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我が愛しのアスリート図鑑コミュの中野浩一(競輪)

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中野 浩一(なかの こういち、1955年11月14日 -血液型・B型 身長:172cm 体重:85kg )は元競輪選手・自転車競技選手。現在は競輪解説者・日刊スポーツ競輪担当評論家・コメンテーター・タレント(浅井企画所属)として活躍。2006年春に競輪選手出身者では初の紫綬褒章受章。

福岡県久留米市出身。高校では陸上競技を行っていたが、怪我もあり陸上競技を断念。父・光仁が競輪選手だったこともあり、自転車競技に転向した。なお、テレビ番組にて母も女子競輪選手であったと中野浩一本人が語っている。

1975年に日本競輪学校を卒業。第35期生としてデビューすると共に破竹の勢いで連勝を続け、1978年には競輪祭で特別競輪初優勝を飾る。そして1980年に、競輪選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成し話題となった。あまりにも強すぎたため、彼への対抗策として2人〜4人で連携して戦う「ライン」と呼ばれる戦法が生まれた(滝澤正光の項を参照)。なお、競技で使ったトラックレーサーはナガサワサイクルの特製専用車。

1976年に初めて世界自転車選手権に参戦し、翌1977年には世界自転車選手権プロスプリント(当時の名称はプロスクラッチ)種目で初優勝を成し遂げた。それ以降は毎年この種目で優勝し続け、1986年までにV10を達成して、競輪を国内だけでなく世界的にも認知させることに大きく貢献した。今日でも中野はむしろ欧州において伝説的な存在で、認知度も高く尊敬を集めており、特にフランスでは「ムッシュ」の敬称をつけて呼ばれている(欧州では自転車競技者が尊敬されており、その上で世界選手権10連覇ともなればその尊敬の度合は並々ならぬものである)。

ただ一方で、1970〜80年代のスプリント(スクラッチ)種目は、旧ソ連・東欧諸国の国家から報酬を受けて生活するアマチュア選手(いわゆる「ステートアマ」)が圧倒的な強さを誇っていた時代であり、出場者がプロフェッショナルに限られ、ステートアマとの対戦がないプロスプリント種目の10連覇にはそれほどの価値はないとして、その価値を疑問視する意見もある。

国内でも常にトップクラスで活躍し続け、1983年競輪祭で滝沢正光を捲って優勝したのを最後に、異例の長きに渡った競輪競走第一人者の座は降りたが、1988年には通算賞金獲得額10億円を突破。しかし、1992年に特別競輪の中で最後まで優勝できなかった高松宮杯競輪(現在の高松宮記念杯競輪) の決勝戦2着を最後に引退した。

引退後は、競輪関係を中心に各方面で活躍中。中でも、現役時代から出演していたアートネイチャーのCMはあまりにも有名で、CM出演後も「カツラを公表した有名人」として知られるようになった。その関係から、一時は自転車のロードレースチーム「チームアートネイチャー」の監督も務めていた。しかしアートネイチャーとの契約が切れたことに加え年齢が高くなってきたこともあってか、近年はカツラを着けずにテレビに登場することも多くなっている。

また、阪神・淡路大震災の直後、関西では通常番組の多くが休止される中でACのCMが大量に流され、その中で中野と増田明美が共演した「浩一・明美のあき缶拾いジョギング」のCMが注目された。このCMの中で中野が発する「もぉー……!!」「ニッポン全国、ポイ捨て、禁止ィィー!!」という台詞部分は、当時の関西でちょっとした流行語となった。

競輪がオリンピックの正式種目に採用され、解説も務めるかたわら、レースの先導員も務めた。

2006年春の紫綬褒章を、競輪選手として初めて受章。競輪選手としての現役時代の活躍とともに、世界選手権プロスプリント10連覇が高く評価された。本人は「現役時代に一生懸命取り組んできたことが評価されて光栄に思います。今回の受賞は自分だけの名誉ではなく、業界の後押しもあってのこと。これからも熱い思いでファンに愛される競輪のお手伝いができれば」と喜びを語った。

久留米競輪場では、彼の功績を称え記念競輪「中野カップレース」を開催。

1976年、イタリア・レッチェ大会のプロ・スクラッチ(現在はスプリント、以下スプリントと表記。)種目に初参加。3位決定戦で菅田順和に敗れ4位。

1977年、ベネズエラ・サンクリストバル大会、プロ・スプリント準決勝で同種目2連覇中のジョン・ニコルソン(豪州)を撃破。その余勢をかって決勝で対戦した菅田順和を2日間にわたる戦い(1本目、中野が先取したあと雨天のため中止となり、2本目は翌日開催)で破り、1893年より開始された同大会史上初の日本人選手優勝者となった。

1978年、西ドイツ・ミュンヘン大会で、ベルクマン(西ドイツ)を破って同種目連覇。

1979年、オランダ・アムステルダム大会でも、ベルクマンを破って同種目3連覇を果たす。

1980年、フランス・ブザンソン大会において、アマチュア時代、メキシコ・ミュンヘンの両五輪大会においてスプリント連覇、世界自転車選手権スプリントも7回優勝を果たした、「スプリントの神様」と称されたダニエル・モレロン(フランス)がプロ入りを果たしたことから対決が実現。

準決勝において対戦したが、中野はストレートでモレロンを撃破。決勝でも尾崎雅彦を破り、同種目4連覇を果たす。

1981年、チェコスロバキア・ブルノ大会において、この年にプロ入りを果たしたばかりのゴードン・シングルトン(カナダ)と決勝で対決。このときは中野がストレートでシングルトンを下し同種目5連覇を果たしたが、シングルトンの予想以上のパワーは中野にとって脅威で、翌年の大死闘の伏線となる。

また、この優勝が評価されて中野は競輪選手としては史上2人目の日本プロスポーツ大賞を受賞した。

1982年、イギリス・レスター大会。先に行われたケイリンを制覇していたシングルトンは予選道中完璧な内容で決勝進出。一方中野は準決勝で1本先取されるなどいささか不安な状態で決勝進出。また、イギリス連邦の選手ということもあって、満場のスタンドはほとんど全てシングルトンを応援していたことから、決勝前にはシングルトン有利の下馬評が伝えられた。

一本目、逃げるシングルトンを中野は完全に射程圏内に入れたかに思われたが、ゴール寸前でシングルトンと相互接触して双方ゴールできずノーカウント。ちなみに中野が追い抜こうとした際、シングルトンに右ひじを出されたことからノーカウントにされたとして日本選手団側は抗議に出たが却下された。そしてこのシングルトンの行為が二本目の伏線に繋がる。

再戦一本目、逃げるシングルトンに中野はなす術もなく破れ、もう後がなくなった。

二本目、またしても逃げるシングルトンを追う形となった中野は2センターから遅めの捲りを敢行。そしてこの二本目においてもシングルトンは中野に対して右ひじを出してきたが、中野はこれにひっかからず、今度はシングルトンだけが転倒した。この時点で中野がタイに持ち込んだ。

この判定にカナダ側が抗議に出るも却下され、そればかりかシングルトンはこの際に右ひじを骨折。三本目の競走続行不可能となり棄権。中野は薄氷を踏む思いで同種目6連覇を達成した。

レース後、UCI(国際自転車競技連合)はノーカウントとなった一本目ならびに二本目のシングルトンの中野に対する行為は悪質だとして、シングルトンを事実上の永久追放処分とすることに決した。UCI主管以外の大会には出場ができたが、当然、世界自転車選手権には出場できず、その後シングルトンは現役引退を余儀なくされた。

また、この年の優勝により、中野はジェフ・シェーレン(ベルギー)が1932〜1937年に記録した同種目の連覇に並ぶ事となり、翌年に新記録をかける事となった。

1983年、スイス・チューリッヒ大会。決勝でヤーべ・カール(フランス)を下し7連覇となり、ついに同種目の連覇記録を更新。

1984年、スペイン・バルセロナ大会。決勝でオクタビオ・ダザン(イタリア)を下し8連覇。シェーレン、アントニオ・マスペス(イタリア)と並んでいた同種目最多優勝記録をも更新し、ついにギネスブックにその記録が登録される事に。また、公営競技の選手としては初めて、昭和天皇主催の秋の園遊会の招待も受けた。

1985年、イタリア・バッサノ大会。準決勝でベルネ(フランス)に先に一本目を取られて苦戦したものの、決勝で松枝義幸をストレートで下して9連覇を達成。

そして10連覇目となる舞台は、アメリカ・コロラドスプリングス。

しかしながらこの年(1986年)、中野は高松宮杯競輪直前の練習中に転倒し肋骨などを骨折する大怪我に見舞われた。一時は全治3ヶ月と診断され、世界自転車選手権出場自体も危ぶまれた。

しかし驚異の回復力に加え、リハビリとトレーニングを兼ねるという荒療治を施してほぼ1ヶ月程度で競走可能な状態にまで持ち込み、当時世界自転車選手権の直前に行われていた全日本選抜競輪への出場を予定していた。

だが、またしても直前練習の際に転倒。大事にこそ至らなかったが同じ箇所を痛めてしまい、骨折が完治しないまま中野はコロラドスプリングスの世界選に出場することになった。

しかし中野はこの年から採用される事になった、対戦相手を決めるために行われる、200メートルフライングタイムトライアルにおいて当時の同種目世界新記録となる記録をたたき出し、本戦に入っても全てストレートで下して決勝へ。

決勝では、同じ日本の俵信之を下した松井英幸との対戦となったが、中野はストレートで松井を下しついに10連覇達成。また、3位決定戦において俵信之がギープケン(西ドイツ)を下したことから、この年の同種目は日本勢のメダル独占となった。

大会終了後、中野はこの10連覇をもってスプリントから撤退すると表明。一部の外国記者から「引退か」と質問をかけられたが、中野は「スプリントにはもう出場しないが、今度はケイリンに出たい」と表明した。

そしてこの年、中野の大偉業を讃え、当時の中曽根康弘首相より「内閣総理大臣顕彰」が授与されることになった。ちなみに同じく内閣総理大臣顕彰の授与者として、アジア大会・ハンマー投げ5連覇を果たした室伏重信(アテネ五輪・ハンマー投げ金メダリストの室伏広治の父)もいた。

1990年、前橋の開催において、日本自転車関係者のたっての希望により、中野はケイリンへの出場を果たすも予選で敗退した。

1991年、ドイツ・シュトゥットガルト大会にもケイリンで参加したが、決勝5着。そして、これが中野が参加した最後の世界選となった。

途中までは中団に位置し、残り数百メートルあたりで全力ダッシュをかけて一番前に出て、そのままゴールまで先頭を維持し続ける「捲り」という走りを最も得意とした。スプリントV10はこの走り方により成し遂げた面が大きい。

なおダッシュ力の持続は数百メートルの範囲であり、競輪以外での中・長距離走は苦手であることを現役時代から公言している。

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