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和裁修行記コミュの和裁修行記

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仕立屋になるまで その一
この修行記は和裁士として33年経った記念?として以前ブログに掲載していたものを、改めて校正して書いたものです。

昭和49年3月23日、羽田空港から祖父母、友人に見送られ、初めて飛行機に乗り込み福岡空港に向けて飛び立った。和裁士になるために・・・。
家の家業、仕立屋、この仕事に就こうと思ったのは、高校2年の時でした。祖父が和裁士会の会長で、全国飛び回っており、男が修業している和裁所を何軒か捜して、話を切り出したのである。
「3代目として仕立屋をしないか?泉村屋を継がないか」でした。
当時、まだ進路も決めてなく、祖父の生活ぶりを見ていて、仕事とお弟子さんは黙っていても集まるし,
いつもおいしい物とお酒、旅行、羨ましいと思っていたので、あまり考えもせず決めてしまった。
不純な動機ですね。

コメント(17)

その二
高校の友人との卒業スキー旅行を、急遽キャンセルしてのあわただしい旅立ちでした。
飛行機は親子共々初めてで、離陸着陸の時は手に汗を握ったのを覚えてます。
福岡空港に到着すると、これからお世話になる和裁所の師匠が待っていた。
タクシーで和裁所に向いましたが、空港が都心に近いのに驚きました。
師匠に指を見られ、和裁に向いているとほめられ、なんだかうれしい気持ちに。
母と一緒に筑紫耶馬渓、太宰府天満宮へ案内され、夕食は春吉の料亭でご馳走になりました。
「今日は会長の孫として接待しました。」と師匠に釘を刺され、明日からは一弟子として扱われるなと肝に銘じました。
母は最終便で東京へ帰って行ったが、5年間離れて暮らすのに不思議と涙は出なかった。
母と別れた後、宿舎に(アパート)に連れていかれ先輩たちに紹介された。
最古参は5年目のIさん、そして京都で修業してここに移って来たTさん、同期は一月に入ったMさん、2週間前に入ったKさん。
Mさんはトヨタで車を造っていた。Kさんは紳士服縫製から転業。同期でも年も上でとけ込めるか心配でした。
案の定、東京者、会長の孫、そんなのがひょっこり来たので、やはりつやつけてと思われていたらしい。
買ったばかりのふかふかの布団は、なかなか寝付かれなかった。
翌日24日は、新入生歓迎会だった。男3人、女8人が入所し、女性は全員同い年でした。
昼から面倒見のいいT先輩と川端商店街に日用品を買いに、途中雨になったので先輩に雨宿りしようと言われ断れず、喫茶店に行くのかと思いきや、ストリップ劇場「ハリウッド」へ入店した。
白黒ショーなるものが始まっていました。
モロ見え(笑)いつのまにか、でべその所まで移動していた。
その四
3月25日からいよいよ修行開始。一台の場板に二人ずつ座り、先輩から片座禅の座り方を教わった。
指ぬきを中指につけ、細長いしんモスの生地で運針の練習。
針は四の四でちょっと長めです。
指ぬきから針がはずれたり、指先を一緒に縫い、血だらけ。
四の四とは、最初の四が絹針の意味で後は長さを表します。ちなみに木綿針は三になります。
運針のコツをつかむまで3日かかりました。
正座より片座禅のほうが楽ですが、一日中座りっぱなしだと、やはり股関節や膝が痛くなり、食事やトイレに行く時、
立ち上がれず、四つん這いになって歩いてました。
見習いの仕事は納品もあり、天神や博多駅のお得意様まで2時間の配達。息抜きで、途中でコーヒー飲んだりしてさぼってました。
はじめて布をもらい縫ったのが、袖口のかけまわし、手本を見たときは簡単に見えましたが、何度もやり直し、5分の仕事が一日かかりました。
この写真は袖口のかけまわしです。
角を直角にする所もありますが、わが家は少し斜めです。これだと袖口下が薄くなりすっきりします。
その五
袖口のかけまわしが、なんとか出来るようになったが、一日に2〜3枚しか出来なかった。
初めて大島の着物の袖をもらった。星のような点々があり、それを通さなさいといけない。
今考えると、なんでこんな難しい生地を・・・。たしかに熱で生地が詰まることは少ないが、地の目を追いかけるのが一苦労でした。
片袖を先輩が少しづつ縫いながら行程を教えてくれたけど、縫い終わるそばから頭から抜けていった。
袖は出来上がったが、案の定、星は曲がっていた。何度も解きやり直した。
その後着物の袖はしばらく縫わせてもらえず、運針に逆戻り、くやしかったね〜。
4月11日より縫製日誌をつけ始めた。その日誌があるためこの修行記が書けた。
6日〜10日まで、袴のたて縫い、とても堅く2〜3針以上進めず、無理をすると針が折れた。
指ぬきを突き抜けて針の頭が指に突き刺さったこともありました。
11日にもらった長襦袢の袖が柔らかすぎてかえって縫いにくかった。
袖に二寸の丸みがついていて、なんでこんな面倒な物をつけるのだろうと思った。まだ丸みのかわいらしさが解らなかったね。
一日一組の袖を、なんとか形にはできるようになり、15日からまた着物の袖になった。うれしかった。
着物の袖も一日一組出来るようになったが、紬が多かった。今現在その当時の袖を見てみたい。
その六
4月19日、留袖の袖がきた。「袖口のふきを少し太めに、止めを深めにすること。」と言われたがなんのこっちゃ?
言われるまま縫ったが、どこが違うの?と思った。留袖は裾のふきが太いので、袖口も太くしてバランスをとることであった。
袖口にぐしが入った、当然きれいには入らない。これができたら一人前と祖父に言われたのを思い出す、いまでも苦手である。

21日、山繭の袖、非常に難しい生地だった。付下げだったので柄は左前、右後と教わった。
出来上がりがきたなかった。師匠の奥さんに、この袖をくれた先輩が怒られた。「この人にはまだ早かよ!。」
落ち込んで、先輩と呑みに行った。

4月22日、男物の長襦袢の袖を縫った。今思えば、袖口は輪で縫わなくていい、振りもない、30分も
あればできるが、当時は出来上がりがどのような形なのかも知らないので手こずった。
袖付けの下の方を「人形」と言う、どうして?と思った。
そののち男物長襦袢一枚縫った時に、袖付けの止めを、裏は表より一分上を止めないと裏がつり表地が波打つ事を、
「人形が笑う」ということを教わった。
次の日は新入生紹介で、日本和裁士会福岡県支部の卒業式に参加した。
場所は青少年文化センター(現福岡県立福岡勤労青少年文化センターももちパレス)であった。

4月27日、男物の浴衣をもらった。午後6時半だった。
身丈 3尺9寸5分、身幅 前8寸、後8寸5分、かなり大きい人である。「くけ」という縫い方を教わった
袖口、褄下、裾などの三つ折りぐけ、脇のみみぐけ、それぞれのくけ目の大きさを変えることも。
衿付けが難しかった。特に衿肩まわりの衿のゆるめかた、目分量でする職人の教え方は経験でしか覚えられない
と思った。縫いあがったのは29日だった。なんでも最初は3日かかると、言われた通りになった。
最後の仕上げは、口で霧吹きをかけ寝押しをすることだった。今現在、口で霧を吹く職人はなかなかいない。
その七
5月に入り、毎日袖や浴衣、袴の素縫いばかり、袖は時間短縮が目標。
まだ8時間かかる、規定は1時間半。後ろを振り返らず縫ってしまえば、短縮できているが、やはり直しがでる。
口下、丸み、幅の違い等・・・・・。
袖には着物を縫う基本が凝縮されている。
袖口のかけ回しは、裏の素縫いの性質が違う生地同士の縫い、袖口は裾、口下は返し縫いやとじ方の練習、
躾は着物全体にかけるし、振りはみやつと同じ、とにかく袖をきれいに縫えるようになれば、着物もきれいに縫える。
と、師匠に言われ続け、6月18日、初めて着物を一枚もらえるまで毎日反復練習。
子供物の袷の着物だった。この事は次回に。

5月1日、給料日、先月は一週間で何も出来ない状態だったので、手取り3000円だった。
今月は何かしらの仕事は出来たと思っていたので、楽しみにしていた。手取り10000円。
考えてみれば、寮費、三食の食事代など最低賃金からさっ引けばこんなもん?妙に納得・・・・。
当時、銭湯が65円で毎日行けば2000円、たばこ100円が20個で2000円、週一の焼き鳥が4回で
6000円、これで給料はおしまい。一年ぐらい仕送りをもらっていた。
同期の女の子から映画「砂の器」に誘われたが、映画代がなく、泣く泣く断った。後で先輩から「せっかくデートに誘われたとに、
言えば貸してやったとよ」と言われた、惜しい事をした。
後日一人で見に行った。800円だった。
その八
6月になると、かがり帯がきた。冬仕立て、夏仕立て、共にかがりかたは一緒で一分間隔で一針づつ進む。
糸を長く針に通してかがると、糸がボロボロになり切れる。冬仕立ては、お太鼓の部分はすべてかがり、
夏仕立ては、お太鼓の先と元を5寸ぐらいかがり、間はかがらない。表になるほうは少しゆるめる。夏仕立てのほうが楽で好きだった。
東京の仕立屋さんは帯、コート、袴などはそれぞれ専門家がいるのでなかなか仕立てるチャンスがないが、
そもそも、仕立屋というのは布団、油単等、針で仕立てるものはすべて引き受けていたと、亡きじーさんは言っていた。
今の仕立屋は着物、長襦袢ができれば、よしである。羽織を縫ったことがない若い仕立屋もいる。

6月18日、初めて袷の着物をもらった。子供物で後幅7寸、前幅6寸、袖幅83等の寸法で7才の女の子用の着物だった。
当時先輩達は7年生が1人、5年生が1人、3年生が3人、2年生が3人で1年生より少なく、仕事量も増えてきたので、
効率よくさばくために、1年生の仕事を半年から1年先の内容でやっていた。恵まれた環境ではあった。
袖や表裏の素縫いは何度もやっていたが、まとめの作業は初めてで行程を覚えるだけで精一杯だった。
とくに褄は理屈が解らず、とんでもない悪妻になっていただろう。衿付けは即付けで針目も粗く、ゴロゴロした衿になった。
あの着物を着た少女も、今頃は40前、着物好きになっていてくれればと、この日誌をみて思った。
その九
7月に入り仕事場は熱気と湿気でむしむししていたが、暑がりの師匠の所だけクーラーの冷風が来ていた(笑)。
相変わらず毎日、袖、長襦袢、浴衣、そしてたまに袷の着物がちらほら。
初めてウールの着物をもらった、単衣の縫製の行程は知っていたが、ウールの性質までは知らなかった。
脇やおくみの縫い込みのくけ、特に揚げから肩にかけての曲がりを収めるため、耳を伸ばさなくてはならない。
せっかく伸ばしても一日寝押しをすると縮んでくるので、仕上げに出す前に、もう一度解いて伸ばしてくけなおす。
今現在のやり方なら、そんな事をしなくても収まるのに・・・。
技術というものはコロンブスの卵的な発想の転換が必要である。

7月19日、誕生日に先輩が呑みに連れて行ってくれた。19才の夏でした。

仕立ての善し悪しは、当時の腕ではよくわからなかったが、師匠から「どこが悪いのかがわかれば一歩前進だ」と言われ、上手な先輩の仕事を見せてもらい、勉強した。
腕を上げるには、真似から入らないと。
8月13日から盆休みに入り、初めての藪入り(古!)をした。仲のいい先輩が東京へ遊びに来たので、一緒に祖父に挨拶に行った。
当時、和裁士会の会長だった祖父に会った先輩は、少々あがっていたようだ。
後日、先輩が「幹部の先生達と話が出きるなんて」と言っていた。
その十
和裁業は、盆休みが終わると,年末へまっしぐらとなる。
毎日の仕事も、夏の涼しげな反物から、成人式用の振り袖、留袖、訪問着等が増え、冬物の準備入った。
ナショナルチェーン店が福岡にも出店し始め、和裁所も○松、やま○、それぞれ2店舗と取引が始まった。
同期の仲間の女の子が8人から4人に減ったが、仕事を覚えてきたので毎日出来上がりが増え、納品が山のようになった。
男はあいかわらず、のんびり仕事で師匠から怒られる毎日だった。
仕事の内容は長襦袢の間に、羽織が入り始め、衿付けの難しさが説明されてもなかなか理解出来なかった。
納品は我々が来る前は、女の子がタクシーで行っていた。先輩の男の弟子は2人居たが免許を持って居なっかたし、師匠の家族も免許保持者がいないので車がなかった。
ある日、師匠が車を取りに行くからついてこいと言い、博多区から東区までタクシーで行った。
そこは師匠の男2番弟子の仕事場で、入って行くなり師匠が「あーあれか。動くかいな?」とつぶやく。
B先輩が、「先生、これ、ただやけん乗ってよかですばい。」そんな事情も知らず、帰りは運転して帰って来た。
ダイハツフェローマックス、360cc、4人乗り、色は黄な(黄色)走行距離は忘れたが相当な車だった。この車に一年乗った。
遠乗りでは5人乗って唐津、佐賀にも行った。先代の三保が関親方も乗った事がある。車体が沈んだが、ポンコツなりによく走った。
その十二
3月から修業に入り、いろいろな仕事を覚えてくると、師匠からの格言?や和裁士会の事などがわかってきた。
格言その一 「下手な長糸、上手なまち針」
下手な長糸とは、下手な人ほど針に糸を余計に通し、絡ませてしまう。必要な分だけにしなさいということです。
上手なまち針は、まち針の打ち方ひとつで出来上がりが変わってしまう。急所に打てば何本もいらない。
電信柱のように何本も打てば、落ちて着物に入針の恐れもある。
格言その二 「半物は二度飯は食わせない」
羽織、コート等、着物の半分の長さの物は、朝飯食べたら一枚、昼飯食べたら一枚、晩飯食べたら一枚というように、二度目のご飯を食べる前には仕立て上げなさいと言う意味。
実際、師匠も先輩も、このおいしゃんでも実行してました。
その三 「針はハンドル、中指はエンジン、まち針は道しるべ」
針は、真っ直ぐでも曲線でも、ジグザクでも進む、それを押すのは中指で、押し加減で針目の大きさもスピードも変わる。
まち針は今で言う、カーナビ?違った所に打てばろくな仕事にならない。

和裁士会の事は、以前も書きましたが、当時じーさんが会長だったので、年に何回か博多に来たと時に和裁士会のことは耳に入りました。当然お小遣いも入りましたが・・・・。
和裁士会というのは、昭和28年、戦後ばらばらになった仕立屋さんを、もう一度連絡をとって、全国的な組織にし、内職というイメージから払拭し、社会的地位を確率しようと立ち上がった組織です。
その時に和裁士という称号ができました。それまでは和裁師、あるいは仕立屋でした。
和裁士は日本和裁士会に入会して、2回の講習会に出席し、会から認められた人に送られる称号です。
ですからよくネットで和裁士です、と書き込みがや名乗って居る人がいますが、勘違いをしている場合があります。
そのことについては、和裁士会がもっとPRしていかなくてはいけないことである。
その十三
年が明けて昭和50年、1月6日から仕事が始まった。
初仕事がウールの羽織、当時はウールのアンサンブルはかなり数があった。男物のウールには、化繊の裏がつき、コテの温度を注意しないとすぐ溶けた。
10日に中振り袖の裏をもらった。表は他の人が縫っているので、途中で取られないように急いで縫ったが、結局最後までいかなかった。悔しかったね〜。
22日にロビンさんの着物をもらう、ここの仕立て代は一番高く、縫わせる人も上手な人(丁寧な人)にしか渡してなかったがもらえたことでちょっと有頂天になった。それも2枚続けて・・・。
それと日限が必ず物も来るようになった。信用がついたのかな〜。
2月12日、袖付けのところに力布を付けた。ここではささべりと言っていたが、色々な呼び名がある。力布、猿股、ふんどし、閂。
和裁の用語も地方によって違うものがある。そでの下の部分を袖底とか袖下、衿先から褄までを褄下や衿下、後ろしか揚げをしないことを後ろ揚げ、繰越揚げ、和裁所によっても違うこともある。こういう用語も統一して編集した和裁の教科書、大変な苦労だったと思う。
一月二月はあっという間に過ぎ、三月は試験があった。一年生以外全員受験した。うちの和裁所が試験会場だったので、見学をしていた。時間内に縫い上げることの難しさを目のあたりにし、少し自信が無くなったのを覚えている。来年は受験生である。
その十四

4月になり、後輩が入ってきた。女子ばかり6人。
すみさん、えいちゃん、えっちゃん、やっちゃん、かずちゃん、あと一人はすぐ止めちゃったので名前に記憶がない。顔は覚えているが・・・。
仕事場の雰囲気がガラッと変わった。同期の子が6人も止めたあとで、寂しくなったのもあるが、元気な子が入ったので活気が出たようだ。
そして、なんと師匠に談判して、昼休みを獲得したのだ。先輩達もあっけにとられた。
この頃から、最低賃金が守られてきて、おいしゃんの給料も上がった。
上がったといっても、2万円ぐらい、3食、寮費、光熱費込みなのでこんなもんでしょう。
男5人で住んでいた職場近くのアパート、六畳と四畳半、キッチン、トイレ付き風呂なし。
帰りはいつも8時半頃、それから残業などしてました。ある日、階下の住人からうるさいと苦情が来た。
コテの音や足音等、下に響くのでなんとかしてくれと。師匠に相談したら、2軒長屋を捜してくれ即引っ越し。
ここも風呂なし。前のところより銭湯には近くなった。洗い場があったので、お金を出し合い、中古の洗濯機を買う。
今までの手洗いから比べると楽になりました。ここは八畳と六畳、ちょっと広くなったので、先輩がステレオを持ち込んだ。
テレビも白黒から小さいカラーテレビになった。少しずつだが、人並みの生活に近づいたような気がした。

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