ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

新聞の将来コミュの新聞の誕生(第3弾)/新聞経営

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
明治初頭時代は、御用新聞が主流だったが、資本や官がバックでも、新聞は、普及しなかった。原因は、第2弾に書いたが、これを、打ち破ったのが

明治7年(1874年)の「日新真事詩」による民選議院設立建白書のスクープだった。この建白書は、かの板垣退助らによって左院に提出された。このスクープは、当然、掲載されれば、御用新聞としては、政府のご機嫌を損なう分けだが、新聞社としては、沈滞気味の経営の回復を図る意図があった。実際、これを、契機に各紙は、「独自」の取材(政府の上位下達の布告記事を軽視)による反政府的な情報や論説の掲載を競うようになる。民衆も発表ジャーナリズムから脱皮した「新聞」を歓迎し、購読者が増えた。
明治8年(1875年)反政府攻勢に手を焼いた政府は、新聞の保護育成策から弾圧策へと180度転回し、新聞紙条例を法規化し多数の記者や関連者を投獄し新聞発行を禁止した(昭和の第2次大戦と同じだね)これを打破したのが、各、政党による機関紙、いわゆる政党機関紙時代の到来である。今でも、この名残りの政党新聞があるよね。その代表というのが「自由新聞」(明治15年創刊(1890年))
には「政党ニ新聞ナキハ軍隊ニ武器ナキト一般ナリ」と明確に述べている。ところが、当時、政党は、大きく分けて自由党系と改進党系に分かれていたが、北海道官有物払い下げ問題を契機に、またまた、機関紙内への政府からの記者を狙ったアメ作戦が展開された。これにより、新聞社内での内ゲバが展開する(いずこも金は怖い)
各紙の論評は、バラバラでこうした動きは、読者離れに繋がっていき、廃刊が続出する。ちなみに、この政党機関紙には、現在も、その名が残る社がある。例えば「(郵便)「報知」」「読売新聞」。

次の第4弾は「大新聞」と「小新聞」。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

新聞の将来 更新情報

新聞の将来のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング