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我が愛しのアスリート図鑑コミュの中嶋悟(F1レーサー)

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●レースデビュー
名城大学付属高校卒業後、実兄が経営するガソリンスタンドで働きながらレース活動を行う。1973年の鈴鹿シルバーカップ第1戦でレースデビュー(決勝3位)。1975年にはFL500に参戦してシリーズチャンピオンを獲得。1977年には当時「最強チーム」との呼び声の高かったヒーローズレーシングより鈴鹿F2/全日本F2000選手権とFJ1300に参戦、特にFJ1300ではシリーズ全7戦でポールポジション、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。1978年には全日本F2に参戦しつつ、イギリスF3選手権にスポット参戦する。


●国内トップカテゴリー
1979年には生沢徹が結成したi&iレーシングに移籍し、富士GCシリーズでチャンピオンを獲得。1981年、1982年には全日本F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。1982年にはヨーロッパF2選手権にも参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、その後は資金不足に悩まされ成績は低迷した。そのため生沢徹と確執が生まれ1983年にi&iレーシングから離脱。自らの会社となる中嶋企画を設立するため、破格の契約金を提示したハラダレーシングに移籍をするが、チーム体制が整っておらず同年はチャンピオンを逃した。しかし、これまでの実績からホンダ、セイコーエプソン、PIAAなど現在も関係が続くパートナーを独立後に獲得している。

1984年にヒーローズレーシングに復帰。そのときに車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなうという当時としては例のない契約をした。1986年まで全日本F2選手権で3連覇を達成する(1981年、1982年、1984年については鈴鹿F2とのダブルタイトル)など、当時日本国内のトップカテゴリーには敵がいない状態であった。またレーシングドライバーを職業として定着させたパイオニアである。


●国際選手権
その一方で1984年からはホンダのF1テストドライバーを務めるようになったほか、1985年・1986年にはトムス・トヨタに乗りル・マン24時間レースや世界耐久選手権(WEC)にも参戦。特に1986年のWEC in Japan(富士スピードウェイ)ではトムス86Cを駆り予選トップタイムをマークするが、Tカーでのタイムのため無効となり「幻のポールポジション」となったことは未だにレースファンの間で語り草となっている。

1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って国際F3000選手権にもフルシーズン参戦し、慣れないコースに戸惑いながらも堅実な走りを見せ数回の入賞を果たした。


●メーカーとの関係
F1におけるホンダとの結びつきのイメージが強い中嶋だが、国内時代は必ずしもホンダ一辺倒だったわけではなく、1980年のフォーミュラ・パシフィック(FP)やその後のル・マン24時間レースなど、トヨタ系のマシンも数多くドライブしている。一方で日産との関係は薄く、1979年のFPで星野一義の代役として数戦に出場した程度。一説にはこのFP参戦時に長谷見昌弘とチームオーダーの件で対立したことが、中嶋と日産との仲を遠ざけた一因となっているといわれている。

しかし中嶋本人は『ホリデーオート』誌上で、日産・フェアレディZを思い出に残る車にあげていた。(最初の愛車がフェアレディZだった)

※参考資料:『F1走る魂』(海老沢泰久著、文藝春秋)


●日本人初のフルタイムF1ドライバー
日本人初のフルタイムF1ドライバーとして、1987年の開幕戦であるブラジルGPでロータス・ホンダよりデビューを果たし、1991年の最終戦で引退するまでの5年間、ホンダと初年度のチームメイトであったアイルトン・セナとともにバブル景気に沸く日本にF1ブームを巻き起こした。

F1での成績は、出走回数80回(決勝出走回数74回)、予選最高位6位(2回/1988年メキシコGP・日本GP)、決勝最高位4位(2回/1987年イギリスGP・1989年オーストラリアGP)、ファステストラップ1回(1989年オーストラリアGP)、総獲得ポイント16点であった。

全盛期を過ぎてからのデビューであったことや運のなさもあり、今一歩のところでF1の表彰台には立てなかったが、先述のオーストラリアGPでのファステストラップや、時としてワールドチャンピオンであるNo.1ドライバーをも凌ぐ走りを見せるなど、あと数年F1デビューが早ければ、と惜しむ声も多い。しかしながら、日本人にF1への門戸を開いた功績は大きく、日本のモータースポーツ史に残るだけでなく、パイオニア的存在として記憶に残るF1ドライバーの一人である。


●1987年
1984年からホンダのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。この年は慣れないコースの上、信頼性が低いアクティブサスペンションに苦しめられる場面が多く見られたものの、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレイデッド・ドライバーの仲間入りを果たした。

4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車が1位から4位を占めた一角を担った他、地元の日本GPでも、「中嶋返し」、「大外刈り」と呼ばれる鈴鹿サーキット1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。なお、この年のチームメイトは後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。

マシン:ロータス99T・ホンダ
チームメイト:アイルトン・セナ
獲得ポイント:7
最高位:4位(イギリスGP)

●1988年
初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンのネルソン・ピケに変わった。開幕戦のブラジルGPで6位に入賞したものの、マシンのバランスの悪さや度重なるマシントラブルにより、これ以降入賞することはなくシーズンを終えた。この年はコースに慣れたこともあり、メキシコGPや日本GPにおける予選6位など予選上位の常連となった他、レース中にチームメイトのピケの上位を走ることすら何度もあった。

日本GPでは、予選最高位である6位(5位のピケと同タイムだが、先にタイムを出したピケが上位となる)からスタートするものの、ポールのセナと共にスタートと共にエンストするが、その後の鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位となった。(鈴鹿は下り坂スタートのためアクセルコントロールが難しく、F2時代にも何度もミスしたことがある。)

マシン:ロータス100T・ホンダ
チームメイト:ネルソン・ピケ
獲得ポイント:1
最高位:6位(ブラジルGP)

●1989年
この年もロータス・チームでドライブすることになったものの、ホンダからのエンジン供給が止まったためにエンジンは非力なジャッドエンジンに変わり、マシンのポテンシャルが大幅に落ち、同僚のピケとともに予選、決勝ともに下位に沈む事が多かった。

しかし、最終戦オーストラリアGPでは、豪雨の中、マシンポテンシャルが大幅に高いウィリアムズをドライブする3位のリカルド・パトレーゼを追い回し、日本人F1ドライバー初のファステストラップを記録し4位に入賞した。ホンダはエンジン供給を行っていないものの、中嶋のパーソナルスポンサーとしてサポートを続けた。

マシン:ロータス101・ジャッド
チームメイト:ネルソン・ピケ
獲得ポイント:3
最高位:4位(オーストラリアGP)
ファステストラップ:1回(オーストラリアGP)

●1990年
前年のシーズン中よりアロウズやティレル、オニクスなど複数のチームと移籍交渉を行い、最終的に中堅チームのティレルに移籍することになった。非力なフォードエンジンを使用するため苦戦を強いられることが予想されたものの、開幕戦のアメリカGPで6位入賞を果たした他、日本GPでの6位入賞を含む3回の入賞を果たすなど安定した成績を残した。また、チームメイトのジャン・アレジも表彰台を含む3回の入賞を果たすなど、非力でトラブルの多いエンジンながらマシンのバランスのよさを生かし結果を出した。

なお、「チームの好調の裏には中嶋のマシン開発能力の高さがあった」と、チームオーナーのケン・ティレルから高い評価を受けている。

マシン:ティレル019・フォード
チームメイト:ジャン・アレジ
獲得ポイント:3
最高位:6位(アメリカGP、イタリアGP、日本GP)

●1991年
昨年に続きティレル・チームでドライブすることになったが、当時高い戦闘力を持ち、かつ前年マクラーレンにダブル・タイトルをもたらしたV10エンジンをベースとしたホンダエンジンを搭載することが決まっていたため、前年の活躍から、更なる好成績を収めることが期待された。

しかしながら、フォードV8エンジンに比べ重くて大きいエンジンを積んだことからマシンバランスが悪化、パワーの飛躍的な増加から駆動系トラブルも頻発した。ピレリタイヤの信頼性のなさも加わりレース中上位を走行することがしばしばあったにも関わらず、上位入賞は開幕戦のアメリカGPの5位(ちなみにこのとき6位に入賞したのはラルース・フォード コスワースDFRをドライブする鈴木亜久里)のみであった。また、セッティング能力には定評がありながら、そのマシンを速く走らせることのできない体力と視力の衰えに相当悩んでいた。

この年のドイツGPで突如この年限りでの引退を表明し、当時未曾有のF1ブームに沸く日本のファンに衝撃を与えた。その年の日本GPが行われた鈴鹿サーキットはまさに中嶋一色に染まり、日の丸とともに「ありがとう中嶋」、「やらまいか中嶋」などの横断幕がサーキットを埋め、最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたものの、残念ながらレース中盤にステアリングのトラブルによりリタイアという結果に終わった。

マシン:ティレル020・ホンダ
チームメイト:ステファノ・モデナ
獲得ポイント:2
最高位:5位(アメリカGP)

●雨のナカジマ
日本国内のレースで活躍していたころから雨のレースを得意とし、ファンの間からは「雨のナカジマ」と呼ばれていた。ロータスでの最後のレースとなった、アデレード市街地コースで行われた1989年シーズンの最終戦オーストラリアGPでは、予選に失敗し23番グリッドからのスタートとなったものの、大雨に見舞われ多くの選手がクラッシュ、リタイア(プロストは棄権、ピケ、セナ、マンセルとワールドチャンピオンたちすべて完走できず)する最悪のコンディションの中、戦闘力の劣るロータス101・ジャッドにて「雨のナカジマ」よろしく見事な走りを見せ、ファステストラップ(1分38秒480、64周目)を記録した。

このとき3番手を走るウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼの直後に迫り、日本人F1ドライバー初の表彰台を期待されたが、エンジンの電気系統のトラブルで抜くことができず(パトレーゼのマシンに近づくと、マシンが巻き上げる水煙をエンジンが吸い込みミスファイアを起こしていた)、また2時間ルール規定にも阻まれ、結局4位に終わっている。レース後、中嶋は耳栓を格好良く放り投げ、担当エンジニアのティム・ディンシャムと抱擁した。

後年、TVのインタビューで「なぜ雨のレースが得意なんですか?」との問いに「雨だと車が滑るけど、その分ハンドルが軽くなって操縦しやすくなるから、腕力が無い自分にとって雨のレースはチャンスだった。」と答えている。また、中嶋のマシンの挙動に対する感覚の高さが、車が滑りやすい雨のレースにおけるドライビングの巧みさの理由であるという評価を受けている。また、イギリスのBBCのの名物解説者で毒舌で有名であった元ワールドチャンピオンのジェームス・ハントは、1991年シーズン前に「中嶋が表彰台に登れるはずがない」とこき下ろしたものの、「だが、全戦が雨で開催されるなら、話は変わってくる」と予想していた。

蛇足であるが「スキルはあるが体力が無い」という事実は30代という異例に遅いF1デビューを果たした中嶋を常に悩ませ続け、これを裏づけるように1991年、当時直線とシケインで構成されていたドイツ・ホッケハイムリンクでの予選(ドライ)でこの年初めてチームメイトのステファノ・モデナを上回った際、チームのテクニカルディレクターであったハーヴェイ・ポスルズウェイトは「直線で一息入れられるサーキットではナカジマは速い」とコメントを出している。

なお、2004年第7戦ヨーロッパGPにて佐藤琢磨がレース中トップでコントロールラインを通過し、公式に1位走行を記録するまでは、F1の決勝レースに関して「1位(ラップ・リーダー)」の記録を残している唯一の日本人ドライバーであった。


●引退後
F1ドライバーの時代から自らの会社である中嶋企画が全日本F3000や全日本F3などにチームをエントリーしており、引退後は本格的にチーム監督として現場でフォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権のチームを率いている。野田英樹、中野信治、高木虎之介、松田次生などのドライバーを輩出するなど、古くから若手ドライバーの育成に積極的である。詳しくは中嶋企画の項を参照のこと。

また鈴鹿サーキットが主催するレーシングスクール「SRS-K」「SRS-F」の校長も務め、これまで佐藤琢磨、松田次生、松浦孝亮などを同スクールより送り出している。2004年にはフォーミュラ・ニッポンを運営する株式会社日本レースプロモーションの会長に就任、観客数の低迷が続くフォーミュラ・ニッポンの建て直しにも本格的に乗り出した。

長男の中嶋一貴は2004年より全日本F3選手権に参戦、2005年にはSuper GT・GT300クラスで優勝するなど、レーシングドライバーとして活躍している。2007年にはF1チームのウィリアムズF1にテストドライバーとして参加している。 また次男の中嶋大祐も2004年より全日本カート選手権・ICAクラスに参戦しており、2005年にはシリーズランキング4位に食い込むなどの活躍を見せている。、2006年、SRS-Fに入校。2007年にはFCJに参戦することが決定している。



F1での経歴

国籍 日本
活動年数 1987 - 1991
所属チーム ロータス, ティレル
出走回数 74
タイトル 0
優勝回数 0
通算獲得ポイント 16
表彰台(3位以内)回数 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 1
F1デビュー戦 1987年ブラジルGP
初勝利 −
最終勝利 −
最終戦 1991年オーストラリアGP

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