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長田神社コミュの神社のあれこれ No.005

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「神幸祭(しんこうさい)にはいろんな形があるようですが、その意義を承りたい。」

 今日一般に神幸祭というのは、神社に常住せられる神様が氏子崇敬者の家々を見まわるために、その居住地とか特に縁のある地域に旅行なさることです。日程・順路・お乗物・供奉者の形などについては神社によりいろいろ違いますが、宿泊・休憩なさる場所を御旅所と称し、往かれることをご神幸・渡御(とぎょ)・おいで、帰られることをご還幸・還御・お帰りなどと申します。
 さて、このような意味の神幸祭が行なわれるようになったのは、社殿建築以後のことで、これは、それ以前に行なわれていた神迎え・神送りの行事が進化したものと言えます。もっとも、これでは判りにくいので、次にも少し詳しく説明いたしましょう。
 古代人の考えでは、神様は人間の要望に応じて神の世界(高天原など)から降り、山奥の清浄な岩石(磐座)(いわくら)とか、森の中のおごそかな樹木(神籬木)(ひもろぎ)などに宿られます。村人が神のご守護をいただくためにお祭りをしょうとする時には、先ず村里の清浄な場所で、しかも村民が集まるのに好都合な地点を選んで祭場とし、オハケなどを設けて十分設備を整えておき、それから、精進潔斎した当番の者が、磐座・神籬木の在る場所へ神迎えに行くのです。この時は神様のお乗物用として馬を連れて行くことも多かったようで、馬の背には神様の憑代(よりしろ)として榊・御幣・(ごへい)幼児などを載せたものでした。ところで、神様はお姿も見えずお声も出されない存在ですから、当番の者が磐座・神籬木の場所で一定の動作をするとか、馬がいななくとかによって、神様は憑代に移られたものと認めます。そこで村里へ神様をご案内して祭場に着き、憑代を神のお姿として一定期間お祭りします。かくてお祭りが済みますと、憑代を馬に載せて、元の磐座・神籬木のある所に行き神様をお送りするわけで、これが古代祭祀の一般的な形だったと考えられます。
 ところが文化の進展、わけても仏教文化の影響を受けて、いつしか(たぶん七八世紀頃)神様のためのお住居を建てるようになりました。これが今日の神社ですが、そうなると、磐座や神籬木の在る山奥や森の中は、建築に不便ですから、山の麓や森の入口などを選んで神殿を建てるようになり、また、その神殿に神が常住なさっているという観念が生じました。従って村里で神祭りをする場合には、磐座・神籬木からお迎えする必要はなく、神殿からお招きすればよいことになってきたのです。これは大きな変化です。そしてまた、お乗物が原始的な馬などから、文化的な神輿(みこし)(神殿内の神座である御帖台(みちようだい)から発達したものと言われ、平安中期から用いられる。)に変ったり、一時的な村里の祭場が、恒久的な御旅所になったりして、今日のような神幸祭が生まれたわけであります。
 さりながら、神祭りはしきたりを重んじますので、山村などでは、今も古代そのままの神迎え・神送りの神事を行なっている所もあり、都会の神幸祭の中にも古代のそうした神事のおもかげを残しているものもあります。
 後者の一例を挙げてみますと、京都の松尾大社では、毎年四月に神輿が十粁も離れた西七条御旅所に渡御され、三週間後に還御なさるのですが、その行列の先頭を勤めるのは榊御面(さかきごめん)というものです。これは男の面と女の面とを取付けた榊の大枝各一本を南区吉祥院の童児二人が捧持し、先ず本社の神前で面合(めんあ)わせの儀を行なってから社頭を出発、道中の要所要所でも面合わせを行いながら進むのです。榊御面が出なければ神輿を進めてはならない、という古来の伝えがあって、今も厳重に守られています。恐らくこれは、神殿を建てられたと伝える文武天皇大宝元年以前に、松尾山上部の磐座から村里の祭場に神を迎えた形式を踏襲しているものでありましょう。

河田晴夫氏の「神社神道の常識」より

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