ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

我が愛しのアスリート図鑑コミュのアントニオ猪木(レスラー)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
横浜の石炭問屋を営む裕福な一家に生まれる。猪木5歳の時に父親は死去。戦後、エネルギー源が石炭から石油に変わったこともあって実家の石炭問屋は倒産し、14歳の時に母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り(長兄は同行せず。祖父は渡航中に毒性のあるまだ青いバナナを食べて死去)、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。

ブラジルへ移住した最初の1年半は、農場であまりにも過酷な労働を強いられた。コーヒー豆などを収穫する作業が中心だったが、作業のたびに手の皮がずる剥けになり血まみれになっていたという。1年半の契約だったため逃げることはできなかった。他の農場の脱走した者たちの中には牧場主に射殺された者もいたという。 あまりにも過酷なため、作業が終わり与えられた電気も通っていない小屋に戻り着替えるためにTシャツを脱ぐと、Tシャツに染みこんだ汗の塩分のため、Tシャツが固まって立ったほどだったという。 猪木の精神力はこのブラジルでの生活で強く培われたと言える。その後ブラジルに遠征に来た力道山との運命的な出会いにより「日本に行くぞ」とスカウトされてプロレス界入りした。

リングネームは、先輩レスラー豊登道春による命名である。当時の名レスラー、アントニオ・ロッカにあやかって名付けられたという説が一般的であるが、単にブラジル帰りを強調するため洋風な名前にされたということらしい(本人曰く「アントニオという名前は日本で鈴木や佐藤という名前が多いようにブラジルではありふれた名前」とのことであるが、実は苗字ではなくファーストネーム)。まだリングネームが決まる前に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山によりその名をつけられそうになったが、猪木自身はそれが気に入らず、その名前を付けるのであればやめるとまで言ったとの逸話もある。

また力道山は猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた。これは南米での興行を成功させる布石でもあり、弟子入りのために帰国した際には「日本語は話せますか?」と記者に問われた。その記事を見た横浜在住時の猪木の幼馴染が日本プロレスの道場を訪ね、「お前は横浜にいた猪木だろ?」と質問したが、猪木は「違う」と貫き通した。猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山が亡くなった後である。

キャッチフレーズは「燃える闘魂」、これは当時テレビ朝日プロレス中継アナウンサーの舟橋慶一の命名である。初めてのアメリカ武者修行時代のリングネームは「リトル・トーキョー・トム」(ロサンゼルスにある日本人街と同名)。

得意技は卍固め、コブラツイスト、延髄斬り、選手としての晩年ではスリーパーホールドを多用した(一般に"チョークスリーパー"と呼ばれているが、プロレスではチョーク攻撃は禁止されており、これは実況アナウンサー辻よしなりの完全な誤認であると、解説(当時)のマサ斉藤も言っている)。「イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『炎のファイター』は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ・ザ・グレイテスト』の曲であったが、猪木と対戦したアリが、猪木に贈りアレンジしたものとされる(真相は猪木のマネージャー新間寿がアリ側にお願いして無理矢理そういうことにしてもらった)。ちなみに「ボンバイエ」とは、「Boma ye(ボマ・イェ)」(リンガラ語、「彼を殺せ!」の意)が訛ったもの。アリがコンゴの首都キンシャサでジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされている。


・1943年2月20日、誕生。横浜市鶴見区生麦町1687番地(現在の鶴見区岸谷3丁目)で育つ。
1957年、一家でブラジルへ移住(渡航中、祖父が腸閉塞により死亡)。ブラジルへ移住してからは砲丸投げなどの陸上競技で活躍し、その身体能力をいかんなく発揮する。なお陸上部の前にバスケットボール部に入っていた。ただし「うまくないから」という理由で辞めたらしい。

・1960年4月11日、ブラジルへ立ち寄った力道山によりその才能を見出されスカウトされ、そのまま日本へ帰国し日本プロレスに入団。同年9月30日、東京の台東体育館にて大木金太郎とデビュー戦を行った(敗北)。デビューはジャイアント馬場と同日である。

・1964年、アメリカへ武者修行へ赴くが、2年後に帰国。かつて日本プロレス社長であった豊登と東京プロレスを旗揚げするも、豊登の横領などにより急速に業績が悪化、3ヶ月で東京プロレスは破産し、最終的に古巣である日本プロレスに戻ることになる。以後、しばらく快進撃を続けるが、1971年、日本プロレスとの度重なる確執から追放処分を受ける。同年11月、女優の倍賞美津子と結婚(1987年に離婚)。

・1972年1月26日、今日に至る新日本プロレス旗揚げを発表。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であったが、世論は日本プロレス支持から次第に新日本プロレス支持に移り、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築く。
新日本プロレス設立当初は、有力な外国人プロレスラーを多数招聘することが難しかったため、流血遺恨試合、釘板デスマッチなどの際物的な試合も多かった。その後、無名の外国人を使い続けて育て上げる一方で、WWFとの提携により多数の外国人スターを呼べるようになった。
新日本プロレスにおいて、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスのスタイルに大きな影響を与える。最強の証明のため、"熊殺し"空手家ウイリー・ウイリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け後年の総合格闘技の礎を築いた。中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。日本ではそのアリ戦は昼間の生中継と、同日の19時からゴールデンタイムにて録画中継という2度放送された(NETテレビ 現・テレビ朝日)。

・1980年に村松友視の『私、プロレスの味方です』が発表される。観客自身の想像力によりプロレスを過激にヒートアップするベクトルを示唆した本書にストロングスタイルの教祖であった猪木は当然反発すると見られたが「過激なプロレス」を標榜、新路線を開拓する。純粋にプロレスラーの技術や試合内容を楽しむ事に主眼が置かれた時代もあったが、1970年代における青少年層がプロレスを愛憎奏であう現実の人間社会として捉える事に対して素直に理解を示した(または、村松の「私的観戦」を便宜主義で利用した)結果、会場における熱狂的ムーブメントがそれまでのプロレス文脈を全てを飲み込む結果となる。後日、プロレスライターのターザン山本は『私、プロレスの味方です』は、時代を変えたとまで書いている。しかし、旗を揚げた猪木自身にも、観客にも以降の方向性が見出せなかったために、「新日本プロレス」内部においては猪木自身の神格化でしかその終焉を迎えられなかった。

・1983年6月2日、自身の立ち上げたIWGP選手権決勝において、当時新鋭であったハルク・ホーガンにKO負けを喫する。この頃から新日本プロレス内での世代交代の機運が高まってきた。
1988年8月8日、長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、先行きが危ぶまれたIWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜き、弟子の藤波辰爾が持つベルトに挑戦した。「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎が急きょ実況席に駆けつける中で行われた試合は60分時間切れの引き分け。猪木がIWGPに挑戦した最後の試合であった。

・1989年2月22日、両国国技館で行われた長州力とのシングルマッチで、ラリアットの連打をくらい完璧なピンフォール負けを喫する。それまでは自分より若手の選手に負けた場合、休養あけで本調子でなかったとか、タッグマッチであったとか、過酷なリーグ戦の最中だったなどの理由が考えられたが、この試合はそうではなかった。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。この後、政治家に転身している事から、この試合を事実上の"最後の第一線での試合"と見るファンは多い。

・1989年、スポーツ平和党を結成。第15回参議院選挙にも比例区から99万3989票を集めて当選(キャッチコピーは国会に卍固め、消費税に延髄斬り)。比例区で最後の一議席をギリギリまで争ったのも猪木らしかった。史上初のレスラー出身の国会議員(=参議院議員)となり、様々な政治活動を行った。ソ連から勇利アルバチャコフ・オルズベック・ナザロフをはじめとするアマチュアボクシングのトップ選手を親交の深い金平正紀率いる協栄ボクシングジムに預け日本でプロデビューする道を拓いた。また湾岸戦争前夜にイラクにおいて行ったイベントにより、人質状態にあった在留日本人の解放に貢献。後に北朝鮮でのイベント「平和の祭典(リック・フレアーと対戦)」も開催した。

・1989年10月14日、福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ負傷、東京の病院に入院した。10月25日頭に包帯をし車椅子に乗った状態で、国会で初めて質問に立った。

・1994年1月4日東京ドームで、馬場の遺伝子を持った天龍源一郎と対戦する。チョークスリーパーで天龍を落とし失神させたが(レフェリーは反則技のためダウンカウントを拒否)、蘇生した天龍に最後はパワーボムで敗れる。この試合は1年間テレビ中継されなかった。このシングル対戦は1回のみで猪木はリベンジ戦は行わなかった。

・1995年、第17回参議院選挙で落選。最大の敗因は、かつて猪木の愛弟子=付け人だった高田延彦が副党首のさわやか新党が参戦し違いを明確に出来なかった事

・1998年4月4日、東京ドームで引退するまで、議員(は途中で落選したが)とレスラーの二足の草鞋を続け、プロレスファンのみならず、そして日本国内外を問わずに、高い人気を獲得する。
引退後はUFO、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEの盛り上げ役や、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催していく。

・2002年8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空3000メートルからのスカイダイビングに挑戦。91107人(主催者発表)の観衆が待つ国立霞ヶ丘陸上競技場への着地に成功した。

・2005年11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は全盛時ほどは無くなりつつある。

・2006年4月、アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。

・2006年9月、IFL参戦のため東京サーベルズを結成し監督に就任する。

・2006年9月、「INOKI GENOME〜格闘技世界一決定戦〜」の開催延期を発表する。

・2007年3月、新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足させ、自身が社長となると共に6月に旗揚げ戦を行うことを発表した。尚、同時期に娘婿であるサイモン・ケリー猪木氏も新日本プロレス社長を辞職しており、IGFへ合流する予定。



猪木と言えばアゴ。その特徴的なアゴが猪木を猪木たらしめており、コンプレックスでしかなかったそのアゴをやがては武器にまで昇華させてしまった。実際藤原喜明は「猪木にスリーパーをされると尖ったアゴが肩に食い込み非常に痛かった」と証言している。モハメド・アリとの対戦前の記者会見で、アリから「ペリカン野郎」とそのアゴをバカにされるが、猪木は「オレのアゴは尖っているからそれだけ強い」と、自分のアゴをアピールした。金的と並び鍛えようのない急所である喉元をガードしている、という意味でも武器であることは、本人も認めている。顎のしゃくれ方が花王のマークに似ていることから、若手時代にはレスラー仲間の間で「花王石鹸」というあだ名で呼ばれていたこともある。

日プロ入門当初、ジャイアント馬場は付き人を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。リングシューズを力道山に履かせる際、ちょっとした紐の掛け違いでも蹴飛ばされたほど。
詩(ポエム)を作るのが趣味で詩集も出版した。プロレス界きっての「ポエマー」として知られている。
「この道を行けば…」という詩[1]を自らの引退試合で引退メッセージとしてファンに贈った。これは以後新日本プロレスの道場訓となった。このセリフは後のMr.Childrenの楽曲、『one two three』の最後の部分にほぼ原文のまま収録されている(桜井和寿が、この歌に説得力を持たせるために入れたらしい)。

アントニオ猪木が結成したスポーツ平和党は現在実兄である猪木快守(テノール歌手・パブロ猪木)が党首(代表)を務めている。
「延髄斬り」は海外マットでもenzuigiriと呼称され、名詞として定着している。
よくバラエティ番組などで「1! 2! 3!…」と「ダー!」という前でカットされることが多いのは、「ダー!」を放送すると数十万円のギャラを猪木に支払わなければならないからである。ちなみに「ダー」一回30万、ビンタ(『闘魂注入』)1発10万、『道』の朗読100万と言われているが、街中などで猪木と出会った際にビンタを頼むと普通にタダで張ってくれるので、ビンタに関しては曖昧なようである。「1! 2! 3! ダー!」は商標登録されている(登録商標としての表記は「1・2・3・ダァーッ」)。なお、「ボンバイエ」、「猪木イズム」、「闘魂」も商標登録されている。

1982年に漫画原作者の梶原一騎が暴力団関係者を使い、猪木を大阪のホテルの一室に呼び出し監禁する事件が起こった。当時週刊誌やスポーツ新聞のみならず、テレビや全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなった。原因は猪木が「寛水流」という空手の流派を設立したことに怒ったとされるが真相は不明。なお寛水流空手は、猪木に対し素手×鎖鎌での果し合いを申し込んだ「東海の殺人拳」水谷征夫が、猪木の本名の「寛」と水谷の「水」を取って創設したものである。ちなみに梶原の著書『わが懺悔録』によるとあの事件は、タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から支払われなくなっており、猪木も梶原を避けていたので全く連絡がつかなかった時にたまたまホテルで会ったので、部屋に招いてその件を問いただしただけで監禁恐喝は完全に冤罪である、とある。だが、梶原の他に同席者がいたことは否定しておらず、猪木に対して何らかの威圧をかけることができる人物、もしくはその様な「物」を手にした人物が存在したのは事実のようである。

闘魂ビンタ誕生秘話:国会議員当時、早稲田予備校での講演(題目「五月病に卍固め」)で、予備校生のパンチを受ける余興を行った。実はこの予備校生は極真空手の有段者であり、パンチングマシンを殴るように猪木を全力で殴り、更に予期せず2発目を殴った。この2発目の不意打ちに準備できなかった猪木は反射的に予備校生にビンタを打ってしまい、予備校生は吹っ飛んだ。この様子は、テレビ中継されており、全国に流れた。国会議員による暴力事件ともとれるが、予備校生は猪木ファンだったらしく、予備校生が「ありがとうございました」と一礼したことで事なきを得た。その後、縁起が良いと東大受験生が受験前に猪木にビンタをお願いし、全員合格を果たした。このことから、縁起ものの『闘魂ビンタ』が生まれた。

闘魂ビンタ秘話続編:有名になり、女性の有名人までもTV番組中に闘魂ビンタ(近年は「闘魂注入」と表されるケースが多い)をねだるまでになっているが、2006年のTV番組で語ったところによると、最近は闘魂ビンタをあまりやりたくないようである。理由はバカの一つ覚えみたいに闘魂ビンタだけしか能がないと他人に思われることを避けたいという思惑によるものという。
袂をわかってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(キャピトル東急など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話がのこされており、公私は別にしていた。馬場も挑発には乗らなかったが、新日本のNWA加盟に対して妨害工作を行なうなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。

よく大量の氷を入れた水風呂に入る。後に猪木自身が語ったところによるとこれは「糖尿病で血糖値が上がった際、氷風呂に入り全身の筋肉をガチガチと痙攣させ血糖を消費させるため」だったらしい。普通の人間は真似してはいけない。

愛読書は朝日新聞と語っている。
引退までの数試合を「INOKI FINAL COUNT DOWN」と銘打ったが、COUNT DOWN 1、2、3…とカウントがダウンせずにアップした。
竹内睦泰は『これだけは知っておきたい 世界の宗教 知識と謎 80』において、「イノキイズム」を「わが国において、宗教を超え、もっとも信仰を集めている思想」と評価している。

プロレス・格闘技のイベントや試合の開催案を不定期で発表するが、実現せずに終わることも多い。「できるかどうかは関係ない。まず発表してしまうこと。それでいろいろ周りを巻き込んで 実現へと向かわせればいい。それがオレのやり方」と、交渉の前に発表するという方法を使う。この方法は新日本プロレスおよびその派生団体で今も使われ続けている。当然のことながら名を挙げられた選手、所属団体のフロントなどからの反発も大きい。これはジャイアント馬場がもっとも嫌った手法であり、旧全日系の馬場の弟子が猪木を嫌う理由と同じであり、ジャンボ鶴田・三沢光晴ともに新日系レスラーの筋を通さずマスコミを動かしてなしくずしにもっていく手法を嫌い、否定している。その悪影響を最も受けたのが故橋本真也であった。

「ほうきを相手に試合をできる」程の卓越したプロレス・センスを持ち、過去に『ハンマープライス』内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で滝沢秀明と対戦している。なお『ハンマープライス』で猪木との試合権を購入したのは諸富祥彦明治大学文学部教授である。リングネームは「ゾンビー諸富」であった。

大阪スポーツは "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。

成田空港で渡航前後に記者会見を行い、今後の自分の動向や、プロレス・格闘技界に意見を言う「成田会見」が定番である。
また、猪木は自由民主党第8代総裁・清和政策研究会初代会長福田赳夫に可愛がられ、福田の実弟の福田宏一が猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で自民党第19代総裁・清和会第4代会長森喜朗とも親交が深い。

力道山も馬場も、その支持者は「ファン」であるが猪木のファンは「猪木信者」である。猪木信者の代表的な人物は春一番、桑田佳祐、森岡隆三、和田竜二、石橋貴明など多数に上る。森岡は、サッカーアジア杯で優勝した際に「1!2!3!ダァ〜!」を行っていたが、その姿を見た彼の妻に「今度猪木のマネをしたら、離婚する」とまで言われたという。和田はテイエムオペラオーで宝塚記念を勝った時には「ダァ〜!」(1!2!3!は無し)を、同年の有馬記念では「1!2!3!ダァ〜!」を行った。

元アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンでウガンダの元大統領イディ・アミンとの異種格闘技戦の計画が浮上したことがあり、1979年1月にアミンは猪木戦を承諾したものの、反体制派クーデターの影響でお流れになったことがある。

かつて「誰の挑戦でも受ける」とコメントしていたが、新日本に復帰した前田日明の挑戦は受けなかった(実際には前田にも猪木とシングルで対戦できる機会はあった。しかし、UWF代表者決定リーグ戦は藤原喜明に、第4回IWGPリーグ戦ではディック・マードックに負けてしまい、猪木への挑戦権を失った。因みに前田との対談で、前田に「なぜシングルで戦ってくれなかったんですか?」と聞かれ、笑いながら「逃げてたから」と答え、それを聞いた前田も笑っていた。これは猪木のジョーク混じりの返答と見るのが妥当だろう)。また闘魂三銃士のうちシングルで戦ったのは武藤(グレート・ムタ)のみであった。

猪木は引退の時、「後継者は前田と思っていた」とコメントした。

全盛期の猪木が格闘技戦やIWGP構想などの壮大なイベントを構想した発想の原点は、NWA世界ヘビー級王者としてプロレスラーの頂点を極めた馬場への激しい対抗心・・・と見る説がある。特に莫大な借金をしてまでして地球規模のイベントとなった猪木vsアリ戦を実現させた事から、一時期の猪木にとって馬場の存在は地球にも匹敵するようなものとする説も。


通算成績
シングル戦 - 611勝41敗50分
タッグ戦 - 1466勝105敗130分

[編集] 獲得したタイトル
NWAタッグ
WC世界タッグ
NWA北米タッグ
USヘビー級
インターナショナル・タッグ
世界ヘビー級(カールゴッチ所有)
NWFヘビー級
アジアタッグ王座
WWF格闘技ヘビー級
WWFヘビー級
IWGPヘビー級王座
UWA世界ヘビー級
NWAテキサスヘビー級
NWA世界タッグ
UNヘビー級

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

我が愛しのアスリート図鑑 更新情報

我が愛しのアスリート図鑑のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。