑戦する。アメリカ時代のリング名は、当初は本名の馬場正平(ショーヘイ・ババ)であったが、「フランケンシュタイン・ババ」、「ビッグ・ババ」、「ババ・ザ・ジャイアント」など様々なリングネームがあったようだ。アメリカではプロモーターの指示に従ったことで、大舞台での試合も多く、当時は大変な知名度があったとされる(その為、『日本人として初めてアメリカで成功したレスラー』と言われている)。アメリカでの師匠は、フレッド・アトキンス(後にタイガー・ジェット・シンもアトキンスの指導を受けている)。
1963年力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国。その際、マネージャーだったグレート東郷から、高額の年俸を保障するのでアメリカに定住するように勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。それ以外にも、アメリカでの生活で、売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦に陥る姿も見ているので、いくら高額の年俸を稼いでも、自分も同じようになった時の事を考えて断ったという理由もあった。
1965年頃には既に日プロのエースとなり、インターナショナル選手権を獲得。アントニオ猪木とのいわゆるBI砲タッグでインターナショナル・タッグ選手権を獲得するなど華々しい活躍を見せた。
1972年に日本テレビの後押しで全日本プロレスを旗揚げ。社長になって以降は練習不足により筋肉がなくなり動きが鈍くなっていった。やせた体でゆっくり動く様をよく物まねされるようになる。
1974年、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座をアジア人として初めて獲得。
1980年、ザ・シークを相手に通算3000試合目を達成。デビューから丸20年目だった。(記者から後に知らされ、「最初から分かっていれば、まともな相手を選んでいた」とコメント)
1984年、ハンセン・ブロディ組のツープラトン・パイルドライバーで首を痛めて次の試合を欠場、デビュー以来3000試合以上続いた連続無欠場記録がストップ。
1985年、スタン・ハンセンに敗北し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退く。
最後にリングに上がった1998年12月5日までで、通算5769試合を行った。
1999年1月31日、東京医大病院にて、大腸癌(上行結腸腺癌)の肝転移による肝不全により死去。享年61。一切外部には命が危ないことを漏らしておらず、最期を看取ったのも妻の馬場元子、姪の馬場幸子、お世話係の和田京平と仲田龍の4人だけであった。このことは、三沢光晴やジョー樋口にさえ知らせていない。これは妻・元子の意向である。戒名は「顕峰院法正日剛大居士」。

修行時代のヒンズースクワットで、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説も残っている(これに負けじと、アントニオ猪木も一緒にスクワットをし、汗の水溜りが出来たらしい)。当時は脚力も強く、逆エビ固めをかけようとする相手レスラーを、膝を伸ばす力だけで跳ね返した。
新人時代には、アントニオ猪木と十六回対戦したが、猪木は一度も馬場には勝てなかった。また、馬場は、その事実を自ら話そうとはしなかった(決まり手は猪木よりも身長が高いことを利用したフルネルソンが多い)。アメリカ武者修行時代に築いた人脈により多くのレスラーの招聘をし、タイトルマッチを日本で行った。
馬場自身が「私は力道山に一度も殴られた事が無い」と発言しているのは有名だが、それは理不尽な暴力を受けた事は無いという意味で、自伝によると力道山から空手チョップの手ほどきを受けた際、皮膚を鍛える為に特殊な農具で手を何度も思い切り叩かれたという。叩かれてる間力道山に「どうだ痛えか」と聞かれたが、「痛くないと言えば余計に力を加えるし、痛いと言えばそのうち痛くなくなると言って叩くのをやめないので、黙って耐えるしかなかった」と述懐している(練習をサボってるのが見つかれば額を叩いて出血させるのが力道山のシゴキだった)。力道山には弟子に酒の一気飲みを強要する癖もあったのだが、馬場も例外では無く、殆ど酔わないのをいい事に何度も大量に飲まされたという(馬場自身は酒嫌いだった)。馬場は野球上がりで腕が細かったため(当時のピッチャーは腕を痛めるといけないという理由で腕立て伏せもしなかった)、巡業で津軽海峡を渡る際、青函連絡船で力道山の指示でいつも到着するまでバーベルを持たされていた。馬場は北海道に行くたびにあの時の事を思い出すと語っていた。弟子達の中で馬場が唯一給料を貰っていたのは、プロ野球ファンであった力道山が元巨人軍投手の馬場のプライドに配慮した為と思われる。「新弟子はジムに住み込み」というのを知らなかった馬場は、力道山に「(給料は)幾らですか?」と単刀直入に聞き、「巨人時代は幾ら貰ってたんだ?」「5万です」「よし5万だ」で話はまとまった。もっとも、翌月には「試合もしてねえのに5万は高すぎる。3万だ」と値切られた。
野球選手時代に、特大スパイクに住み着いた猫を追い払えなかったエピソードや、喧嘩もろくにした事がないのでプロレス入り当初は困惑したというような話が多くある為か、ジャイアント馬場には紳士的な印象が強く残っているが、自伝には(レスラーの中では喧嘩早い方ではないとはいえ)数多くの武勇伝が記されている(あくまでリング上での話である)。
馬場と言えば、五分刈りに近いスポーツ刈りのヘアスタイルがトレードマークだった。しかし1976年から1978年頃の一時期、髪を伸ばしていたこともある(アブドーラ・ザ・ブッチャーや大木金太郎による頭突き攻撃への防御策と言われたが、真偽は不明)。この時、「パーマをかけている」と言われたが、実際は癖毛なのでそう見えるだけだったそうである。
生涯現役を貫いた馬場の業績を称え、1999年5月の東京ドーム大会(没後興行)は「ジャイアント馬場引退記念興行」と銘打たれた。「引退試合」にはスタン・ハンセンを先導にかつてのライバルや盟友が登場。マッチメイクはジャイアント馬場・ザ・デストロイヤー組vsブルーノ・サンマルチノ・ジン・キニスキーの時間無制限一本勝負。試合後サンマルチノは「あなたは体だけでなく心もジャイアントだった」と称えた。またパートナーのデストロイヤーは日本語で「社長、長い間お疲れさまでした」と深々と頭を下げ、会場じゅうの涙を誘った。このとき、リング中央に置かれた愛用のシューズをデストロイヤーがつかんだ瞬間に「今、デストロイヤーと固く握手いたしました」と、日本テレビのアナウンサーが涙声でコメントした。
晩年に巨人のOB会に出席した時に、先輩の千葉茂に「おーい、馬場!」と手招きされた際、大喜びで後ろから抱きつき、馬場がおんぶされるような格好で甘えるという珍しい構図になった。目上から呼び捨てにされる機会がほとんど無くなり、久しぶりの事だったのでとても嬉しかったという。

力道山からは特別可愛がられた。これは馬場に「元巨人軍投手」という肩書きがあったことと、2mを超える身長に力道山が惚れ込んでおり「これはワシをも凌ぐスターになるかもしれん」と思ったからである。アントニオ猪木はいわば叩き上げであり、従順でなかった猪木を力道山はあまり好んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴られたり蹴られたりが当たり前だった中、馬場は一度も殴られたことが無いというエピソードがある。また、馬場は入門当初から付き人を経験しておらず、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたなど完全な特別扱いであった。

新日本プロレスを立ち上げてからの猪木の挑発には「何度もはらわたが煮えくり返る思いがした」と自伝に書いているが、猪木には基本的に「同じ釜の飯を食った男」という気持ちがあり、憎しみの感情は無かったようである。猪木も同様で、表向きの発言と実際に馬場に会う時の態度は全くと言っていい程違っていた。馬場に対する猪木の言動の裏には、滅多に言い返さない馬場の性格を見越した上での、一種の甘えがあったと思われる。

本当に馬場を憎んでいたのは上田馬之助で、日本プロレスの幹部の腐敗ぶりに愛想を付かして退団した馬場と、力道山の作り上げた日本プロレスに最後までこだわっていた上田の感情的なしこりは、日本プロレス崩壊後大木金太郎らと全日本プロレスに移籍する際、上田が仲介者の対等合併の言葉を本気にした事(実際は吸収合併だった)と、すぐに移籍して来なかった元仲間に対する馬場の不信感で決定的になったという。日本プロレス崩壊の大きな原因の一つである「猪木追放事件」も、一般には「猪木・馬場らによるクーデター計画の存在を上田が上層部に密告した」ことが原因とされているが、上田は近年になって「実は最初に密告したのは馬場である」と語っており(詳しくは上田馬之助の項を参照)、このことも上田と馬場の関係悪化に大きく影響していたと思われる。



辞めていった日本人選手を二度と全日本マットに上げることはしなかったが、その弟子はリングに上げた(冬木弘道の弟子の、邪道、外道等)。師匠の事で弟子が巻き添えになる事はマット界ではよくあることだが、馬場は若い芽を摘もうとは一切せず、師匠の事とは別の事と割り切って、その弟子達をリングに上げた。その点は特に馬場の人柄が表れている。

英語の能力は日本人レスラーでは随一だった。アメリカのレスリング・シーンに多大な影響力を持ったのも英語が良く出来たからだと言われている。

歴史小説が好きな読書家で、年間200冊以上の本を読み、柴田錬三郎、司馬遼太郎のファンだった。他にも絵画などを趣味に持つ。「引退したら(当時別荘を持っていた)ハワイで絵を描く生活がしたい」と語っていたが、それが現実になることはなかった。『水戸黄門』の大ファンで、欠かさず見ていたという。アイドルとして人気絶頂だった松田聖子に初めて会った時、「テレビは『水戸黄門』しか見ないから知らない」と言ったという話や、水戸黄門役の東野英治郎と初めて面会した時は、直立不動の姿勢となり、思わず頭を下げてしまったと回想している。また、中谷一郎と会った時には「おう、弥七」と声をかけ、高橋元太郎と会った際にも「八兵衛」と声をかけたと言う。本編だけを見るため、役者の名前を知らなかったのだ。『水戸黄門』に忍者などのキャラクターが出るようになると「突飛な事はやらない方がいい」と苦言を呈していた。東野英治郎時代のような典型的な勧善懲悪ものが好みだったようだ。また、逆に高倉健に会った時にはファンの人かと思い「はい、どうも」と座ったまま握手をした。

もごもごしたしゃべり方や、こもった低音の声質に特徴がある。それがものまねのネタになりやすかった。故郷・新潟の風景を題材にした「砂山」を歌うのが好きで、くぐもった声からは意外だが馬場の歌はなかなか上手いという話もある。

負傷のためプロ野球選手の道を断念せざるをえなかったが、プロレスチャンピオンになって年収が3億円を超えたと話す。当時のプロ野球界の最高峰であった巨人の「ON(長嶋茂雄や王貞治)が『年俸3千万円、4千万円』などといっていたのを見て、おかしくて笑いが出てしまった」という逸話を晩年に語っていた。但し、経営者として節税出来たことから、新聞で発表される長者番付の馬場の順位は下位であった。本人のコメントによるとアメリカ時代には1試合で5、6百万稼いでいた。

彼の体の大きさはよくネタにされた。

ビートたけしには「巨人時代、ボールを投げようとしたら捕手の森の頭を叩いてしまった」「投げた瞬間にキャッチャーをまたいでしまうため、野球をやめた」「タクシーに乗ろうとしたら、左のドアから右のドアに出てしまい、乗れなかった」「車のサンルーフから頭を出して運転していた」「飛行機に乗る時は、両手を翼の中に入れて、腹這いになる」「ゴルフもショートコースはパターしか使わない。カップインしたボールを取り出そうとしたら、グリーンも一緒に持ち上がった」「一緒に飛行機のファーストクラスに乗った時、前の席に座っていた馬場さんがシートを180度倒したらオレの腹の部分に頭がのった」など。これらのネタは、学生時代に「ビートたけしのオールナイトニッポン」の熱心なリスナーであり投稿者でもあった、消しゴム版画家でエッセイストでもあったナンシー関が考えたとも言われる。本人も著書の中で、ジャイアント馬場の大きさについてのネタを考え出すといくらでも浮かぶと語っている。
ダウンタウンの松本人志もカーナビで馬場の居場所が写るとネタにしたり、「ダウンタウンのごっつええ感じ」でも馬場をネタにしたコントがあった。
島田紳助もトークで時々馬場のネタを使うことがよくある。それで「クイズ紳助くん」では馬場を崇拝している円広志が怒るというパターンが何度もあった。
「シュート(真剣勝負・ガチンコ)を超えたもの、それがプロレス」という名言を残した(後に弟子の三沢が小川直也とタッグで対戦し(三沢、力皇vs小川、村上)、完全に小川、村上を子供扱いとしてこの名言を体現したような象徴的な試合となった)。他団体が格闘技路線を進めていた頃の全日本プロレスのキャッチコピー「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」や「プロレスとは『プロレス』である」といった名言は、馬場本人のコメントではなく馬場夫妻と数十年に渡ってプライベート含めて親交があった元『週刊プロレス』編集長のターザン山本が考え出したものである。だが、馬場がこのコピーを大変気に入っていたことは事実である。

巨人軍時代、下垂体腫瘍により視神経が圧迫されて視力障害を引き起こしたため、開頭手術をしたことがある(当時の技術では成功率が非常に低く、医者から「失明する可能性が高いので、見える内にマッサージ師の勉強をしておきなさい」と進められた程だったが、手術は無事成功した)。

食事作法や礼儀作法、服装などに厳しく、後輩や弟子たちにも徹底的に叩き込んだ。1990年代、全日本の選手たちが決してシャツをズボンから出さなかったことは、馬場の教えが徹底されていたからであり、現在でもお付きだった和田京平や仲田龍、泉田純至らは「エリ付きのシャツでないといけない」という馬場の教えを守り、普段からTシャツではなくポロシャツを着ている。選手の茶髪も長い間許されなかったと言う。馬場自身はジーンズも嫌いで、持ってはいたが「あれは作業着だ」と言っていた。キャピトル東急ホテルを東京ヒルトン時代から定宿としていたことはよく知られており、馬場〜三沢時代の全日本プロレスの記者会見は殆どキャピトル東急で行われた。また馬場は、関東での大会の後はキャピトル東急のコーヒールームである「オリガミルーム」で食事をしていた。お付きの和田や仲田、番記者の小佐野景浩らはこの「オリガミルーム」で馬場から食事作法を学んだという(週刊ゴングの増刊号にて、キャピトル東急ホテルの閉鎖により閉店となる直前のオリガミルームにて、鈴木みのるが「馬場さんの味を食す」という特集が組まれるほど、ジャイアント馬場=キャピトル東急というイメージがプロレス界では定着している)。

大変健康に気を遣うと言われているが、後楽園ホールのロビーでも常に葉巻を吹かしていた。また1990年の骨折入院までは大変な健啖家で、酒に強く(曰く「いくら飲んでも酔わないので酒は面白くない」)大の甘党(あずきの缶詰を常時携帯しており、食事の締めとして餅に付けて食べるのが好きだった)であったが、この事が糖尿病の遠因になった。骨折後は足腰の鍛錬により専心するようになり、毎日恵比寿の自宅から(マンションのエレベーターも使わなかった)六本木にあった全日本プロレスの本社までウォーキングするのが日課だった。若手時代は汗っかきだったが、糖尿病を患って以降は汗をかかない体質になってしまい、以来サウナ好きでもあった。

師匠である力道山はスポンサーの前で「プロレスラーの頑強さ」を見せることをしていた。デビュー前の馬場は、スポンサーの前で力道山に「ジョニ黒」を一気飲みさせられ、目の前に「火花が散った」そうだ。一息ついた馬場が水を飲もうとしたところ、チェイサーに差し出されたのは「ビール」だったという。

ジャイアント馬場の代名詞「16文」(約38.4cm)は、日本に合う靴がほとんどなかったため、アメリカ遠征の際入手した靴にアメリカ規格の「16」(約34cm)とあるのを見たプロレスマスコミが16文と誤認して、そのまま定着したもの。一部では「16文ではなく16インチ(約40.6cm)」という更に誤った説もあった。

付き人だった大仁田厚を特別可愛がり、一時は本気で養子縁組を考えたこともある。大仁田が馬場の付き人をしていた頃、興行に馬場の赤いパンツを持って行くのを忘れたことがあった。困った大仁田は、同じ会場に赤いパンツを履く身長2mの外国人選手がいたため、この選手の控室に忍び込んでパンツを盗んだ。馬場はそのパンツで試合に勝ったものの、何かおかしいと気づき、「このパンツ俺の?」と大仁田に聞いた。大仁田は「外国人選手から借りてきました」とウソをついたが、馬場はこの嘘を即座に見破り「馬鹿野郎、貸すわけないだろ!」と怒鳴って全盛期の強烈な張り手を食らわせた。そして洗濯して返すようにと命じ、3日間口をきかなかったという。その後、別の興行で大仁田はまたしても馬場のスーツのズボンを忘れたが、素直に謝ったところ、馬場は何も言わず興業中の約1ヶ月間、スーツに赤ジャージのズボン姿で通した。

元子夫人との間に子供はいない。馬場は巨人症(下垂体腫瘍肥大)であり、それが遺伝することを恐れて子作りをしなかったといわれている(実際には巨人症が遺伝することはほとんどない)。甘いもの、特にあんこが好きと述べていた。テレビ番組「ニュースステーション」の企画である「最後の晩餐」でも人生最後に食べたいものを大福と答えている。

1本数万円(途中からは1本10ドルのカナダ産)の葉巻を愛用し、キャピトル東急ホテル内「オリガミルーム」で出される1個2500円のチーズバーガーを食べ、三沢に1個1万円のメロンを潰して作ったメロンジュースを振舞い、新婚旅行の費用をポケットマネーで出すなど、お金の使い振りは豪快なところがあったが、所属選手の年俸は新日本プロレスよりはるかに安かった。また、選手に対する契約に保険や負傷欠場時の給与補填などを制度として行わなかったため、馬場の死後の選手大量離脱の要因となった(馬場死後の新体制はそれを導入する方向だったが、オーナーである馬場元子(馬場夫人)が「馬場さんの時代にはなかった」と拒否した)。なお、その遺産は、渋谷税務署に8億7千万円と公示された。死後、永源遙は週刊プロレスのインタビューで「猪木さんは金を使うことが好きな人、馬場さんは金を使うことを忘れた人だった」と話している。また、猪木が参院議員に当選後に借金14億円と報道されたのを聞き、「俺との差は30億円ある」と言ったとザ・グレート・カブキが後に述懐している。

長州力らジャパンプロレス勢が全日本マットに参戦した当初、いわゆる「ハイスパート・レスリング」に対し、シャムネコのケンカと揶揄したが、しかし皮肉にも結果的にはそれまでアメリカン・プロレススタイルが主流であった全日本の試合内容に変革を起こす事となった。それは長州の全日本マット参戦前後のVTRを見ればスピードの違いがよくわかる。その後長州に呼応した天龍が長州離脱後の全日本マットで激しいプロレスを展開し、後の四天王プロレスのスタイルの礎を築く結果となった。

1987年11月、所属選手のハル・園田(マジック・ドラゴン)が、全日本プロレスから派遣されて南アフリカ共和国のプロレス興行に参戦する際に、結婚したばかりの園田夫妻にポケットマネーを提供して、興業後の新婚旅行を奨めた。ところが、南アフリカに向かう飛行機がインド洋上で南アフリカ航空295便墜落事故によって墜落。ハル・園田とその夫人が事故死することとなった。馬場は生涯、園田の派遣を決めたことと新婚旅行を奨めたことを悔やんでいたという。リング上で弔辞を読んでいる時に号泣した。

新日本の前田日明の長州顔面蹴り事件に馬場は「オレならクビにしない。プロレスは何でもありだから」とコメントしたという説もある。実際に全日本マットでは、天龍は輪島大士の顔面を、その数年後には天龍の弟子だった川田も三沢の顔面を容赦なく蹴っていた。

世界中のプロレス界を股にかけた大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントが最後に選んだリングは、天龍一派の大量離脱で黄昏時を迎えていた馬場全日本だった。二人がコンビを組んでいた頃「馬場とアンドレが天の川で流しソーメンを食べていた」などという伝説が流れた事もある。実際二人は、互いに並外れた巨体を持つ故の孤独を理解できたのか大変仲がよく、話し相手に困らないようにと、アンドレの若手時代からの親友であるマイティ井上を話し相手として帯同させ、アンドレ参戦時の外国人用移動バスの冷蔵庫には、アンドレ好みのワインが常に置かれていたという。

亡くなる約2ヶ月前に「徹子の部屋」へ2週にわたり出演した。奇しくもこれがプロレスについての最後のメッセージの場となった。馬場は受けの説明等を行った。この時初めてテレビで歌も歌った。ハル・園田の飛行機事故死がきっかけで飛行機が怖いとコメントした。黒柳徹子にスクワットのやり方を教え、黒柳はこれがきっかけで今でも毎日スクワットをしている。黒柳は「スクワットは馬場さんの遺言」と語っている。

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