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オモロイ坊主を囲む会.コミュの布施とボランティヤと喜捨

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日本ではお布施といえば、葬式・お通夜・法事などに僧侶を招き“死者や先祖の位牌にお経を唱えて頂いた後に、お礼の心を籠めてお渡しするお金”と考えて居られる人が大部分だと思うが、本来“布施”と言うのは『自分の持っているもの(財・知識・技術・労力・時間・経験・等々・・・・・・・・・・)で、それを社会や他人が必要とし、社会や他人に役立つのなら惜しみも無く分け与える』ことです。

俺は“ボランティヤの基本的精神”もこれとまったく同じだと思っています。

布施行為とは、単なる宗教的行為だけに留まるものではなく、社会共同体の欠かせない相互扶助行為では。

何年か前に一時帰国したとき、東京で滞在するたびに何時も俺の世話を焼いてくれるH君が、仕事部屋として借りて居られた小さなアパートの一室に泊めて頂いていたとき、何時も通り朝早くに近くのコンビニで買った弁当を、私に『朝食です』と届けに来てくれたH君が、弁当を俺に手渡しながら『俺、タイの人たちのように“比丘に宿や食事を布施した”からと言って“死後、天の世界へ生まれ変わるとも、良き輪廻に恵まれるとも信じていない”のに、ナゼこんな事をしているのだろう』と独り言とも、俺に聞かせようとして言ったとも、判断もつかないような小声で呟いたのを聞いたとき、俺の心は何か恥ずかしさと、寂しさで一杯になり『やはり日本人の常識では、俺は単なる厚かましいタカリ屋・乞食坊主なのだ』と胸が痛くなった。
それ以後は一時帰国して東京へ滞在しても、以前はあんなに親しかったY君の方へは足が向かなくなった。

またあるとき、何かの黴菌が入り自分でも臭いくらい化膿した足を引きずり、S国の比丘が東京で一軒家を借りて、小さな寺のように使っておられる家へたどり着き、泊めさせていただいたときにベンツに乗ってその比丘を尋ねてこられた、その比丘の後援者だという日本人の母娘の二人連れが、俺が畳の上に座り込み、近くの薬局で買ってきた薬を化膿して痛む足に塗りこんでいたときに、部屋へ入ってこられ『この部屋臭いね!何よこの肉が腐ったような匂いは!』と呟いて、俺に冷たい一瞥を投げかけ部屋を出て行かれたあと、二階から『何よあの汚い臭い坊主は、さっさと出て行って貰いなさいよ!』と、私に聞こえがよしに金切り声で、その家の主である比丘に叫んでおられるのが聞こえ、その明くる日の朝早く『出来るだけ早く出ていって貰ってくれと、そこの比丘から電話が来たので!』と、俺にこの比丘を紹介してくれたS君が携帯電話で伝えてきた。
そこまで言われれば出て行かざるをえなく、重い荷物を肩に掛け痛む足を引きずり、取りあえず近くのJRの駅まで歩いて行き、駅のベンチに座り近くのカウンターに置いてあった電話帳を開いて、ホテルが掲載されてページをめくり『タイへ戻る明後日まで泊まれる安いホテルは無いか?』とページを繰ってみたが、東京の地理をまったく知らない俺には、俺の懐で泊まれる安ホテルが、何処にあるのかもぜんぜん検討がつかず、やむえなく知人のM君に、彼が仕事中だと言うのを承知で電話して事情を話したところ『判った仕事の手が空き次第にそちらへ行くから痛みを我慢して待っていてくれ』と言ってくれ、昼は駅の立ち食い蕎麦を食って腹の足しにして、警察官に怪しまれ職務質問を受けたりしながら待つこと8時間、午後3時過ぎに『待たせたナー!』と駆けつけてくれたM君が、探してくれた安ホテルの一室で、バンコクヘ帰るまでの二昼夜を足の痛みを堪え過ごした。

くだらない愚痴を長々と書いたが、俺の言いたいのは未だ日本人の心には本当の、布施=ボランティヤ精神など育っていないのでは?と言うことだ。

布施行為・ボランティヤ行為と言うのは本来『何の見返りも求めない無償の行為、慈悲の心から生じる善行為。与えた事も行った事もそれを意識しないで、与えた後は行った後はサラーと流し忘れ去る行為』だ、喜んで捨てる行為、文字通り『喜捨』だと俺は思う。

法事などで、僧侶にお経を唱えて頂いてお渡しする、お布施も本来はそうなのでは。
ボランティヤ行為もそうだ。

『私の家では毎月の月参りに来て頂くお坊さんに、ウン万円お支払いしています』
“違うでしょう!お布施はお支払いするのではなく、貴女のご先祖様への感謝の心と慈悲の心の具体的表現手段として『喜捨』させて頂くのでしょう”

『私、貧しい人・困っている人を助けたくって、00募金に毎年ウン万円寄付しているのよ』
“それなら貴女はその寄付したお金が、誰が幾らほど・何処で・どのように使ったかを知っていますか?お金の使途の報告を聞いていますか?”

せっかく日本人が表に出し動き始めた、善意の無償行為・ボランティヤの心・『喜捨』・今までの日本人が表に出さなかった、慈悲(メッター)の芽を摘んではいけない、枯らしては駄目だ。
聖徳太子の時代より佛教国と言われて来て、祖父祖母・両親・我々へと引き継がれてきた『慈悲』の心を、日本人の心の奥深くに延々と引き継がれてきた『慈しみ』の心を、今こそ表に出し一人一人が『自分の持っているもの(財・知識・技術・労力・時間・経験・等々・・・・・・・・・・)で、それを社会や他人が必要とし、社会や他人に役立つのなら惜しみも無く分け与える』社会を育てようでは。

 NPO・NGOの名を語り、己の名誉・地位・財などを満たすために、もっともらしき事を言って金集めに掛けずり回る集団・寺の建造物の建設や施設の整備に金を出せば<大功徳が積める稀有未曾有のチャンスです>と、人の射幸心をあおるように布施行為をせまる宗教団体、これらエセ宗教団体・エセボランティヤ団体をしっかり監視するのも、布施や喜捨・寄付をする我々一人一人の義務であり責任では?

 この問題まだまだもっともっと根が深く奥が広いと思う。
今こそ日本人全員が真剣に論じ合うべき問題ではと考え、あえて問題提議させて頂きました。

コメント(24)

久々に肉声を聞いた。思いがしています。
さて、肉声には肉声でもって応えます。
     
    「それは私です」
文中の『俺、タイの人たちのように“比丘に宿や食事を布施した”からと言って“死後、天の世界へ生まれ変わるとも、良き輪廻に恵まれるとも信じていない”のに、ナゼこんな事をしているのだろう』と言ったのは、私、小川 日出輝です。

 布施でもボランティアでもない、私の気持ちこそが、
実は「喜捨」なのだと言うことに、私は気がつきました。
「喜」ではなかったとしても、少なくとも「捨」ではありました。

「天国に宝を積みなさい」
「この世で軽んじられ貧しい者に施したのは、実は天の父・神様・イエズスにしたことに成るのです」という考え(聖書の一節。そして有名なマザーテレサの言葉ですが)を、私は、美しいとは思えません。
 
「弁当」は私が、捨てたものです。ですから、チンナワンソが食べようが、食べまいが、オイシイと言おうが、マズイと言おうが、それは、私には関与しないことです。なんせ、捨てたものなんですから。
 弁当であれ、1千万円であれ、それは、同じものと思います。
同じでないと言うのであれば「喜捨」を求めては成りません
「寄付」を求めるべきでしょう。

痛みがソクソクと伝わってくるから、自分までもが痛くなってきて、ニッチモサッチモ行かなくて、何かをするのが、私にとっての「善き事」「善行」です。
 そこに関係性が成立してこそ(換言すれば、関係が成立していなければ、共感も無いので)私は、他者と関わります。つまり、他者に何かをします。何かをしてもらいます。

チンナワンソが、私の方に、足が向かなくなったのと同時期に、私の方も、師に、心が向かなく成りました。
ひとつには
「チンナワンソヤッコも一流の芸子はんになりやして、えらい世間では評判どすえ」
という状況に成って行ったからです。
評判の売れっ子芸者に
「半玉の頃、昔は俺が面倒見たんだぞ」
みたいな感じで顔を出すのは、そんな顔して、周りの人々と接するのも、チンナワンヤッコと、顔合わすのも、私には心地良きことではなかった。


      「第三者としての意見として『異議アリ』」
スリランカ寺の一件、私、目撃しております。目撃しているからこそ言いますが、(目撃した部分だけですが)、
チンナワンソはD師を責めております(おりました)が、後援者、D師の言い分は、当然のようにチンナワンソと異なります。
双方の言い分と言うものがあります。

 双方で解決のついていない問題を(チンナワンソは解決をつけようとさえしていません。D師に、その問題、その思い、その感想を伝えてさえいないはずです)、こうした小さいとは言え、公の場で言うのは、イカガナモノカと私は思う。

ましてや、比丘・食を乞う者です。一宿一飯の恩義にあずかった人々に対して言うべきことではない!と、私は思う。

ケツマクルなら、仲間の前でではなく、張本人の前でまくるべきでしょうよ、チンナワンソ、そういう生き方をしてきた男でしょうに「堀川のアンチャン」は・・・。でしょっ? 違いますか?

第三者ゆえ、この問題は、これだけにしておきます。ずいぶんと
煽った(アオッタ)文章に成っていますが、あたしゃ、ああた、こう見えても、捨て身なんだから、怖かないわさ!

     「清濁併せ呑む。」
正義の剣を振り上げるのはカッコイイことです。
ジャーナリスティックな話題を取り上げ、推し進めるのは、好い気なものです。
「覚者」にならなくてもいい。比丘とは、どういう存在ですか?
どういう意味を持つのですか?
比丘の存在価値は何ですか?

包帯のように巻いた正義と言う、ボランティアと言う、ウソを見抜き、それを剥ぎ取ったからといって、何になるでしょう!

千円盗んで、十円、寄付しているんだから、まあイイヤネ!と言っている比丘が居たとしたら、私は、そちらの比丘を尊いと感じるタイプの人間です。

「人間なんて無力だよなあ」とため息つきつき、泣いてる比丘が居たとしたら、私は、その比丘にハンカチ寄進します。喜捨します。

「世の中ナットラン」と怒っている比丘が居たら、
「怒ってるアンタが一番ナットラン」と思い
「ああ、そうですか・・・怒ってるんですか」とも思い、
「だからナンナノ」とひと言返すくらいで立ち去ります。
       
         「そっと言えば、ギャと申す」
と、文学の世界では言います。一番言いたいことは、
「そっと」言うべきです。
「そっと」いってこそ、他者のこころは震えるのです。
「ギャッ」と言うほどに。
と自覚しつつも、ギャアギャア言っている自分を恥じます。が、
何人かの人が読むのでしょうから、多弁に過ぎましたが、張本人としての返信をしたためました。

お叱り、は、何方様からでも、甘んじてうけましょう。

「一人でも多くの人がこの苦しみから脱けでられますように・・・ 日出祈 拝 」
どこまでも業が強いので、
これをしたら、ええ事ある、
と言うスケベ根性が湧きます。
どうしたらいいですか。
和尚の文章を「もっとも」と思い、日出輝さんの文章にも「もっとも」と思います。そんなもんですよね。私は一神教の世界(正義)よりも多神教の世界(寛容)の方が私にとっては住み良い、と思っていて、今、大事なのは「私の考えを誰もちゃんとは理解できないし、してもらえないと思うけれど、私の権利を守ってもらえ、そして、私も他者の権利を守る」ということです。いろいろな意見や考えの人がいて、誰もそれを理解できないし、押し付けたり変えたりすることはできない、けれども、誰も他者の権利を侵せないし、侵してはならない、と思います。
お二人の言いたいこととはずれてしまいましたが、なんとなくこの考えが頭に浮かんだので書き込ませていただきました。
布施、ボランティア、喜捨、どれをとってもそのときにそれぞれが思う気持ちがあればそれで良いのではないでしょうか?
タイ人がタンブンで喜捨をすることも、日本人が見返りを求めて何かをすることも、受け取る側の気持ちだと思うのです。
見返りを求めずに何かをするということは、本当に難しいことです。人間には欲があるのですから。
だからこそ寺があり、僧侶がいて、人間のありとあらゆる欲望、憎しみ、悲しみ、等などの中で葛藤しているのでは?

うまく表現できませんが、見返りを求めてはなぜいけないのでしょうか?それが叶わなくても、もし叶っても、心で思うことは悪いことなのでしょうか?

無心で何かを行うことは、一生涯でどれくらいできるものなのでしょうか?とても難しいことだと思います。

内容がまとまらなくて申し訳ございませんでした。
何事においても、受け入れ方によっては何事も良い方向へ、悪い方向へとられてしまうのではないかと思います。
私はタイのことはよく知りませんが。
ビルマと同じ仏教なので基本は同じだと思います。

ビルマ人は輪廻転生を信じ。
来世は人間。しかも男性に生まれ変われるようにと
お布施をします。僧侶に寄付することやパゴダを作ることは
最高の功徳だそうです。
そういう親を見て育った子供と
宗教観のあまりない日本人とは基本的に違うと思います。
日本には他人に親切にするという習慣がありません。
自分の周りにいる人には親切だけど。
知らない人には親切にしません。
私はビルマに住んで、本当にビルマ人に親切にしてもらいました。
知らない人にも随分お世話になりました。

そういった親切を功徳のためにやっていて
本当の親切じゃないという日本人もいました。
私もそう思っていた時期もありました。
でも、それがビルマ人の生活の一部となっていると今は思います。
それが自然にできる人たちを私は素晴らしいと思います。

ビルマ人の人にお世話になって
お礼の品を渡そうと思ったら受け取ってくれませんでした。
結局ものすごく説得して受け取ってもらいました。
そのときはなぜ受け取らないんだろうと思いましたが
友達のビルマ人は
お礼をもらうために親切にしたわけじゃないからだろう。
そのお礼の品をもらったら今までした親切が
台無しになってしまうから
と言ってました。

他のビルマ人の友人も
何かをしたときに見返りを期待してはいけないと言ってました。
仏教の心が根付いていると思います。
私もそういう心掛けは大切だと思います。
ボランティアとは
何かしてあげるという気持ちではないと思います。
その人たちから得る物が大きいので
自分の方が励まされたりする方が多いです。

他人にも親切に。と私は心がけたいです。

論点からズレていたら、すみません。
「世間における一切のものは 虚妄である」と2500年前に見抜いた 釈迦は偉い!!
和尚の個人的な問題をこういったところに持ち込むのはどうか?と思います。必ずしもこういった具体例を出す必要はなかったのではないかと。
ノムさんとは反対意見で、和尚の経験されたお話だからこそ、私には読んでいてビシビシ伝わってきました。

人間は自己中心で強欲な生き物かもしれません。しかし、それぞれが好き勝手に自分の欲望のままに生きれば人類はどうなるか。良くない結果が容易に想像できますよね?

「慈悲」や他者への共感を持つことは、これからの時代、ますます必要になっていくと思います。ただ、本来は宗教者や教育者が道徳を教えていくべきなのに、学校や寺までが経営優先になってしまっているのが問題ですね。しかしながら、土壇場になれば、日本人はやります。きっと。
>>12: 興瑞さん
僕は和尚のこういった、生身の人間としての苦悩を見せてくれるところが大好きです。だからこそ、いいと思ったこと、良くないと思ったことを明確に書こうと思いました。

僕自身、良いところ、悪いところあるはずです。和尚はそこにガット入ってきます。これはすばらしいことです。でも今回の書き込みはちょっと個人的な感情を感じてしまった。それは人間として当然なことです。そして当然ながら、賛同する人もいればそうでない人も居るということでしょう。

有意義なのは、こういう形で言葉に発したことで、いろんな人が自分の頭でいろんなことを考える、ということでしょう。「おもろい坊主」の価値はそこにあるのではないでしょうか。

僕は日出輝さんとも個人的にやり取りをしたのですが、悪い人ではなさそうです。和尚も日出輝さんもあくが強い!という感じですが。
言葉が多すぎたので(言い過ぎた。と言う意味ではありません)
(文章が長すぎたので)正確に伝わらなかったようですから
短く書きます。

小生にとって、チンナワンソーの書き込みに対して
「ちょっと、待って」と思ったのは、

1・S国(佛教国でS国ったら、スリランカじゃん)の比丘との経緯に関しての書き込みです。
(S国比丘への)「欠席裁判」のような気がしたので、
それは片手落ちですよ。と
私が、弁護をかってでます。とかって出てきたのです。

2・欠席裁判するのではなく、
比丘同士話し合ったらどうですか?
恨んだり、怒ったりするのではなく
仏陀の弟子なら、そうするべきです。
と言いたかった。

以上

日出祈 拝

追記:ノムさん、僕、そんなに、アク強いイ〜?
すっげえ〜イタイケナ子なんだけどなあ(多分)
>4: はにー☆さん
ええこといわはるわあ。
和尚はこのトピックで、皆さんにボランティアのあり方について考えてもらいたくて、たとえ話としてご自分の体験談を書かれたのだと思います。特に恨みつらみで書かれたのではないでしょう。

感想はそれぞれ…特に事情を知っておられる方は色々な思いをお持ちでしょうが、この場で和尚の文章に対しての批判だけをしてしまうのでは、論点が完全にずれてしまっているように思います。

せっかくの問題提起ですから、建設的な方向に進めていただきたいなあと思いました。
>>16: 興瑞さん
日出輝さんもその辺は了解していると思いますよ。

僕がボランティア云々に関して思うのは
?まずは家族や友人、職場などを大事にすること
?その上で何かできるというのであれば、やればよいということ。この場合大事なのは結果。

という意味ですばらしい結果を出していれば、NPOなどの団体の活動の中で億とか(極端な話)稼いでも、これは充分な正当性があるとお思います。
据え膳食わぬは男の恥

と同じなのが「(喜)捨」だと思っております。

横文字でしか言えないようなこと(概念)を考える時には
一番自分にピタと来る言語に翻訳してから考えるのが
小生のクセです。

昔話をします。
小生が、まだ22歳の頃
「夜明け前の空の群青さを愛しむ会」という、
ただ単に、何処かで、夜明けまで飲む会をやっていた時のことです。
 石和温泉の近くの笛吹川でやりました。
若い男ばかり六人集まりました。
桜の咲く前の季節のことで、夜明け時、真底冷えて
我々は、近くの温泉銭湯に行き、身体を温めてから
宴会場のような所で歌ったり、踊ったりして、
宴会場に居る人々から、酒やら、食べ物を、もらいました。

一人の女性が、ビール6本持ってやってきました。
「妹と来てるの。バカな妹で、男に騙されて、
 妊娠までして、この間、堕ろしたばっかなのよ。
 部屋取ってるから、来て、一緒に飲んでくれませんか」
と言う。
 
 彼女の言葉にウソや美人局の感じはありませんでした。
きっと本当のことなのでしょう。
ノーテンキな若い男たちと一緒に飲めば、気も晴れる。

ヤリタイ盛りの若い男なら、この淋しい身体を抱き締めてくれる
だろうと思ったのでしょう。
 
その気持ちは、十二分に、私たちには伝わりました。

「ああ、冷えてきた」そう言って、私は温泉に入りに行く風を
装って、宴会所を出て、走って、駅まで逃げました。

しばらくすると、全員が、石和駅に逃げて来た。

「お前らは、優しくない。さびしい女が、抱いて欲しい。
 と言ってるんだから、抱くのが男だろっ」
と文句言ったけど
自分がイの一番、逃げて来たのだから、説得力なし。

で、小生、女癖の悪い父を、この時から、尊敬している。
父なら、イッパツもニハツもやって、
この女性を慰めてやっただろう・・・

この点において、私は、父に負けた。
と感じている。

つまり、
ボランティアって、そういうことだと思う。

捨てることです(見栄とか、選り好みとか、思想とか、正義とか、純潔とか、なんやかやを)。
 換言すれば、与えることです。

据え膳のようにして、世の中、世の人、嘆き、寂しさ、貧しさは
私の目の前に据え付けられてしまいます。

据え膳食わぬが、恥のように、
据え(嘆き、貧乏、空腹、不幸 etc)に
手を出さないのは恥じだ。
と思い、
手を出すのが、私の(喜)捨です。

日出輝 拝
和尚さんへ
こんなコミュニティを作りました。
ぜひ意見など書いてください。
よろしくお願いします。
コミュニティの名前を入れるの忘れました。
下記の名前です。

「上座仏教を知るために」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=774636
ボランティア・喜捨。

テーマは・・・
嫌な自分に出会うところ・向き合うところ。
鼻持ちならない自分に出会え、ぴくぴくしちゃう・・・

「いいことしてる?」
「ふざけんな!やなやつ!」

どろどろ・ゲロゲロ・ぐちゃぐちゃ・・・

そんな自分との出会い。
合わせてくれてありがとう。

私はいつもそうです。
嫌なヤツ(汚い自分)と向き合うときです。

自分の気持ちと出会うところ・・・・
そんな自分とのせめぎ合い・・・

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