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我が愛しのアスリート図鑑コミュの瀬古利彦(ランナー)

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三重県立四日市工業高等学校入学後から中距離で頭角を現し、中長距離では1年目からの活躍が難しいと言われる全国高等学校総合体育大会(インターハイ)800mで3位に入賞(そのとき優勝したのは後に1500mで長く日本記録を保持した石井隆士)。順調に成長した2年次はその期待に応え800m、1500mで優勝し中距離二冠に輝いた。3年次は、800m、1500m、5000mの中長距離三冠の偉業に挑戦したが、5000mで中村孝生(前橋工)の乾坤一擲のロングスパートに敗れ2位に終わり、2年次同様に中距離の2冠に終わった。しかし、800mは予選、準決勝、決勝の3レース、1500m、5000mは予選、決勝の2レースと四日間のインターハイ(陸上競技)開催期間で15,400mを走破し二種目の優勝と一種目の準優勝を獲得したのは空前絶後であり、その時点で日本中長距離史上で特筆される才能を持った好選手と評価されていた。

また全国高等学校駅伝競走大会は3年連続で「花の1区」に出場し、2年次には区間賞を獲得した(このとき誘導員のミスでスタート後のトラックの周回が1周少なく、9.6kmでの区間賞という珍記録となった)。 全国高校駅伝の1区区間賞は高校長距離界におけるタイトルの一つと考えられており、(400m距離が短かったとはいえ) 2年次で1区区間賞を獲得したことから長距離での特性があることも窺えた。



高校を卒業後、一浪(南カリフォルニア大学に1年間在籍)ののち早稲田大学教育学部に進学。入学当初、浪人中の体重増加を力士になぞらえて揶揄する意味で、「瀬古の海」というあだ名が付けられる。箱根駅伝では4年間「花の2区」を走り3年次、4年次で区間新を記録した。早稲田大学競走部の中村清監督の勧め(入部直後に「君、マラソンをやりなさい」と言われたという)でマラソンに転向する。1年生の1977年2月、京都マラソン(その後消滅)で初マラソン。2年生となった同年12月の福岡国際マラソンでは日本人最高の5位入賞を果たし、一躍次代のホープと目される。 3年生の1978年の同大会で初優勝を果たす。(日本人の優勝は1970年の宇佐美彰朗以来8年ぶりであった)1979年4月、海外レース初挑戦となるボストンマラソンに出場、アメリカのビル・ロジャースに次いで2位となる。同年12月の福岡国際で連覇、その結果1980年にはモスクワオリンピックの代表に選出されたがソ連のアフガニスタン侵攻による西側諸国のボイコットで出場はならなかった(もし出場していれば、金メダルの可能性が最も高い選手であることは誰もが認めるところであった)。この間、大学を卒業して中村監督とともにエスビー食品に入社。同年12月の福岡国際ではモスクワ五輪金メダリストのワルデマール・チェルピンスキー(当時東ドイツ)を破り、自身初となる2時間9分台の記録で3連覇を飾る。

1981年4月のボストンマラソンで日本人としては7人目の優勝を達成。また、1981年3月22日には25,000m(1時間13分55秒8)と30,000m(1時間29分18秒8)の世界記録も達成。30,000m の記録はいまだ破られていない(2006年12月現在)。

しかしこのあと足を痛め、1年以上にわたってマラソンから遠ざかることになる。この間、トレーニングと治療の両立という厳しい選択の中で中村と瀬古は様々な対応を試行し、最終的には鍼灸師による定期的な療養により克服した。中村はこの故障を「神様の与えてくれた試練」と表現した。

1983年2月の東京国際マラソンで1年10ヶ月ぶりにフルマラソンに出場。日本人初の2時間8分台となる2:08:38の日本最高記録で優勝し、名実ともに日本のトップランナーとして復帰を遂げる。この優勝により、瀬古は翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダル候補として注目を浴びる。同年12月の福岡国際マラソンでも優勝し、ロサンゼルスオリンピックの代表に選出された。

その当時の瀬古の走法は、前には出ずに先頭集団の中で位置を窺い、終盤の爆発的なスパートにより勝利するというものであり、先行逃げ切り形のレースはやらなかった。これは、中村の研究と分析による絶妙のコンディショニング、中距離出身ゆえに可能とされた終盤のスパート力(ラスト400mでは世界に敵なしといわれた)、スパート地点を見極める抜群のレース勘が一体になって初めて可能なものであった。宗兄弟とのトラック勝負に勝った1979年の福岡国際、同じくジュマ・イカンガー(タンザニア)をトラックで抜き去った1983年の福岡国際はその典型とされる。またこの2つのレースがいずれもオリンピックの代表選考であったことからもわかるように、大レースに強いことも大きな特徴とされ、ロサンゼルスオリンピックでの金メダルの期待を高めていた。

しかし、迎えた8月のオリンピック本番では、調整の失敗により14位と惨敗する。これは中村が女子マラソンに出場した佐々木七恵の付き添いで留守の間に猛暑の東京で無理な練習をしたこと、それに前後して中村がガンを発症している事実を知ったことがその原因としてあげられている。1979年の福岡国際以来続いた連勝記録、1977年の福岡国際以来の「日本人でトップ」の記録もここで途切れた。



ロサンゼルスオリンピック後、中村の薦めもあって結婚に踏み切る。しかし、1985年4月に中山竹通がワールドカップマラソンで瀬古の持つ日本最高記録を更新、直後の5月に中村が趣味の川釣り中に急逝し、瀬古を取り巻く環境は激変する。 瀬古はオリンピック後のマラソン出場については慎重な姿勢を続け、1986年のロンドンマラソンで1年8ヶ月ぶりにフルマラソンを走り優勝する。同年10月のシカゴマラソンでは2:08:27の自己ベストで優勝、1987年のボストンマラソンでも2度目の優勝を果たし、ロサンゼルスの惨敗から立ち直った。とはいえ、従来のレーススタイルを捨てて、先行逃げ切りに近いレース運びをするようになり、中村がいた頃とは変化もうかがえた。また、出場したレースはいずれも日本陸上競技連盟が解禁したばかりの「賞金レース」で、瀬古はその出場第一号であった。アジア大会のマラソンに出場した中山竹通は、遠回しな表現ながら瀬古に対する優遇ではないかと疑問を呈した。これがその後のソウルオリンピック代表選考を巡る紛糾の一端となったことも否定できない。

そのソウルオリンピックには、陸連の強化指定選手が出場を半ば義務づけられた五輪代表選考会となっていた1987年の福岡国際マラソンをケガ(関東実業団対抗駅伝のゴールで足首を捻挫)のため欠場し、翌年3月のびわ湖毎日マラソン(このレースも選考レースの一つではあった)に優勝して代表となる。この代表選出については、瀬古に対する救済策ではないかという意見が当時多く出された。この代表選考の不透明さは瀬古の責任ではないが、その代表例として名を出されることは名ランナー瀬古の履歴に影を落とすことになった。(代表選考に関する話題は松野明美・中山竹通・小掛照二の項目も参照のこと)本番のレースでは9位となり、ついに五輪では入賞することなく終わる。ソウルオリンピック後、現役引退を表明した。



引退後はヱスビー食品陸上部の監督に就任したのち、陸上部の成績不振を理由に2006年3月限りで退任(事実上の解任)、同年4月1日付で同社スポーツ推進局長に就任した。後任監督には武井隆次コーチが昇格し、中村孝生コーチが部長となった。選手育成では北海道での合宿中に金井豊・谷口伴之の有力選手を陸上部員の運転ミスによる交通事故で失う悲劇にも見舞われ、現役時代ライバル関係にあった宗茂らの後塵を拝し続けたが、ようやく2004年のアテネオリンピックに国近友昭をマラソン代表として送り出した。(国近は残念ながら師と同じく本番では惨敗してしまったが)

ただし、国近の五輪惨敗のほか、大器といわれた渡辺康幸を大成させられなかったこと、西田隆維が2006年の別府大分毎日マラソンで不調だったのを見抜けなかったことなどを挙げて、総じて見た場合の育成能力については厳しい評価を付ける向きもあった。

2005年3月より日本陸連役員もつとめる。また現在でも駅伝やマラソンでは解説を務めることもあるが、放送禁止用語を思わず口走ってしまったり、あまりの独走に「見てるほうはあくびが出ちゃいましたけどね」と発言したり、お世辞にも上手とはいえない(むしろゲストとしての発言ならまだいいが、という意見もある)。そもそも、瀬古は現役時代の修行僧的なイメージと違い、実際はかなりおしゃべりな性格である。近年駅伝の解説をすることが非常に多いが、特に箱根駅伝では母校である早稲田大学に偏重した解説を行い、さらに選手・他の解説者によく言えばフレンドリー、悪く言えば馴れ馴れしく接するため、早稲田大学関係者以外のファンからは不評も聞かれ、さらに早稲田大学の関係者からは「瀬古の解説は早大の名誉を傷つけかねない」とさえ言われてしまうことがある。 2005年の東京国際女子マラソンで優勝した高橋尚子が事前に怪我をしていることを公表したことについて苦言を呈した。又2006年の名古屋国際女子マラソンでは、元男子選手では珍しくレース実況のメイン解説を行った。



落語家の三遊亭楽太郎と容貌が似ていることで有名。瀬古が金メダル候補だった1984年のロス五輪の直前には、楽太郎が瀬古の格好でロサンゼルスを取材するテレビ番組があった。それから20年後に弟子の国近友昭がアテネ五輪の代表に決まったときの記者会見で、瀬古は「楽太郎さんのように冗談を言ってリラックスさせたい」と述べた。
社会人となってからの独身時代は中村の自宅に下宿していた。その当時の生活管理は厳しく、用便の際に息抜きに漫画雑誌でも読もうかと思ったところに中村が便所のドアを開け「瀬古、ウンチの具合はどうだ」と尋ねられたこともあったという。



主なマラソン成績
1977年 福岡国際マラソン 5位
1978年 福岡国際マラソン 優勝
1979年 ボストンマラソン 2位
1979年 福岡国際マラソン 優勝
1980年 福岡国際マラソン 優勝
1981年 ボストンマラソン 優勝
1983年 東京国際マラソン 優勝
1983年 福岡国際マラソン 優勝
1984年 ロサンゼルスオリンピック 14位
1986年 ロンドンマラソン 優勝
1986年 シカゴマラソン 優勝
1987年 ボストンマラソン 優勝
1988年 びわ湖毎日マラソン 優勝
1988年 ソウルオリンピック 9位
通算成績15戦10勝
自己ベスト 2時間08分27秒(1986年シカゴ)

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