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我が愛しのアスリート図鑑コミュの長島茂雄(野球)

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長嶋 茂雄(ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県佐倉市出身のプロ野球選手・プロ野球監督。現役時代のポジションは内野手。右投右打。血液型はB型。

高校野球界では無名の高校出身であったが、練習試合で訪れた埼玉県熊谷市内の球場で、その素質をプロスカウトに見いだされてはいた。 1954年から1957年まで東京六大学野球で立教大学の選手として活躍。

1958年〜1974年までプロ野球チームの読売ジャイアンツ(以下、巨人と記す)で三塁手としてプレイした。現役時代は読売の中心選手として活躍した。背番号3は巨人の永久欠番のひとつである。

現役引退後、1975年から1980年まで(背番号90)と、1993年から2001年まで(1993年〜1999年は背番号33、2000年・2001年は背番号3)に巨人軍の監督を務めた。2001年より、株式会社よみうり専務取締役・読売ジャイアンツ終身名誉監督に就任した。

2002年に2004年アテネオリンピック野球日本代表チーム監督に就任したが、2004年に脳梗塞で倒れて指揮することを断念した為、その後は中畑清ヘッドコーチ(肩書きはそのまま変わらず)に指揮を託した。

愛称は「ポチ」「チョーさん」「シゲ」「ミスタージャイアンツ」「ごまぞう」「父さん」。東京のマスコミは、「ミスタープロ野球」もしくは単に「ミスター」と呼ぶこともある。『ミスター大満足』と東京のスポーツ新聞の見出しにあれば、長嶋茂雄が大いに満足したという意味である。

1959年、石原裕次郎(故人)が歌った長嶋の応援歌「男の友情背番号・3」が発売された。2000年には「ミレニアム・バージョン」として再発されている。

※1993年の2度目の監督就任以前、「長島」あるいは「長嶋」と姓の表記が揺れていた。この項での表記は長嶋に統一する。

愛車はメルセデス・ベンツSクラス、送迎車はクラウン。


略歴
1936年 千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)に生まれる。
1951年 千葉県立佐倉第一高等学校(現:千葉県立佐倉高等学校)入学。
1954年 立教大学経済学部経営学科入学。4年間東京六大学野球で活躍する。
1957年 広島カープ、南海ホークスの誘いを断り読売ジャイアンツに入団。
1972年 コーチとして兼任。
1974年 現役引退。
1975年 監督就任。しかし1年目で最下位に転落。
1976年 2年目で初優勝。しかし、日本シリーズでは阪急に3勝4敗で敗退。
1977年 2年連続のリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは再び阪急に1勝4敗で敗退。
1980年 監督を辞任し、報知新聞社の客員就任。
1988年 野球殿堂入り。
1992年 報知新聞社客員辞任し、再び監督に就任する。ドラフト会議で1位指名の松井秀喜(現:ニューヨーク・ヤンキース)を獲得。
1994年 史上初の同率首位決戦「10.8決戦」で中日を下し優勝。同年の日本シリーズで西武を破り日本一。正力松太郎賞受賞。
2001年 監督を辞任し、株式会社よみうり専務・巨人の終身名誉監督となる。
2002年 3月、佐倉市名誉市民顕彰
2002年 7月、立教学院栄誉賞(第1号)受賞
2002年 12月、 日本代表強化本部長、アテネオリンピック野球日本代表チーム監督に就任。
2004年 3月4日、脳梗塞で倒れ、東京女子医科大学附属病院に入院。
2004年 6月16日、長男でタレントの長嶋一茂に双子の女児が誕生。


東京六大学野球での活躍
幼少時代、藤村富美男のプレーを見て野球を志す。当時は阪神ファンだったと言う。千葉県立佐倉第一高校(現:佐倉高校)から立教大学に進む。野球部では砂押邦信監督の下、猛練習を重ね、正三塁手となる。同期の杉浦忠投手(南海ホークス)、同じく主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)とともに「立教三羽烏」と呼ばれた。

長嶋は東京六大学野球において1956年春季・57年秋季には首位打者を獲得。また55年秋季から57年秋季まで5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれている。57年、六大学リーグの通算記録となる8本塁打を放つ。プロ入りが確実視されており、特に大学の先輩大沢昌芳の所属する南海ホークスの鶴岡一人監督は、大沢を通じて熱心に長嶋と杉浦に多額の栄養費を渡すなどして勧誘していた。同じ頃広島カープも長嶋を広島観光に誘うなど獲得を希望するものの、プロ入り時は長嶋、杉浦とも南海でほぼ決定していた。特にプロ入りに熱心でなかった杉浦を南海に誘ったのは、長嶋であった。しかし長嶋は直前で一転、巨人入団を決め、11月20日契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」、契約金は当時最高額の1,800万円であった。長嶋は当初、杉浦と共に南海に入ることを希望していたが、巨人や周りのマスコミが当時大学野球のスターだった長嶋は、巨人に入るものだと決め付け長嶋自身に圧力をかけたため、長嶋は巨人に行かざる得なかったと言われている。 長嶋は、立教大学の合宿所の食堂で、杉浦に南海行きを断ることを告白した。しかし杉浦はそのまま南海に入団。また、長嶋は鶴岡にオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪している。 このとき鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。


プロ入り以後

新人時代
長嶋は、東京六大学リーグでの活躍もあり、「ゴールデンボーイ」あるいは「ハリケーン」とあだ名され、入団時から活躍が大いに期待されていた。1958年4月5日、開幕戦である対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場して公式戦デビューを果たすが、国鉄のエース金田正一投手に4打席連続三振を喫した。しかし、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。初出場の試合で金田正一に全打席三振を喫するというのは、王貞治も同じである。また、長嶋は翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。

しかしシーズン途中から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。最終打撃成績は、本塁打29本、打点92を記録し二冠王。打率は、大阪タイガースの田宮謙次郎と首位打者争いをするが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的には2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。なお、この年の9月19日に行なわれた対・広島戦(後楽園)で長嶋は一塁を踏み忘れて、本塁打を1本取り消されている(記録はピッチャーゴロ)。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「3割・30本・30盗塁」の記録が達成されていたことになるが、息子・一茂が記録したセ・リーグ通算3万号は「30001号」になっていた。


天覧試合
1959年6月25日、後楽園球場で行なわれた対阪神戦は、日本プロ野球史上初の天覧試合(天皇が観戦した試合、当時は昭和天皇)であった。長嶋は4対4で迎えた9回裏、阪神の2番手村山実投手からサヨナラホームランを放った。村山は1998年に死去するまで、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けていた。なお、この試合では新人王貞治も本塁打を打っている。これは106回あったON(オーエヌ)アベックホームランの第1号である。


ON砲
1962年、王貞治が本塁打王、打点王のタイトルを獲得して以後、長嶋は王とともに巨人の中軸打者としてON砲(オーエヌほう)と称された。これは米メジャーリーグ・ニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルとロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。打順は通常、3番王・4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番・王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。前述の王のタイトル獲得以後、長嶋が最後にタイトル(首位打者)を獲得した71年までの10シーズンで、両者の獲得した打撃3部門(打率・本塁打・打点)のタイトルの合計は26であり、その間2人で前記3タイトルを独占したことが6回ある。巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇したが、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。他に秋山幸二と清原和博のAK砲が有名。


長嶋の守備
プロ選手としての長嶋は、その打撃力のみならず三塁手としての守備も注目された。長嶋はライン際の打球の処理に難点があるため、欠点をカバーすべく三塁線に近く、そして深めに位置していた。そのため、長嶋とコンビを組む遊撃手(初期には広岡達朗、のちに黒江透修)は長嶋の分まで守備範囲を広めにとっていた。しかし長嶋は、時に通常の守備範囲を超え、本来であるならば遊撃手が捕るべき打球にまで反応し、猛烈なダッシュとともに捕球を試みる場合も多かった。

イージーゴロにさえ鋭いダッシュをみせる長嶋の守備は、プロ経験者からは「簡単なゴロを難しく見せる」と評された。一方、フライ飛球などは「見せ場がない」と、遊撃手に任せるということもしばしばあった。それゆえ、当時から守備の堅実さでは三宅秀史(同時代のタイガースにおける正三塁手)に軍配を上げるファンや解説者も少なからずいた。しかし、長嶋の派手なアクションをまじえた守備は、トンネルなどの単純なエラーですら、多くの観客に喜ばれた。


長嶋の功績
1970年前後に秋田書店などから、多く発刊された子供向けの野球入門書の表紙は、ほぼ全部長嶋茂雄である。監修が村山実のものも表紙は長嶋である。プロ野球=長嶋茂雄と言う当時の長嶋の絶大な人気が窺える。当時メキシコオリンピックで日本サッカーが銅メダルを獲った事もあり、サッカーの時代の到来が噂されたが、数十年間そうなることはなく野球は人気を維持し続けた。近年はスポーツの多様化で野球人気凋落と言われるが、ここまで半世紀以上もの間、野球が人気スポーツとして栄えてきたのは、長嶋茂雄の功績と言っても過言では無いだろう。


不振と引退
1971年に6度目の首位打者を獲得して以後、長嶋はかつてのような活躍を見せなくなる。打席数を増やすことで不振を克服しようと考えた川上監督は、長嶋の打順を1番にするなどの対策をとったが、衰えは明らかであった。また、14年務めた川上の後継者としての期待もあり、コーチを兼任するなど、現役引退後の進路も定まった。

1974年10月12日、中日ドラゴンズの優勝が決まり、巨人の10連覇が消えると、長嶋は現役引退を表明した。翌々日の10月14日、後楽園球場で行われた優勝したドラゴンズとのダブルヘッダーの第1試合で、長嶋はホームランを放つ。これが現役最後のホームラン(通算444号)である。また、大卒での通算2471安打は日本最多記録であり、この先これを抜く選手はなかなか出ないであろうとも言われている。 第2試合の最終打席はショートゴロ(ダブルプレー)であった。引退セレモニーでは「わが巨人軍は永久に不滅です」という、あまりにも有名な言葉を残した(しばしば「永遠に不滅です」と誤って引用されることもある)。

立教大学時代練習がきついという理由で合宿所を抜け出し、エースの杉浦忠と共に中日ドラゴンズの球団事務所へ行き入団テストを受けさせてくれと頼むものの球団職員に「卒業してから来なさい」と言われた。
前述の杉浦忠とはお互いが巨人、南海に入団してからも親しい間柄だった。また大学に入学して初めて杉浦を見たとき「メガネを掛けているから頭が良いんだなぁ」と思ったという。
宿帳の「職業」欄に「プロ野球選手」ではなくしばしば「長嶋茂雄」と記していた。
立教大学での卒業試験で『I live in Tokyo.(私は東京に住んでいます)を過去形にしなさい』という問題を『I live in Edo.(私は江戸に住んでいます)』と解答して単位取得した(正解は『I lived in Tokyo.』)。また、立教大学での卒業学部を聞かれ「野球部」と言い切った(「野球しかしてなかったからこれで正しいんじゃないかな」とも言っている)。しかも自分専用に作成された入学試験・卒業試験の問題さえ正解できなかった。他にも「The」を「テヘ」と読んでいた。なお星野仙一も学歴を訊かれた時に「明治大学野球学部島岡学科」と答えることがあるが、こちらの場合は恩師島岡を尊敬しているためによく使う冗談である。
契約金を預金した銀行の名前を忘れ、大学時代の友人など方々に尋ねた挙句ようやく判明した。
試合前の打撃練習ののち、そのまま帰宅しようとした事がある。片足に2本分(1足)のストッキングを履いた事があり、片足の分がないと探した。
新人時代の項で述べた「ホームラン取消事件」の他、1塁走者として、後続打者が外野フライにより帰塁する際、2塁を通過しながら、2塁を空過して1塁に帰るという三角ベース事件を、1960年、1964年、1968年の3回起こしている。その一方で、敵チームの三角ベース事件も3回発見している。
試合後に自宅の場所を忘れ、田園調布の自宅のお手伝いさんに「あの僕、長嶋茂雄です。僕の家、どこでしたっけ?」と電話で尋ね、美容院に行っていた夫人が後楽園球場に迎えに来たことがある。
現役時代のオフシーズンには伊豆などで「山ごもり」と称する自主トレーニングを行っていた。しかし、実のところは取材の来る初日と最終日だけ練習の振りを見せ、あとはもっぱら宿の部屋で好きな西洋名画の画集を眺めていることが多かったという。中にはその期間、実際には海外旅行に出かけていたという極端な年もあった。
ナインがメロドラマを見ているときに、突如テレビを消してしまい「この筋書きはですね、こうなってこうなるんですよ」と説明するも、「それを分かってて見ているんです!」とトラブルを起こしている。
長嶋は試合の時に、気に入ったバットを自分のものにしてしまう癖があり、巨人軍は「バットの個人持ち」を命じたにも関わらず、長嶋は他人のバットを勝手に使って、最終的には自分のものにしてしまう一面があった。
監督時代、試合後に選手が「皆で寿司を食べに行こう」と言うと、体が冷えると言う理由でダメだと言い、代わりに焼きバナナを食べろと言った。
今のファンは意外と思うかもしれないが、現役時代に王と共にあれだけタイトルを総なめしてきたにもかかわらず、三冠王やサイクルヒットは一度も達成できなかった。ただし、逆に長嶋が打点王を取って王の三冠王を3年続けて阻止したこともある。
1961年10月に朝日新聞の「わたしが新聞記者なら」というインタビュー記事で「社会党の天下になったら野球、野球っていっておられるかどうか、わかりませんからね」と発言。1960年の安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「安保(闘争)」に言及している)、政権交代を思わせる時代背景があった。もっとも多くの日本人は万一現実に政権を取ったらある程度現実的に行動するであろうと理解していた。社会党もこの記事に対してただちに「そのようなことはしない」といったコメントを出している。
購入したばかりのBMWを運転中、「今日は随分エンジンブレーキが効くなぁ」と思いながらもそのまま走っていたら、車が火を吹き出した。サイドブレーキを引きっぱなしで走っていたためで、車は即廃車となった。同様のエピソードはビートたけし、石田純一にもある。
1973年5月5日、こどもの日に長男・一茂を後楽園球場に同伴し、試合を観戦させた。帰宅後、妻の指摘で一茂を球場に置き忘れたことに気がついた。一茂は審判室で保護されていた。
完成直前の東京ドームをテレビの収録で訪れて「この天井にボールをぶつける事は無理でしょう」と話したが、オープンした1988年にダラス・ウィリアムズ(阪急ブレーブス)が天井直撃のファウルを放っている。
部下(選手)達の名前を覚えられず、しばしば2人以上の名前を合成していた(高橋尚成→高橋由伸との合成で「ヨシノリ」など)。また、名前の呼び違いもある。たとえば上原浩治を同期入団の「二岡」と呼んでいた(1999年に長嶋解任騒動が留任で落ち着いた際に上原が「これで『二岡』と呼ばれずに、自分の名前をちゃんと覚えてもらえます」と語っていた。)ほか、清水隆行を自分の現役時代の同僚であった「柳田」と呼んだことがあり、勝利監督インタビューでは広澤克実を「広岡」と言ったことがあった。1999年に兄の入来智が巨人に移籍してきたとき、生え抜きの弟、入来祐作に対して「お兄ちゃん」と呼んでいた。また入来祐作と岡田展和をとり間違えることがあったようでブルペンに救援投手を岡田と連絡しておきながら審判に入来と告げることがあった(突然指名されたため入来は準備不足で救援失敗)。また、投手交代の際に交代投手を「アワグチ」と告げて、ブルペンで用意していた阿波野秀幸と川口和久が顔を見合せて、「どっちだろ?」と言っていた。
1998年の長野オリンピックの日本人選手の活躍をキャンプ地で気にするためにある記者に「モーグルヒルはどうだった」(スキーのモーグルとノーマルヒルの合成語)と真面目に質問していた。その他、インフルエンザをインフレと誤って覚えていたことも有名であった。
桑田真澄に対しては「くわた」ではなく「くわだ」と呼びかけていた。また、ペタジーニを「ペタちゃん」と呼んでいた。
長嶋は自宅の他に数ヶ所の不動産を所有しているが、政治家に世田谷に住むと出世するというジンクスがあったため、かつて中曽根康弘が長嶋が所有する世田谷上北沢の借家に居住していた時期があった。中曽根は内閣総理大臣に就任して総理大臣公邸に引っ越すまで居住していた。
キャラの濃い長嶋の真似をする人も数多く、中でも関根勤は今でも持ちネタにしている。また地元の水道局を退社してまで長嶋に似ているというだけでタレントに転向したプリティ長嶋は、その芸能活動のおかげで市川市に家を建て、2007年には市議会議員に当選した程である。
監督時代の選手起用も大胆なものが多く、1978年には小林繁を右翼に回し、小俣進を登板させたところ、再登板した小林が打たれて敗戦。1993年には延長戦で投手の岡田展和を代走に起用したり(試合後のインタビューでは、「ええ、オガタは足が速いですよ」と語った)、1997年にはやはり投手の宮本和知を代打に起用した。
1996年、日本シリーズの終了後、長男・一茂に「お前は、来年の戦力構想に入っていない。」と戦力外通告した。
1994年西本聖が巨人の入団テストを受けた際、当時の堀内投手コーチは反対したが、古巣へ復帰させ、自分が前政権で付けていた90番を譲った。そして、その年で引退した西本の引退試合が多摩川グラウンドで行われた時、遅れて駆けつけ最後のバッターとして打席に立った。
第1次政権時代の「地獄の伊東キャンプ」で成長した選手たちは、その後藤田元司監督の下で主力となり、日本一を勝ち取る。そのシーズン終了後、教え子たちは長嶋を極秘裏に中華料理店に招いて祝賀会を開き、店の裏で長嶋を胴上げしたという。
よく野村克也と仲が悪いといわれるが実際は人が思うほど悪くはない。オフの選手同士の会合において、決して社交的とは言えず、またゴルフを一切やらない野村は孤立することが多かったが、そんな野村に長嶋はよく声をかけていたそうで、野村はそのことを素直に感謝している。一茂がヤクルトの選手になり、その後長嶋が巨人に復帰して両者が同リーグの監督になったことで、意識的に距離を置いたのが仲が悪いとみなされた一因と思われる。むしろ仲が悪いのはV9時代の同僚・森祇晶で、監督時代にオールスターで全く口を聞かなかったほどである(しかし、雑誌の企画では対談している)。
よくカンピュータと揶揄されることがあるが、彼のカンは驚異的なものらしい。現役時代長嶋監督の下でプレーした村田真一(現:バッテリーコーチ)いわく、長嶋がボソッと「あ、打たれるな。」とつぶやいた後、本当にピッチャーが打たれてしまった事があるらしい。その他に長嶋が自らフォークを投手に投げさせろとサインを村田に出し、実際にマウンドの橋本清に投げさせると、橋本は立浪和義に見事なまでに狙い撃ちされ、特大ホームランを打たれてしまった。その直後、村田がベンチを見るとカンのいい長嶋は投げる前に打たれると思って、既にベンチ裏に下がって姿がなかったという。
1999年に亡くなったプロレスラーのジャイアント馬場は1955年から1960年まで巨人軍の選手だったため親友だった。彼を「馬場ちゃん」と呼べたのは長嶋ぐらいだろう。長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場である。
1998年にかつてのライバル・村山実が亡くなった時には、「彼は(自分に対して)一球たりともアンフェアな球は投げなかった」と絶賛の言葉をたむけた。
ある試合の解説で「うーん、この試合は一点でも多く点を取ったほうが勝ちでしょう」と言った。
1978年7月6日、札幌・円山球場で行われた巨人-広島戦で、3人も投手をつぎ込んだにもかかわらず1イニング10四球6押し出しで、計8失点し、日本ワースト記録が誕生した際に、あまりの酷さに「おい、誰か、野手で投げれるヤツはいないのか」とぼやいたという。

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