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城下町コミュの江戸

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 武蔵国江戸は、武蔵・下総国境の隅田川河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が入り込んでいたため、平安時代後期に「江の入口」の意味で付けられた地名だと推定されている。
 平安時代後期に武蔵国秩父地方から平野部へと進出した桓武平氏一族の秩父重継が11世紀に江戸の桜田の高台に居館を構え、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、以後、江戸氏がこの地を支配する事となった。
 重継の子である江戸重長は治承4(1180)年に源頼朝が挙兵した時には、当初は平家方だったが、後に鎌倉幕府御家人となった。
 弘長元(1261)年、江戸氏の一族であった地頭江戸長重は正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現東京駅付近)を北条氏得宗家に寄進してその被官となっている。
 南北朝時代、江戸氏は初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えるが、室町時代に次第に衰え、本拠地を多摩郡喜多見(現世田谷区)に移した。
 代わって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田道灌が入り、江戸氏の居館跡に平山城の江戸城を築いた。一説には長禄2(1456)年に建設を始め、翌年完成したという。道灌の時代、現在の神田川並びに日本橋川の前身である平川は日比谷入江に流れ込んでおり、西に日比谷入江、東に江戸湊がある江戸前島周辺は、浅草や品川湊と並ぶ武蔵国の代表的な湊であった。江戸や品川は(古)利根川や荒川等の河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・西国方面に出る際の中継地点となっていた。
 道灌の死後、扇谷上杉氏の衰亡と共に、江戸城は後北条氏の支城となり、天正年間(1573〜92)には北条氏政が直接支配して太田氏や千葉氏を統率していた。江戸城の管轄域は、東京23区の隅田川以西・以南及び墨田区・川崎市・多摩地区の一部まで及んでいた。
 天正18(1590)年、北条氏政が豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、開拓の命を受けた徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったが、家康は江戸城拡張よりも城下町建設に力を注ぎ、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があり、また道三掘や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている。
 家康が慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、3年後に征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになると共に、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。
 一方、江戸城とその堀が幕府から大名に課せられた普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。
 武家屋敷は、番町・麹町・平河町・市谷・牛込・四谷・赤坂・麻布・本郷・小石川など武蔵野台地東端の高台に築かれたため「山の手」と呼ばれるようになり、低地にある商工業が盛んな町人町は「下町」と呼ばれた。
 だが、明暦3(1657)年の振袖火事によって市街はほぼ全焼し、10万人もの犠牲者が出た。江戸城天守閣もこの時に焼け落ちて、以後再建されなかった。
 大火後、大規模な都市改造が実施される事となり、御三家の屋敷が江戸城外へ転出、それに伴い武家屋敷・大名屋敷・寺社の移転も大々的に行なわれた。軍事防衛上、千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋も多数行なわれ、両国橋や永代橋等が設けられたため、隅田川東岸にも深川等の市街地が拡大した。
 幕府開府当時15万人程度だった江戸の人口は18世紀初頭には人口が100万人を超え、大江戸八百八町といわれる当時世界一の大都市へと発展を遂げた。
 明和9(1772)年と文化3(1806)年の大火でも市街の大半が焼失する大損害が出たが、その都度急速な復旧が行なわれた。
 幕末になると政局の中心は京都に移り、特に最後の将軍徳川慶喜は京都で将軍宣下を受けた後、在任中一度も江戸に戻らなかった。
 慶応3(1867)年12月、薩摩藩の謀略による放火や略奪が横行し、市中の治安が急速に悪化したため、市中警護に当たる庄内藩兵が薩摩藩邸を焼き討ち、これが翌年1月の鳥羽伏見の戦の直接の契機となった。
 慶応4(1868)年4月11日、江戸城は新政府軍に明け渡され、上野に拠った彰義隊も5月15日に撃滅されて、江戸は新政府の支配下に置かれる事となった。
 そして、明治元(1868)年7月17日、『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』が発せられ、同年10月13日、明治天皇が江戸城に入城して東京城と改称、明治天皇は一旦京都に戻ったものの、明治2(1869)年3月28日に再び東京城に入り、ここに滞在するため東京城を「皇城」と称する事とされた。この時、太政官も東京に移され、以後、天皇は東京府東京市を拠点に活動する事になったが、正式の遷都宣言はなされないままとなった。
 明治21(1888)年に皇城に明治宮殿が完成し、以後、「宮城」と称される事となった。
 大正12(1923)年の関東大震災で市街は壊滅、10万人以上の死者が出る惨事となった。内務大臣兼帝都復興院総裁後藤新平子爵は、この機に道路拡張・区画整理等の大規模な都市改造を計画したが、政争や予算不足によって不徹底なものと終わった。
 大東亜戦争中の昭和18(1943)年に東京府が東京都と改められ、東京市が廃止されて23特別区が設置された。
 昭和20(1945)年に入るとアメリカ軍による無差別空襲が相次ぎ、特に3月10日の大空襲では一夜にして10万人以上の民間人が殺戮された。
 同年10月2日から昭和27(1952)年4月28日にかけて、皇城を見下ろす丸の内の第一生命館にGHQ総司令部が設置された。
 この間、昭和23(1948)年に皇城は皇居と改称され、また昭和25(1950)年)には、東京都を日本の新しい首都とする事を明確に定めた首都建設法が制定され、漸く東京が日本の首都である事が法律上明文化された。
 なお、首都建設法は昭和31(1956)年に廃止され、首都圏整備法に継承された。

☆小石川後楽園 
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☆六義園
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☆旧浜離宮庭園
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*旧芝離宮庭園
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+旧安田庭園
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*旧白金御料地
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*旧新橋停車場跡
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コメント(27)

3日土曜日に江戸東京博物館に行って来ました。

左;全景
中;徳川家康銅像
右;復元日本橋
左;北区静勝寺太田道灌坐像複製
中;芝東照宮徳川家康坐像複製
右;江戸城櫓鯱
左;日本橋ジオラマ
中;復元中村座
右;両国橋ジオラマ
左;明治初年の朝野新聞社社屋
中;浅草凌雲閣(十二階)模型
右;ボーイングB29フライングフォートレス12.7mm機関銃

特別展「大昆虫博」が開催中でした。

左;エラフスホソアカクワガタ
中;レテノールモルフォ
右;クビワオオツノカナブン
横網公園です。

左;東京都慰霊堂
中;東京大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
右;東京都復興記念館
左;東京スカイツリー
中;隅田川
右;両国パールホテル
江戸にかぎったことではありませんが、沿岸部の城下町と海岸線の関係をみると、かなり遠くなりましたね、海が。
新橋・横浜間の汽車は海岸を、そして埋め立てた築堤を走っていたようですが、そんな面影すらないですねえ。

江戸の人口が100万人をこえたころ、京大坂あわせて100万人規模であったとする推計がありますが、どんどんと引き離されるばかりですね。
ブルースカイ様
 江戸の場合、家康の時代から入江を埋め立て、幕末にはお台場を造ったりもしてましたので自然の海岸線は早くから少なくなってしまってましたねえ。それでも隅田川の屋形船がお台場沖まで赴くなど、大阪よりは海を大切にしている感があります。
 大阪は横浜にも抜かれて久しいですが、この調子だと名古屋にも抜かれちゃうかもしれませんなあ。
 7月30日金曜日に上野公園に行って来ました。
 公園内の銅像です。

左;西郷隆盛陸軍大将(1828〜77)
中;陸軍元帥小松宮彰仁親王(1846〜1903)
右;野口英世博士(1876〜1928)
天台宗関東総本山東叡山寛永寺円頓院の伽藍です。

左;旧本坊表門(黒門)〔重要文化財〕
中;五重塔〔重要文化財〕
右;清水観音堂〔重要文化財〕
同じく寛永寺伽藍です。

左;本坊
中;根本中堂
右;開山堂
上野東照宮〔府社〕祭神;徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜

拝殿・本殿〔重要文化財〕は工事中でした。

左;石造明神鳥居〔重要文化財〕
中;銅燈篭〔重要文化財〕
右;唐門〔重要文化財〕
左;彰義隊墓
中;彰義隊顕彰碑
右;五條天神社社務所 何故か城郭風建築です。
東京国立博物館です。

左;鳥取藩江戸屋敷表門〔重要文化財〕
中;本館〔重要文化財〕
右;表慶館〔重要文化財〕
2月下旬に仙台城、白石城を訪ねたあと、復路道中を常陸国まわりで江戸城に登城。
はじめての江戸城でした。
ところどころに建造物が残っていますが、もっと往時をしのぶ建物などを復元してほしいです。
いよいよ天守台へ・・・
天守閣があったらどんなにすばらしいことか。
太陽が西に傾きかけたころ、江戸城を辞するときが・・・
北桔橋門から城外へ。
江戸城の城門も大震災で被害を受けたようですね。
往時からみれば、経年による老朽化があるんでしょうねえ。

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