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彦根藩主(井伊家各藩の物語)コミュの四代藩主・井伊直興

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明暦2(1656)年〜享保2(1717)年

井伊直時(直縄)の長男
母は側室・桜居氏


直興の父・直時は二代藩主・直孝の四男でした。普通なら井伊家の相続権は直孝の嫡男・直滋が引き継ぐ筈でしたが万治2(1659)年に直滋が急に百済寺で出家してしまったために、井伊家は新しい後継ぎを決める必要性に迫られていたのです。
この時、直孝の脳裏に浮かぶべき人物が直時だったのです、しかし直時は直滋が出家する前の年に病没していて直孝の後は、直孝の五男・直澄が継ぐ事となったのでした。

直孝はそんな直澄に遺言を残して亡くなります。
その遺言には、
“直澄が妻を娶る事を禁止”
“次の藩主は直時の嫡男・吉十郎(直興)に継がせる事”
“万が一直澄に男子が誕生しても3万石を与えて家臣にする事”
などが記されていたのでした。こうして直興は4歳で祖父の遺言によって四代藩主の座が約束されたのです。

延宝4(1676)年、直澄死去により21歳で家督を相続します、この年に彦根入りを果たした直興は内堀の外に下屋敷・槻御殿(後の玄宮楽々園)の普請を開始しました。


幕府では四代・徳川家綱が亡くなり、五代・綱吉が将軍に就任すると、直興は綱吉に気に入られたようでその信頼を受けます。
将軍代替わりで将軍宣下の返礼の使者を務めて京都上使の大役を勤め上げたり、日光山御宮修復総奉行にも任命されたのです。
この時の日光東照宮の修復は、江戸期を通して最大規模の普請となるもので、直興自身も9ヶ月余りも日光に滞在したほどでした。

この普請では、領内・甲良町出身で幕府お抱え大工棟梁・甲良宗賀(こうら・むねのり)と宗員(むねかず)と共に延べ3年間に及ぶ東照宮の大改修となりそれを成功させたのです。
ちなみに日光東照宮建造の時は、甲良町出身の藤堂高虎が奉行となり同地出身の甲良宗広が大棟梁となりました(この関係で甲良町と日光市は姉妹都市の盟約を結んでいます)。

そして、この時に培ったノウハウを元にして、元禄8(1696)年に彦根城の東北に建てられたのが長寿院でした。東北という方向は平安時代から災いの入り込む鬼門として恐れられていた場所で、彦根城から見ると、佐和山城址を含むその辺りに鬼門避けの寺院を建立する事は大きな目標の一つだったといっても過言ではないくらいだったのです。
建築には日光東照宮と同じ権現造になっていて、「彦根日光」とも呼ばれています、この事から、甲良大工が建築に携わったと考えられていて、多くのガイドブックにもそう紹介されていますが、実は彦根藩のお抱え大工によって建立された建物なんですよ。
また、当時は松原内湖の湖畔にあった事から水の神様である弁財天が祀られていて、日本三弁天の1つに挙げられ“大洞弁財天”という俗称の方が有名になっています。

ちなみに、直興の「領民全てが弁天様のご加護があるように」という願いから。建築に掛る費用の一部は領内に住む領民全てから1文ずつ集めました。この時の人数が259526名。その名簿が整理され今にも伝わっていて、当時の彦根藩を知る上での重要な資料となっているんですよ。


また綱吉の治世に大老に就任しています。
この大老就任については、綱吉の寵愛を受けた側近として有名な・柳沢吉保(後に大老格まで出世)との間に政治的なやり取りがあったとも思われていますが、詳細ははっきり知りません。


藩内では、下屋敷・大洞弁財天以外にも松原港・長曽根港などの建造に力を注ぎ、彦根藩の文化推進と経済発展に力を注いだのです。
そして、後に井伊家の重要な資料の一つとなる『侍中由緒帳』によって家臣の管理体制も確立しました。


こうした大活躍を果たした直興ですが、有名な浅野内匠頭の江戸城松之廊下刃傷事件が起きる9日前の元禄14年3月5日に46歳で八男・直通に家督を譲って“直治”と改名し、何処にでもある藩主としての一生を終えるはずだったのです。
しかし、五代藩主・直通と六代藩主・直恒(十男)が早死にしてしまった為に、次の藩主となる息子が成長するまでという事で55歳で新たに“直該”と改名して再び藩主に就任し、六代将軍・家宣と七代将軍・家継の治世にかけて大老にも就任したのでした。


59歳で十三男・直惟に藩主の座を譲り再び“直興”と改名して隠居。
62歳で他界したのです。
生涯において2度も藩主に就任し、江戸期を通してたった一人の2度大老を経験したという忙しい人生というか、稀な人生を送った直興は、直政・直孝に続く名君として謳われています。

コメント(2)

足利将軍、徳川将軍然り、各大名家や色々な処の4代目は、可もなく不可もなくという人達が多い中、井伊家の4代目はさすがですね。善政=名君として云われる人が多い中、必ず裏が有る人も居るのに、直興にはそういう謂れが無いですね。まさに名君中の名君ですね。直孝の先見の明もさることながら、直澄の律儀さもすごいと思います。
よしさん、井伊家の事にかなり興味が沸いてきました。本当にありがとうございます。
>ぴすけさん
直興は彦根藩井伊家の四代目ですが、井伊家全てから見ると二十七代続いた家の当主ですから、普通の四代目とはまた意味合いが変わるのかもしれませんね〜

それに、直孝の期待も直澄への感謝もあったと思いますし。
ただ、井伊家はこの後しばらく不運が続くので、それはこれからの当主の話の時においおい紹介していきますね。


井伊家のことに興味を持ってくださってとっても嬉しいです。

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