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我が愛しのアスリート図鑑コミュの青木功(ゴルファー)

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14歳の頃、我孫子ゴルフ倶楽部にてキャディのアルバイトを介しゴルフと出会う。

1957年、中学卒業と同時に東京都民ゴルフ場にキャディとして就職。

1958年、師匠である林由郎プロに引き抜かれ、我孫子ゴルフ倶楽部へ移籍。

1961年、飯能ゴルフ倶楽部へ移籍。

1964年、二回目の受験でプロテストに合格。

1965年、関東プロゴルフ選手権で日本ツアー・デビュー。

1971年、関東プロゴルフ選手権で日本ツアー初優勝。

1973年、国際興業配下の日本電建と所属契約締結。

1975年、マスターズの前座試合「パー3コンテスト」で、米国籍外選手として初の優勝。

1976年、初の日本ツアー賞金王。

1978年から1981年にかけて、4年連続で日本ツアー賞金王。

1978年、「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝。同年、宏子夫人(チエ夫人)との再婚を発表。

1980年、全米オープン準優勝。4日間「帝王」ジャック・ニクラスとラウンドし、死闘を繰り広げた。

1981年、正式な米国レギュラーツアーのライセンスを取得。マスターズ「パー3コンテスト」で二度目の優勝。

1982年、米国レギュラーツアーの賞金ランキング122位。日本人初のシード権を獲得。

1983年、ハワイアン・オープン(現在のソニーオープン・イン・ハワイ)で、日本人初の米国PGAツアー優勝。欧州ツアー「ヨーロッパオープン」優勝。

1989年、豪州ツアー「コカ・コーラクラシック」優勝。世界四大ツアー(日米欧豪)優勝を達成。

1992年、米シニアツアー(現在の名称は「チャンピオンズ・ツアー」という)に主戦場を移し、同年の「ネーションワイド選手権」にて初優勝。

1994年から1997年にかけて、日本シニアオープンゴルフ選手権競技4連覇を達成。

1997年、青木功ジュニアクラブ発足。

2001年、米シニアツアー「フォードプレーヤーズ選手権」にて、通算1,000試合出場を達成。

2004年、日本人男性として初の世界ゴルフ殿堂入り。


2006年現在、国内57勝、海外7勝、国内シニア7勝、海外シニア9勝、海外グランドシニア3勝、通算83勝。

1980年の全米オープンでは、準優勝。(優勝はニクラスで、青木は2位。共に当時の優勝レコードを塗り替えての1、2フィニッシュ。これは現在に至るまで、日本人男子選手のメジャー大会最高成績である)
同年の全英オープンでは、初日に最小スコアレコード「63」を叩き出している。(2006年現在も、タイ記録として燦然と輝いている)

USPGAのバンカーショット部門(サンドセーブ率:バンカーから打った後、ワンパットでホールアウトした率)では、'80年、'81年と二年連続No,1の座に就いている。また'80年代10年間の通算成績でも首位タイに輝いている)。

ハワイアン・オープン優勝は、最終日・最終ホールのショットインイーグルにて果たす。(同ショットは米国にて、80年代を代表する印象に残るショットの一つに選定されており、このショットで使用したパワービルトのPWは、ゴルフの殿堂に展示されている)

パッティング・スタイルは、前傾を深くしてハンドダウンに構え、パターのトゥを立てた姿勢から、リストでテークバックしダウンブローに打ち込むという、青木独自の打法である。
見た目は異様なパッティング・スタイルながら、青木はそのスタイルを頑に守り、勝負所のロングパットや難しいラインのパットを次々と放り込み続けた。結果、かの帝王ジャック・ニクラスをして、「パッティングの教科書を書き替えないといけない」と言わしめたほどである。

通常のショットにおける外見的な特徴としては、深い前傾姿勢とベタ足の二点が挙げられる。(以前はリストターンも大きな特徴の一つであったが、道具の進化に伴い、今は余りリストを使わない打ち方に変化している)

気さくで開けっ広げな性格から、米国ツアー参戦後も英語がほとんど話せないながら、多くの選手達と親友になれたという。またゴルフ界以外の友人も多い。ビートたけしのことを「たけしさん」ではなく「ビートさん」と呼ぶ、数少ない人物でもある。
グレグ・ノーマンと親友である。グレグ・ノーマンはゴルフ界でも変人で知られ、人見知りが激しく、ほとんど交友関係を持たないのだが、二人は本当に仲が良く、青木が左肘を故障した際には主治医の紹介やリハビリについてのアドバイスを与え、世界ゴルフ殿堂入りした際にはプレゼンターを務めた。(ゴルフ解説者の戸張捷が実際に見たといって語っていたところによると、二人は会話の際、青木は日本語で、グレグは英語で普通に喋るのだが、問題なく意思の疎通が出来るのだという。戸張氏曰く「僕の理解の外です」とのこと)
一時期の口癖は「しゃんめえじゃんよ〜」(仕方がない、の意)。


アメリカなどの英語圏では、「アイセイオー・エイオーキ」、「アイザオ・エオーキ」などと発音されていたが、'80年の全米オープンでの活躍以後は「イサァオ・アオーキィ」と、日本語読みに近い発音で呼ばれるようになる。
米国レギュラーツアー時代は、長いパットを次々と放り込む姿や、難しいバンカーからの絶妙な寄せ技などから「東洋の魔術師(オリエンタル・マジシャン)」と呼ばれた。

1978年の「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝後は「世界の青木」と呼ばれるようになったが、これは好敵手・ジャック・ニクラスが「(アオキの)100Y以内の小技は世界一だ」と語ったことが由来とされている。但し、青木自身は「青木功は青木功。何も変っちゃいないんだ」と、急に「世界の」という冠を付けて語られ始めたことに、当初は戸惑いを表明していた。
ライバル尾崎将司のニックネーム「ジャンボ尾崎」にちなんで、一時「コンコルド青木」と呼ばれていた時期もあったが、定着することは無かった。

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