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城下町コミュの沼田

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 沼田は、北は薄根川、南は片品川が東方から利根川本流に流れ込む川間に位置する大規模な河岸段丘台地上に開けた街で、JR上越線沼田駅は利根川近くにあるため、市街中心部へは急坂を登らねば行けません。
 伝説によると、この地は河水を湛えた大沼でしたが、白鳳時代(西暦7世紀後半)の大地震によって岩壁が決壊し、沼の水が流出した跡が水田状になっていたのが地名の由来だとされます。即ち、本来は台地北方の薄根川流域の低湿地である現在の下沼田町一帯が「沼田」であり、台地上は「滝棚の原」と呼ばれる荒蕪地でした。なお、台地南方の片品川流域の低湿地は「沼須」です。
 律令制下では利根郡渭田(ヌマタ)郷となり、平安末期には利根郡全体が鳥羽法皇が設けた安楽寿院領(後の八条院領)の利根荘となりますが、沼田はその南端に位置していました。平家政権時代には利根荘から分離して、八条院領沼田荘が設けられたようです。
 沼田荘は荘園北方の台地上に築かれた井土上(イドノウエ)館に拠る沼田太郎経家なる者が荘官を務め、源頼朝の挙兵にも参加していて、『吾妻鑑』の文治元(1185)年と建久元(1190)年の条に沼田太郎の名が見えます。沼田太郎の先祖は天慶年間(938〜947)に都から利根郡に下った桓武平氏一族とされています。
 沼田太郎の娘利根姫は相模国愛甲郡古庄郷司の近藤能成に嫁いで初代豊後守護大友能直(オオトモヨシナオ)を産んだとされますが、利根姫の父は相模国足柄上郡大友郷の波多野経家だとする説が有力です。
 なお、文治2(1186)年には源義経に組した豊後国の豪族緒方惟栄(オガタコレヨシ)が源頼朝によって沼田荘に流刑に処されており、沼田氏は惟栄の子孫だとの説もあります。
 その後、宝治元(1247)年に執権北条時頼によって滅ぼされた幕府評定衆・相模守護の三浦泰村の次男景泰が沼田荘に落ち延びて沼田氏の名跡を継ぎ、井土上館に土着したとされますが、景泰は大友能直の孫の豊後守護大友頼泰の子だとの説もあります。
 沼田景泰の子景盛は、鎌倉幕府の命を受けて新田義貞とともに元弘3(1333)年の河内国千早城・赤坂城攻めに参加しましたが、やがて義貞の挙兵に参加、その子景継は足利尊氏に従って本領を安堵されたようです。尊氏は正平6(1351)年に沼田荘を三井寺園城寺(オンジョウジ)の子院である青竜院に寄進しています。
 正平23(1368)年、征夷大将軍足利義詮(ヨシアキラ)・鎌倉公方足利基氏が病死したのを機に、幼少の第2代鎌倉公方足利氏満撃滅を目指した河越直重らの武蔵平一揆に呼応して、越後で南朝方の新田義宗・脇屋義治が挙兵、7000の兵を率いて本貫地の上野国へ攻め込み、沼田荘を制圧しました。これに対し、足利方の関東管領上杉能憲(ヨシノリ)は、千葉氏・結城氏・宇都宮氏等の諸勢60000人の大軍を率いて出撃し、一隊が利根川沿いに展開する一方、一隊は赤城山を越して新田勢を挟撃、沼田から当地まで東西3里の滝棚の原は激戦の修羅場と化しました。当然、沼田氏は幕府軍の一翼を担いました。
 新田義宗は本陣鐘撞堂反町の砦を出て、丘陵上に駒を進めましたが、7月21日の決戦中、幕府方の一矢に右眼を射抜かれ、うつぶしに落馬して壮烈な最後を遂げてしまいました。義宗の骸は船田長門守経政によって近くの山中に葬られましたが、村民は義宗戦死の地で霊を祀って「うつぶし明神」と称し、この地を「うつぶしの森」と呼ぶようになりました。なお、新田軍の副将義治は軍を収めて追貝に退き、最終的に出羽国へ逐電しました。
 その後、応永12(1405)年に沼田景朝は薄根川南岸の台地基部に小沢城を築いて本拠を移し、井土上館は荘田城と呼ばれる支城となりました。当時、沼田氏は白旗一揆と呼ばれる上州国人連合の一員となっており、 応永23(1416)の上杉禅秀の乱に際しては、鎌倉公方足利持氏・関東管領上杉憲基に従っています。
 享徳3(1455)年、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉房顕の間で享徳の乱が起こると、沼田一族は上杉方として活躍し、応仁2(1468)年の綱取原合戦において沼田彦三郎が討死したため、その後継者に将軍足利義政から感状が与えられています。
 永正16(1519)年、沼田泰輝は滝棚の原の北端に幕岩城を築いて本拠を移しました。続いて、その子顕泰顕泰は享禄2(1529)年に河岸段丘上の滝棚の原の倉内に築城を始めて天文5(1536)年に完成させ、新たな本拠としました。これが沼田城(倉内城)で、この結果、従来、滝棚の原北麓を指す地名だった「沼田」が河岸段丘全体の名称となったのです。この際、本町・材木町・鍛治町が割り建てられ、生活用水確保のため白沢用水も開削されたため、従来荒蕪地だった地が城下町として発展する事となったのです。
 顕泰は上野守護・関東管領の山内上杉顕定に従い、上杉氏の重臣たる箕輪城主長野業政の娘を妻に迎えて左衛門尉三郎憲泰や弥七郎朝憲を儲けました。さらに、妻の死後、金子新左衛門の娘を後妻に迎えて平八郎景義が生まれています。
 天文20(1551)年、小田原の北条氏康の攻撃を受けた関東管領上杉憲政が上野国平井城を逃れて、沼田城に身を寄せて来たため、顕泰は憲政を越後の長尾景虎の下に逃れさせましたが、
息子の左衛門尉三郎憲泰が北条方に通じたため、これを誅しています。
 しかし、北条軍が沼田にまで侵攻して来ると沼田顕泰は降伏し、沼田城には、北条家家臣の身ながら北条氏を名乗る事を許されていた北条綱成(ツナシゲ)の子北条康元が入って沼田氏の名跡を継ぐ事になりました。
 ところが、永禄3(1560)年に長尾景虎が上野国へ侵攻して来ると、敗れた沼田康元は逐電してしまったため、沼田顕泰は景虎に臣従を誓って沼田城主に復権、その後、弥七郎朝憲に家督を譲りました。
 しかるに、やがて永禄12(1569)年に至り、顕泰は後妻の子である平八郎景義に家督を継がせようと企み、朝憲が北条氏康に通じたと称して誅し、景義に家督を継がせました。しかし、朝憲麾下の将兵は猛反発して蹶起、上杉謙信も関東進出の拠点である沼田城の不安定化を憂慮して配下の北条高広・白井長尾等に沼田城を攻撃させたため、顕泰・景義は陸奥国会津の蘆名盛氏の下へ逃亡、沼田城には柴田左衛門尉が城代として派遣されました。なお、この時、北条氏康の子氏秀(景虎)が謙信の養子となり、沼田城で対面した事で武田信玄に対抗する越相同盟が成立しています。
 こうして、沼田は上杉謙信直轄領となりますが、柴田左衛門尉は旧沼田氏家臣を充分掌握出来なかったため、上野家成・河田重親・松本景繁が城代となり、沼田三人衆と呼ばれました。
 天正6(1578)年の謙信の死によって、上杉景勝と上杉景虎が後継争いである御館(オタテ)の乱が起きると、沼田三人衆筆頭の上野家成は景勝支持を表明しますが、河田重親は、厩橋(マバシ)城将の北条景広等と共に景虎に加担、家成を破って沼田城を攻略、越後に進軍しましたが、乱は景勝の勝利に終わったため、河田重親は北条氏政方の新田金山城主由良国繁の下へ逃れました。由良氏は新田義宗の子孫と称する豪族です。
 そして沼田城は北条氏政の支配下に置かれ、猪俣邦憲(イノマタクニノリ)・金子泰清・藤田信吉等が城代となりましたが、上杉景勝と武田勝頼の甲越同盟が成立した結果、景勝は武田氏の沼田攻略を承認し、勝頼配下の信濃国松尾城主真田昌幸(1547〜1611)が攻略の命を受ける事となりました。
 天正7(1579)年9月、昌幸は沼田領へ侵攻、沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱に沼田城を攻めさせる一方で、現在の利根郡みなかみ町にある名胡桃(ナグルミ)城の鈴木重則と小川城の小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れました。そして両城を拠点にして沼田城を攻撃しましたが、北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退を余儀なくされました。
 続いて、天正8(1580)年閏3月から沼田城攻撃を再開した真田昌幸は、5月に至って沼田城を攻略、城代猪俣邦憲は小田原へ逃れましたが、金子泰清・藤田信吉等は昌幸に降伏して臣従を誓いました。
 ところが、天正9年3月に至って、会津に逃れていた沼田景泰が沼田城を奪還しようとする事件が起こりました。景義は父の死後、由良国繁を頼って上野国に戻り、矢場城主横瀬勝繁の婿となっていたのです。由良国繁は景義に大胡・那波氏らの加勢を添えて、渡良瀬谷から利根郡に進出させました。景義着陣を聞いた沼田衆には参陣する者が多く、景義勢は迎え撃った真田方の矢沢頼綱を片品川に破り、さらに藤田信吉・海野輝幸と田北の原で戦い、北に回って高王山城に入り戸神に布陣しました。
 これに対して、密かに沼田に着陣した真田昌幸は景義の伯父金子家清を調略、家清と示し合わせて高王山城の水の手から侵入した真田軍は、沼田城を一気に抜こうとしていた景義を不意打ちで取り込め討ち取ってしまったのです。この景義の死によって、沼田氏の嫡流は完全に滅亡してしまいました。
 上野国利根郡の沼田城は天正8(1580)年以後、武田勝頼配下の信濃国松尾城主真田昌幸の支配下にありましたが、天正10年3月、織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼします。真田昌幸は信長に臣従を誓って信濃国の本領を安堵されますが、上野国領は接収され、信長の重臣滝川一益が上野国守となります。
 一益は厩橋城を本拠とし、対上杉の拠点となる沼田城には一族の滝川益重を入れました。益重は上越国境で上杉景勝配下の清水城主長尾伊賀守や樺沢城主栗林政頼と攻防を繰り返していましたが、同年6月2日本能寺の変で織田信長が横死すると、これを知った元沼田城代の藤田信吉は長尾伊賀守を通じて上杉景勝と結び、5000の兵を率いて沼田城を攻めます。信吉は水曲輪の一つを奪いましたが、6月13日、益重は滝川一益の援軍を得てこれを撃退しました。
 しかし、滝川一益が6月19日、北条氏直との神流川合戦に敗れて伊勢国へ逐電すると、益重もこれに従っています。この隙を逃さず、独立した真田昌幸は6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回、嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めました。
 一方、越後の上杉景勝が北信濃に進軍し、6月24日に長沼城に入ったため、昌幸は一旦景勝に臣従しましたが、7月9日には北条氏直に寝返りました。7月12日、北条氏直は信濃国川中島へ進撃、上杉景勝と対峙しましたが決戦を避け、遠江国浜松城主徳川家康が侵攻して来た甲斐国へ転戦しています。この時、真田昌幸は松田憲秀と共に殿軍として川中島に残りましたが景勝が8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国したため、昌幸も沼田城に戻りました。
 そして、徳川家康の勢力拡大を見た昌幸は、9月25日になって、佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主依田信蕃(ヨダノブシゲ)を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切りました。
 この結果、激怒した北条氏政は同年10月中旬に弟の北条氏邦に命じて沼田城を攻めますが昌幸の守りが固かったため、10月29日になって家康と和睦します。ところが、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として沼田城を譲渡するという条件を出したため、真田昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だった事に反発し、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に通じた上で沼田城譲渡を拒否…と一年の間に沼田城を取り巻く情勢は二転三転して錯綜を極めたのです。
 昌幸は、家康に面従腹背の態度を取りつつ、天正11(1583)年には信濃国上田城を築いて、松尾城に代わる本拠とし、信濃・上野両国に跨る領域支配を固めました。そして、天正13(1585)年に至り、北条氏政から約束の履行を迫られた家康は昌幸に沼田城引き渡しの最後通牒を発したため、昌幸は正式に上杉景勝に臣従して第一次上田合戦で徳川軍を撃退します。また、これに連動して北条氏直も沼田城を攻めましたが、昌幸はこれも撃退して有力戦国大名として認知される事となりました。
 天正13(1585)年冬、昌幸は上杉景勝の人質となっていた次男信繁(幸村)を関白豊臣秀吉の人質として大坂に出仕させ、一方では嫡男信幸(信之)を家康の下へ送って、二股をかける外交を展開しましたが、天正14(1586)年6月に景勝が秀吉に臣従した際、上杉家麾下から独立して秀吉直属の大名として公認されました。
 続いて、同年10月に徳川家康も秀吉に臣従すると、昌幸は秀吉の命で宿敵家康の与力大名となっています。
 天正17(1589)年には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏直には沼田城を含む利根川以東が割譲されて、昌幸は代替地として信濃国伊那郡箕輪領を得ました。この結果、北条氏綱家臣で元沼田城代の猪俣邦憲が同年9月に沼田城代に返り咲く事となりました。
 この当時、真田昌幸は在京していましたが、同年11月に至り、猪俣邦憲は真田領の名胡桃(ナグルミ)城を攻め落してしまい、名胡桃城代鈴木重則を自刃に追い込んでしまいました。この名胡桃城奪取事件は関白秀吉の発していた惣無事令違反と見做され、翌年の小田原征伐の直接原因となったのです。
 天正18(1590)年7月、小田原北条氏が滅亡すると、関八州は徳川家康領となりましたが、家康は秀吉の奨めで真田昌幸に上野国沼田領を安堵してやり、昌幸は再度旧領を確保したのです。この結果、昌幸の嫡男信幸(1566〜1658)が沼田城主となり、30000石を領する事となりました。信幸は慶長2(1597)年に沼田城を天守閣を持つ大規模な近世城郭に改築しています。
 慶長5(1600)年9月の関ヶ原合戦に際し、真田昌幸は下野国犬伏で二人の息子と合議、自身と次男の幸村は西軍に組し、家康の養女小松姫を妻としていた長男信幸は東軍に付く事を決めました。昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路「孫に会いたい」と言って、信幸が家康に従って留守にしていた沼田城を訪問、隙あれば奪取しようとしました。これに対して、城の留守を預かっていた小松姫は「たとえ舅であっても敵である」として、武装した姿で対応し城門を開かず追い返しましたが、直後に、自ら子供をつれて昌幸の下を訪れ、舅の願いを叶えたので、見事な対応に昌幸・幸村は大いに感心したとされます。
 一方、信幸は徳川秀忠の東山道軍に属して、幸村の守る信濃国戸石城を開城させる軍功を挙げていますが、上田城に退いた幸村は、父昌幸と共に第二次上田合戦で秀忠の大軍を翻弄しました。
 そして戦後、信幸は信之と改名、昌幸・幸村の助命嘆願を成功させ、昌幸領も継承して95000石を領する事になりましたが、上田城は破却を命じられたため、引き続き沼田城を本拠としました。
 信之は、慶長17(1612)年に従来から存在した本町・材木町・鍛治町を大規模に再度割り立て、慶長19(1614)年には荒町・鷹師町・小人町を割り立てて城下町の整備を進めましたが、同年勃発した大坂の陣には病気のため出陣出来ず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣しています。信之は元和2(1616)年に上田城跡へ藩庁を建てて本拠を移し、信吉が藩内領主として沼田城主となっています。信吉は、同年、坊新田町が割り立てて城下町の拡充を図っています。
 真田信之は元和8(1622)年10月に130000石に加増されて信濃国松代に移封されますが、沼田30000石も飛地藩領として維持される事となったため、信吉が沼田城主を続ける事となりました。信吉は城下町の生活用水拡充のため、寛永5(1628)年に北方から白沢用水に合流する川場用水を開削していますが、白沢用水は城下では城堀川とも呼ばれ、沼田城の外堀の役割も果たしていたようです。
 寛永11(1634)年11月、真田信吉は父に先立って江戸屋敷において40歳で死去、長男の熊之助が僅か4歳で家督を継いで沼田城主となり、叔父の信政が後見人に就いて政務を行ないました。しかし、熊之助は寛永15(1638)年11月に7歳で夭折したため、沼田領のうち25000石を信政が継承、熊之助の弟信利に5000石が分知されました。
 真田信政は領内の検地を実施し、寛永20(1643)年に馬喰(バクロウ)町、正保3(1646)年年に栄町、慶安元(1648)年に原新町を新たに割り立てて城下町を拡充していますが、明暦2(1656)年に至り、既に91歳の高齢に達していた松代藩主信之が隠居したため、松代100000石の真田宗家の家督を継ぐ事となり、沼田領30000石は全て信利が領する事となったのです。
 しかし、明暦4(1658)年2月に信政が父信之に先立って死去すると、信政の六男で2歳の幸道か、沼田領主信利とのどちらに宗家を相続させるかでお家騒動が勃発、既に93歳に達していた信之の決定により、幸道を後継者として幕府に届け出ました。
 ところが、信利は自身が信之の長子信吉の子である事を理由として「真田家の、松代藩の正統な後継者は自分である」と幕府に訴え出て幸道の本藩相続撤回を求めたのです。信利には正室の実家の土佐藩や老中酒井忠清が後ろ盾となり、大規模な騒動に発展しましたが、同年6月に4代将軍徳川家綱は幸道を松代藩100000石の後継者と最終決定し、幕命により沼田領は松代藩から分離独立して信利を藩主とする沼田藩30000石が正式に成立しました。
 しかるに納得していなかった信利は100000石の松代藩に対抗するため、寛文2(1662)年より領内総検地を断行し、表高30000石、実高60000石に過ぎない沼田藩領石高を松代藩を上回る144000石だとの話を捏造して幕府に報告したのです。
 この結果、当然、幕府は144000石相当の課役を沼田藩に命じる事になり、しかも沼田城を修築して金箔瓦で葺かれた壮麗な五層の大天守閣を新築、江戸藩邸も松代藩邸に引けを取らぬ豪奢な造りに改装するなど、血迷った施策が強行されたため、領民は苛斂誅求に苦しむ事となって多数の餓死者を出すに至りました。さらに、それまで関東で五層の天守閣を持つ城は江戸城のみだったため、幕府から睨まれる結果も招いてしまったのです。
 当時の沼田城下町は、城の南方に、本町から分かれた上之町・中町・下之町が武家地と接して東西に連なり、その南に東から鍛治町・坊新田町・馬喰町・材木町・原新町が並び、台地南端に栄町がありました。万治3(1660)年には、城の東北の台地北端に柳町、台地東方に高橋場町が割り立てられています。
 木戸は西方の利根川から台地へ登る急坂に設けられた滝坂上御門の外、鍛治町・坊新田町・馬喰町・材木町・栄町・原新町・高橋場町にも置かれています。
 延宝8(1680)年、真田信直は江戸両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負いましたが、折からの台風により利根川・片品川が氾濫して用材は流出し、翌天和元(1681)年10月の納入期日に間に合いませんでした。さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出したため、同年11月、沼田藩は就任直後の5代将軍綱吉から治世不良・納期遅滞の責めを問われて改易、山形藩奥平家にお預けになってしまいました。
 そして、天和2(1682)年正月には、綱吉の命令によって沼田城は破却され、堀も埋められてしまったのです。この厳しい措置は、綱吉と敵対していた大老酒井忠清と信利が結んでいた事が原因だと思われます。ちなみに忠清は天和元(1681)年12月に大老を解任されています。
 こうして沼田は天領に組み込まれましたが、元禄16(1703)年に至って下総舟戸藩から譜代の若年寄本多正永が20000石で沼田に入府、沼田藩が復活しました。正永は沼田城三の丸跡に陣屋を築いて藩庁としました。
 政永は宝永元(1704)年に老中となって10000石を加増され、翌年にも10000石を加増されて計40000石を領する事となり、城主格が与えられましたが、沼田城の再建は後回しにして真田信利の悪政で荒廃していた領内の復興に尽力しました。
 正永の後は、正武、次いで正矩(マサノリ)が襲いましたが、享保15(1730)年に本多正矩は駿河国田中藩40000石へ移封され、享保17(1732)年に常陸下館藩から譜代の黒田直邦が25000石で入府、その直後に西の丸老中就任に伴って30000石に加増されました。黒田家も城主格でしたが、陣屋住まいを続けています。
 寛保2(1742)年7月、黒田直邦の子直純は上総国久留里藩へ移封となり、代わって老中土岐頼稔(トキヨリトシ)が駿河国田中藩から35000石で入りました。
 土岐氏は室町時代に美濃守護を務めた清和源氏の名門で、やはり城主格でしたが陣屋住まいを続け、結局、沼田城は再建されないまま廃藩置県に至ったのです。
 頼稔は入府直後に藩校沼田学舎を創設して藩士子弟の教育に尽力しています。頼稔の後は、頼煕(ヨリオキ)、次いで定経が襲います。定経は、財政再建のため年貢増徴を企てますが、天明元(1781)年12月に反発した領民が見取騒動が発生したため、増徴を断念しています。定経は、その後、幕府寺社奉行や大坂城代を歴任しています。
 定経の後は、頼寛(ヨリヨシ)、定吉、定富と短命の藩主が続き、土岐家沼田藩7代目の頼布(ヨリノブ)は、備後福山藩主阿部正倫の五男頼潤(ヨリミツ)を養子に迎えて文化10(1813)年に家督を譲っています。
 頼潤は農村復興や「間引き禁止の触書」制定等の改革を行ったが、効果は上がりませんでした。頼潤時代の文政3(1820)年に作られた『沼田町明細表』によると、当時の城下町の町人は、男1699人・女1746人で、馬匹は272頭とされています。また、職種別では紺屋21・山伏16・大工16・鍛冶12・桶屋9・医師5・畳屋3・樵(キコリ)2とされています。市は上之町・中町・下之町で毎月4と8の二日ずつの六斎市が立っていました。なお、城下町東方の台地上の農村では水不足から水田稲作は困難で、麦・豆類の畑作地帯となっており、特に粟と煙草の生産が多いと記されています。
 頼潤の養子頼功の時代の天保年間(1830〜44)には天保の大飢饉で甚大な被害を受けましたが、衰微していた藩校沼田学舎の再興も行われています。
 次の頼寧(ヨリヤス)は早世し、桑名藩主松平定永の十男で松平定信の孫に当たる頼之が養子として後を襲いました。頼之は幕府若年寄として慶応2(1866)年の第二次長州征伐に参戦後、慶応3(1867)年4月に家督を長男頼知(ヨリトモ)に譲って隠居しました。
 慶応4(1868)年1月に戊辰戦争が勃発すると、頼知は4月に朝廷の命令で上京して新政府に恭順、桑名藩や会津藩と姻戚関係にありながら新政府軍の沼田進駐を許し、三国峠の戦いで会津藩と戦っています。
 明治4(1781)年7月の廃藩置県後、沼田藩領は沼田県となり、同年10月に上野国諸県が合併して群馬県が成立しました。その後、明治6年に旧武蔵国の入間県と合併して熊谷県が新設されましたが、結局、明治9年に群馬県が復活しています。沼田には明治11年に利根郡役所が設けられ、利根郡の中心として重きを成しました。なお、旧沼田藩主土岐頼知は明治17(1884)年の華族令で子爵に叙されています。
 明治22(1889)年の市町村制施行で、旧沼田城下町は利根郡沼田町となり、明治24(1891)年の戸数は1039、人口は男2892人・女2641人でした。
 明治43(1910)年に渋川―沼田間に馬車鉄道が開通、大正7(1918)年に電車に変わりましたが、大正13(1924)年に鉄道省が上越南線を開通させると民営鉄道は廃止されています。沼田駅は台地西麓の利根川近くに設けられたため、沼田町中心部との往来は不便でした。
 また、大正5(1916)年、旧沼田藩士の子である元衆議院議員で実業家の久米民之助(1861〜1931)が沼田城跡を購入して公園として整備した上で、大正15(1926)に沼田町へ寄贈、沼田公園が生まれました。
 大東亜戦争(1941〜45)間、沼田は米軍の空襲を受けなかったため、東京の主要な学童疎開先となっていました。
 昭和29(1954)年には周辺町村と合併して沼田市が誕生、昭和57(1982)年開通の上越新幹線は沼田市を通らなかったものの、昭和59(1984)年には関越自動車道沼田ICが出来て首都圏との交通の便が飛躍的に改善されました。
 平成17(2005)年には利根郡白沢村・利根村を編入して、市域が東方山間部にも大きく拡大しています。

・沼田城跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=398257&id=78694574
+須賀神社の大ケヤキ
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=320240&id=78774713
・正覚寺のコウヤマキ
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=320240&id=78774882

コメント(32)

 8月9日日曜日に訪れました。

 JR上越線沼田駅です。
 駅から河岸段丘上の城下町へ登る急坂の滝坂です。
 沼田城跡〔沼田市指定史跡〕三の丸跡です。
 沼田城捨郭からの眺望です。

左;国道17号線
中;利根川上流方面
右;左・三峰山(1123m) 中・迦葉山(1322m) 右・武尊山(2158m)
 沼田城保科郭です。天狗堂があります。
 沼田城二の丸跡に移築された旧生方家住宅〔重要文化財〕です。
 旧生方家住宅にある沼田城模型です。
 二の丸跡に移築された旧土岐邸洋館〔登録文化財〕です。
 旧土岐邸洋館内部です。

左;沼田城天守閣模型
中;幕府老中・沼田藩主土岐頼稔(ヨリトシ)木像
右;土岐章子爵大礼服
 旧土岐邸洋館にある沼田御屋形(沼田陣屋)模型です。
左;久米民之助(1861〜1931)胸像
中;沼田市役所
右;大天狗面
左;移転工事中の旧沼田貯蓄銀行〔群馬県指定文化財〕
中;城堀川の布積み石垣
右;旧日本基督教団沼田教会記念会堂〔登録文化財〕
 曹洞宗月宮山天桂寺です。

左;本堂
中;豊川稲荷堂
右;沼田城主真田信利墓〔沼田市指定文化財〕
左;天台宗晴雲山三光院
中;三光院 沼田城主真田信利寄進の石灯籠
右;真言宗御室派妙智山歓楽院
 天台宗延暦寺派大感応山長寿院常福寺です。

左;山門
中;本堂
右;二十三夜月光山勢至堂
 須賀神社〔郷社〕

 祭神;素盞嗚尊(スサノオノミコト)・穂高見神(ホダカミノカミ)・大己貴命(オオナムチノミコト)・大日孁貴尊(オオヒルメノムチノミコト)・菊理姫命(ククリヒメノミコト)・稲田姫命(イナダヒメノミコト)・少彦名命(スクナヒコナノミコト)

左;本殿
中;拝殿
右;大ケヤキ〔群馬県指定天然記念物〕
左;天台宗延暦寺派海王山善福寺金剛院
中;モミジアオイ
右;愛宕神社〔村社〕 祭神;火産霊命(ホムスビノミコト)・建御名方命(タケミナカタノミコト)
 日蓮宗慶寿山妙光寺です。

左;本堂
中;沼田藩主真田信利生母慶寿院殿墓〔沼田市指定文化財〕
右;鬼子母神堂
 「食堂あけぼの」うなぎ定食1250円也
 浄土宗法蔵山正覚寺です。

左;山門〔沼田市指定文化財〕
中;コウヤマキ〔沼田市指定天然記念物〕
右;大蓮院殿墓〔沼田市指定文化財〕 沼田城主真田信之正室小松姫
左;百日紅(サルスベリ)
中;赤城山遠望
右;桔梗 沼田市の市花
 砥石(トイシ)神社 祭神;倭建命(ヤマトタケルノミコト)

左;一の鳥居
中;石造七重塔〔群馬県指定文化財〕
右;本殿
 榛名神社〔県社〕 

 祭神;埴山姫命(ハニヤマヒメノミコト)・倭建命(ヤマトタケルノミコト)・菅原道真命(スガワラノミチザネノミコト)・建御名方命(タケミナカタノミコト)

左;一の鳥居
中;面面面美様(メメヨシサマ)
右; 本殿
 日帰り温泉「スパリゾート ゆにーく」です。
 「スパリゾート ゆにーく」食事処「食事楽」 上州麦豚やわらかヒレカツ定食1450円也
 宿泊したビジネスホテル青池です。

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