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ニーチェについてコミュのバランスが取れた読書方法をして下さい。

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バランスが取れた読書方法をして下さい。

日本共産党=スターリン主義者は、エンゲルスの著書ばかり読ませる。

エンゲルスはマルクスの親友であり、ドイツの大学教授と同じくらいの金額を送金していたが、マルクスの理論を理解していなかった。

エンゲルス主義を、さらに歪めたものがスターリン主義である。

以下のものを読む事を勧める。

マルクス・エンゲルス『共産党宣言・共産主義の諸原理』(講談社学術文庫)

マルクス「疎外された労働」『経済学・哲学草稿』(岩波文庫)

レーニン『国家と革命』(岩波文庫が品切れになっているので図書館のレーニン全集をコピーする事)

レーニン『帝国主義』(岩波文庫)

トロツキー『裏切られた革命』(岩波文庫)

対馬忠行『クレムリンの神話』(こぶし文庫)

キルケゴール『現代の批判』(中公クラシックス)(現代が何事にも、情熱を持つ事が出来ない時代だと批判)

ニーチェ『道徳の系譜』(岩波文庫)(現代人が去勢された羊のような矮小で画一化された存在だと批判、民主主義、社会主義、キリスト教、女性解放思想の反人間性を告発)

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)(現代人が「精神なき専門人か心情なき享楽人」でしかないと事を指摘)

マックス・ウェーバー『社会主義』(講談社学術文庫)(最もレベルが高い痛烈なマルクス主義批判。マルクス主義者は、これと対決し超克する必要がある。革マル派最高幹部のように、これを読まないという態度では、マルクス主義を発展させる事は不可能)。

孔子『論語』(中公クラシックス)

荘子『荘子』(中公クラシックス)(儒家、道家の思想を理解しなければ、日本社会が理解できない)

仏教の二大哲学は中観派と唯識派

『空の論理(中観)』(角川ソフィア文庫)

『認識と超越(唯識)』(角川ソフィア文庫)

ゲバラの映画を見ただけでマルクス主義が、分かったように思っている者は馬鹿である。

マックス・ウェーバーを読まずして、マルクスばかり読んでいると革マル派最高幹部のようなレベルの低い理論しか持ちえない。

コメント(26)

興味深い本のご紹介、ありがとうございます。ここで紹介されている本を全部読めば、バランスの良い視野が開けるような気がしますわーい(嬉しい顔)
マックス・ウェーバーが重要であると言うご指摘には全く同感です。

今は絶版かもしれませんが、岩波新書で出ていた山之内靖著「マックス・ヴェーバー入門」もお勧めします。

余り注目されてこなかったニーチェとヴェーバーの関連性を指摘した大変に興味深い内容です。学会では批判されてかなり叩かれたようですが、非常に重要な指摘をしていると思います。
若い人がこういう主張してるのは喜ばしいです
物言いが根拠の提示なく断定だったりするのも気持ちいいですね
倫理観に自信を持ってるからでしょうね
上記に加えてミチューリンやルイセンコとか読んでいただければと思いましたが
今は入手困難ですねげっそり
ランスロさん、山之内靖はクズで無能です。

大塚久雄の弟子で、大塚が戦後、天皇制に一貫して反対だったにもかかわらず、天皇から勲章をもらった事に対して、何の批判もしなかった男です。

しかも、階級対立、労働の疎外、搾取の問題は、今は解決したと公言する右翼ゴロツキです。

ウェーバーを知るためには、ウェーバーについて書いたものではなく、ウェーバーの著書を読まなければなりません。

ウェーバーとニーチェの関係も『宗教社会学』を読めば分かります。

大塚の「西洋経済史」「共同体論」「局地的市場圏」の議論など、全部、否定されています。

にもかかわらず、山之内は大塚に媚を売り続けました。
>レオンさん

>しかも、階級対立、労働の疎外、搾取の問題は、今は解決したと公言する右翼ゴロツキです。

なかなか厳しいご批評だと思いますが、ウィキペディアで山之内靖さんの経歴を調べてみると、

「東京外国語大学名誉教授およびフェリス女学院大学名誉教授。専門は、現代社会理論、歴史社会学。東京大学経済学部卒業後、同大学大学院社会科学研究科で学び、経済学博士の学位を取得。東京外国語大学外国語学部教授・附属図書館長を経て、1996年からフェリス女学院大学文学部および国際交流学部で教鞭をとっていた」

とあります。いわば「象牙の塔」の人です。こういう人が一般労働者の労働の現場を知らないのはやむを得ないです。これを本人の人格の問題にして「右翼のゴロツキ」と決めつけるのはちょっと気の毒。

なお、アマゾンのネットショップで『マックス・ヴェーバー入門』を調べてみると、読者の評価はけっこう高いです。☆5つや☆4つを付けている人がいます。一般向けのマックス・ウェーバーの啓蒙書としての役割は果たしていると推測されます。
>階級対立、労働の疎外、搾取の問題は、今は解決した

そんな感じのことも言っていたかな?「今は解決した」という言い方をしていたら問題だと思います。むしろ「そのあり方は大きく変容しており、解決にはニーチェやヴェーバーを踏まえる必要がある」という議論だったと思います。

実際に私が挙げた本の最後は、マルクスの経哲草稿の「受苦者の連帯」という言葉で終わっています。マルクスの問題は依然として存在しているという立場ですね。

ですからその辺りの文脈も踏まえないで「右翼のゴロツキ」と決め付けるのも如何なものかと思います。

また山之内氏は同書において、それまでの大塚久雄の「近代化」の文脈から読まれてきたヴェーバーのテキストを、ニーチェという「反近代」という文脈から読まれてきた哲学者の文脈から読むことを主張しており、「精神なき専門人、心情なき享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」という台詞を発する主体を、ヴェーバーが「末人(letzte Menschen)」(ツァラトゥストラのあれです)と表現していることを指摘しています。「プロ倫」を私も読みましたが、非常に重要な指摘だと思いました。

また実際に大塚久雄が本当に駄目なのものなのか、という議論もあります。実際に岩波版の「プロ倫」は大塚久雄の訳で、「末人(letzte Menschen)」という表現を選び、ドイツ語の原文で補ったのも大塚久雄です。

だとしたら山之内氏だけでなく、大塚久雄もニーチェからのそういた文脈を理解して暗に示していた可能性もあると思います。そうすると「近代化」のアプローチもまた見直される必要があるかもしれません。


また「宗教社会学」を見ればニーチェとの関係性が分かる、と仰いますが、学会のシンポジウムで山之内氏の公演の後で「ニーチェとウェーバーを絡めて解釈するのは誤りだ、と丸山真男先生も仰っていた!」などと言っている人がいましたよ。もう10年以上前の話ですが、学会でもその程度の認識で、それに明らかに違う視座を示したのは評価されるべきだと思います。
あ、丸山真男の名誉のために追記ですけど、丸山真男が「ニーチェとウェーバーを絡めて解釈するのは誤りだ」という趣旨のことを本当に言ったのか、定かではありません。

ですが本当にそんなことを言ったのか分からないにもかかわらず、「丸山真男」という権威的な人間が「こういうことを言ったんだ!」という権威的「威圧」で議論を決するような態度を取る人が、学会にいたということですね。

でそういう人達が、丸山真男や大塚久雄といった立場を権威主義的に祭り上げて山之内氏を批判していたのだと思います。

しかし、具体的内容に踏み込んで批判するのではなく、「丸山先生や大塚先生は反対しておられたぞ!」で批判になっている、と解する立場で、おそらく山之内氏が何を言っているかも理解していなかったのではないか、と思われます。

で、そういった人々が今度は丸山真男や大塚久雄を批判していたとしても、それが本当に批判として有効なものなのかどうか怪しいものです。実際には皮相な「近代化」論で、丸山や大塚がどういうことを意図して言っていたのか、実際には全く分かっていないのではないか、という感じすらします。結局のところ、「御神輿」「錦の御旗」としての丸山、大塚を利用しているだけで、それを立てて相手を攻撃したり、逆に丸山、大塚を批判して「飯の種」にしているだけのように思えます。

そう考えると、日本においては正統的なヴェーバーの理解は実際には大塚ー山之内のラインなのではないか、と思われます。大塚久雄自身ニーチェなどの議論をヴェーバーが踏まえていることを知っていて、その上で議論を展開していたのだが、その文脈はまるで理解されず、皮相な「近代化論」に還元されてしまった。そして、山之内氏がそれを批判して、本来の大塚久雄が考えてきた、ニーチェをも踏まえた近代化論に引き戻そうとしたのだが、皮相な「近代化論」が反対して山之内氏は潰されてしまった。そして、今や皮相な「近代化論」では通用しなくなってきてしまって、今度は大塚久雄自身を皮相な「近代化論」として批判し始めたのではないかと思われます。

つまり「ニーチェを踏まえた近代化論」=大塚久雄=山之内靖=超人、で「皮相な近代化論」=学会主流派=末人、という分類になるのではないか。
【バランスの取れた読書方法をしてください】ということこそ馬鹿馬鹿しく余計なお世話-発言-だと思います。

なにせ、「読書をする」ということそれ自体が【不均衡な己の精神に均衡を取り戻そうとうする意識から発した行為性】なのですから。

つまり、「バランス」←というこれが取り戻せさえすれば各々が選んだ書物はそれだけで「価値」と化すので、【バランスの取れた読書方法をしてください】というのはそれすなわち【(以前、あなたにとって)価値と化した読書方法を(今後もあなたは)してください】ということを謂っていることと等しく、それってやはり【バランス欲求の起こり自体が不均衡に対する拭払なんだから謂われなくてもやってることなんだよ。なにせ読書目的自体が(意識無意識拘わらず)バランスなんだから。】←なのであります。


*ただ、「ひけらかし」が目的である(浅瀬を泳ぐ人の)場合には【幅広い分野の本を(読みたくなくても)読んでおいたほうが己の頭で考える手間が省けるということに付け加えて「知識のみを、より-ひけらかし-易い」】というメリットはあるかと思います
なんかまるで、
「バナナはおやつに含まれるのか含まれないのか」についてを真面目に議論するためのトピであるかのようにさえ感じます。
もう一言謂えば、

「無知にいくら毛を生やそうとも、それつまり-無知(脳内ハゲ)に毛を生やそうとする無知なさま-なのであり、依然として無知(脳内ハゲ)は無知(脳内ハゲ)である」ということ。

また、その自覚無くして毛の種類だけをいくらあーだこーだ述べても、そのさまは「ヅラの製造法議論」にしかならないとも思います。
そうなってくると、もう、当トピの「バランス」とは『バランス取れたヅラの被り方がテーマにされている』ようにしか思えないというものであります。

色々書いてすみませんが、以上のようなことを(私は)感じました。
しかしながら、

『さも-ヅラに見えないように-ヅラを被る方法』として「バランス」という表現がされているとするならば(そんなことはおおよそ無いとは思いますが)、それは所謂【メタ×メタ】論議なので(私としては)嫌いでも無いです。


A : 「それだと、バランス取れた知識人には見えない読書の仕方なのではないか。」
B : 「いかにも、そうだ。なら、平川 彰のインド仏教史なども加えたらどうか。」
C : 「いや、待てよ。東西が偏ってもいけない。熊野 純彦の西洋哲学史も加えよう。」
D : 「ああ、なんだかこんなふうに構成を練るだけでも我々には知識人度数が上がってきている気がする。」
ティナ : 「いいヅラができそうだ。さあ、みんなでバランスよく被ろうではないかっ。」
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


      (注 : ↑アラシではないです。キモ楽しい感じの表現です。)
まあ、誰かの読書暦を批判するのも、肯定するのも難しいところです。
それなりのレベルの人は、いわずもがなでほとんどの名のあるものに目を通しているでしょうからね。
問題は、それらの読書から「何を得るか」でしょうね。
読んではいても、理解できなかったり視野の広がらない人もいるでしょうから。

このように、本を紹介することは前向きにとらえて良いと思いますよ。
まあ、目くじらたてずに、「自分はこれも加えるといいなあ!」みたいな遊び(シュピール的な意味で)の感覚でやれば有意義ですね。

これに新田次郎さんの「ヨーロッパの仏陀」を加えたり、尾崎放哉の句を加えたり、ドストエフスキーを加えたり、「ぼのぼの」を加えたり、など「これは読んだ方がよい」と主張するのは幅をが広がりますね。
 「ヨーロッパの仏陀」−ニーチェの問い−はこのコミュで知ってアマゾンで222円でGETし、読みました。まだレビューが書けるほどニーチェを理解出来てませんが・・・
 兎に角、このコミュのランスロさんや左手さんの議論はとても勉強になり、ありがたいです。
 私といえば、若い頃、阿佐田哲也の小説ばかり読んでギャンブル三昧の人生ですたwww.

老エンゲルスが『共産党宣言』の方法論から離れていったのは現実の資本主義がイギリスで、それに続いてドイツで、粗雑な段階から脱して深化が明らかとなったからではないでしょうか?
資本に対抗するのに階級闘争をもってするのはもはや先進国では不適合となり、後進資本主義国であったロシアにおいて初めて適合的でありえたからではないでしょうか?
「本のタイトル-その-羅列」←など、誰にでもできる簡単な仕事ですから参加者の幅も広がるでしょうね指でOK
折原浩・東大名誉教授こそ、真のウェーバー研究者であり、彼は、日本におけるウェーバー研究の第一人者です。

大塚史学の連中など、折原に比べたら、最低です。

折原は、東大闘争の時、全共闘の側に立った教官8名の内の一人です。

山之内は、学生運動弾圧に加担しました。

この事だけをもってしても、大塚史学の欺瞞性が明らかです。
なぜ学生運動の頃の行動が何の留保もなく学問としての正しさと関連づけられるのですか?まさにあなたのような考え方が権威主義というものなのですよ。
上の方が書かれている議論をどのように咀嚼されているのですか?
確かにバランスのとれた読書が必要であるというあなたの主張は正しいですね。
反面教師として。
とにかく、大学教授、作家、評論家のものは読まずに、著者が死んでも永遠に、読み継がれる古典を読んで下さい。

ウェーバーの著書も、マルクス、レーニン、トロツキーの著書も読まないで、マルクス主義について語らないで下さい。

ウェーバーの著書を読めば、山之内が白痴のゴロツキだという事がすぐ分かります。

以下が、僕が読破したウェーバーの著書です。

あなた方は、何を読んだのですか?

『支配の社会学』??、『支配の諸類型』『都市の類型学』『宗教社会学』

『法社会学』『ロシア革命論』『社会科学および社会政策における認識の客観性』『宗教社会学論選』『社会主義』『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『古代ユダヤ教』『儒教と道教』『ヒンドゥー教と仏教』
それら「読破した著作」は、貴殿の人間形成にどう役だっておられますか?
>レオンさん

まず学生運動は大規模な社会運動で、多様な側面をもっています。ですから、どのような文脈でどういう態度をとったかと言うことが重要で、「賛成したからよい、反対したから駄目」というようなことではないと思います。

ですから、レオンさんの仰っている内容だけでは判断の根拠にはなりません。


また他の人も指摘していますが、「俺はこれらの本を読んだ。お前らは読んでいない。だから俺の方が上だ。」という議論も根拠がないと思います。何故なら、その書物を読んだ結果、その内容をどのように理解していて、それらに基づいて、どのような見解、言説が説得的に導き出せるか、が重要なのであって、「読んだ」という事実が重要なわけではありません。率直に言って「俺は読んだ」という主張は、学問的な意味を有さないと思います。

ですから、そういった学問的な根拠を示さず「山之内が白痴のゴロツキだという事がすぐ分かります。 」と言うのは、批判と呼べるものではなく、単なる誹謗・中傷に過ぎないと言わざるを得ません。


ややコミュが違うと思われますが、今までの議論で重要と思われるのはレオンさんも上げられている「社会科学および社会政策における認識の客観性」所謂「客観性論文」をどう読むか、と言うことだと思います。

ウェーバーはこの論文で「価値自由」を主張し、社会科学における客観性の議論を展開したとされています。この意味については2つの見解があると思います。一つは、「社会科学においても客観性が重要であり、価値判断から離れた議論をしなければならない」という意味。もう一方は「社会科学において客観性が重要だが、その「客観性」は「自然科学」の「客観性」とは全く異なっており、「価値判断」を前提にせざるを得ない。だから、単なる論理的矛盾などの議論だけでなく、その言説が前提としている「価値判断」をも議論・批判の対象にすることにより、初めて「価値自由」の議論を行うことができ、社会科学の「客観性」が担保される」というものです。

これについて、前者の解釈は「そんなこというために、わざわざウェーバーが論文書くかよ?」というような解釈であり、後者の解釈が正しいと言うことは明瞭であると思います。そして、後者の解釈は、ニーチェの次の指摘と対応するものであると思います。

「ここでいう<客観性>とは、<関心なき直感>と理解されてはならず(こういうものは没理にして背理である)、むしろ知性の向背を意のままに左右し、これを自在に懸けたり外したりできる能力と解されるべきであり、それによってこそ人はさまざまな遠近法や情念的解釈の差異を認識のために役立てることができるのだ。されば、我が哲学者諸氏よ、我々は「純粋な、無意志の、無苦痛の、無時間的な認識主観」を設定したあの危険な古い概念的虚構に対して、これまでよりいっそう警戒しようではないか。(中略)そこではつねに、眼にとっての一つの背理と没理が要求される。そこにあるのは、ただ一つの遠近法的視、ただ一個の遠近法的<認識>だけである。しかるにわれわれが一事物についてより多くの情念をして発言させればさせるほど、その同一事物にたいしより多くの眼、さまざまな眼をむけることができればできるほど、それだけその事物についての我々の<概念>、我々の<客観性>はより完璧になるだろう。」(道徳の系譜第三論文12)

上記のニーチェの<客観性>こそ、ウェーバーのいう「価値自由」に基づく「客観性」であり、多くの価値観、多くの「神々」による認識を視野に入れた視点こそ社会科学において要求する「客観性」である、という主張です。ウェーバーがニーチェの遠近法を前提にして議論していることは明らかです。

マルクスとニーチェはともに、19世紀前半のヨーロッパに君臨していたヘーゲル哲学の反対者として登場しながら、初めはマルクス主義にその影響力の差で完敗した。
資本主義と国家権力が生み出していた悲惨をいかに解決するかという20世紀最大の課題に対してマルクス主義こそがはっきりと答えを打ち出していたからだ。
しかし、国家権力をいかにして死滅させるかということを課題としていたマルクス主義が逆に巨大な権力国家を生んでしまったことで没落すると、
資本主義を基礎とする国家権力だけでなく権力一般を解体する思想としてニーチェの思想は俄然、復権して現代思想の最大の源泉とみなされるに至った。

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