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ゴスペルハウスコミュの「謙遜でも謙虚でもない低さ」2020.07.25

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ゴスペルハウスメッセージ2020.07.25
「謙遜でも謙虚でもない低さ」 詩篇138:1-8

ダビデによる。
1 心を尽くして 私はあなたに感謝をささげます。
 御使いたちの前で あなたをほめ歌います。
2 私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し 恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。
 あなたがご自分のすべての御名のゆえに あなたのみことばを高く上げられたからです。
3 私が呼んだその日に あなたは私に答え 私のたましいに力を与えて強くされました。
4 主よ 地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。
 彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。
5 彼らは主の道について歌うでしょう。
 主の栄光が大きいからです。
6 まことに 主は高くあられますが 低い者を顧みてくださいます。
 しかし高ぶる者を 遠くから見抜かれます。
7 私が苦しみの中を歩いても あなたは私を生かしてくださいます。
 私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし あなたの右の手が私を救ってくださいます。
8 主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。
 主よ あなたの恵みはとこしえにあります。
 あなたの御手のわざをやめないでください。

145篇まで続くダビデ詩篇の始まりが、この138篇です。。
ダビデによるなどと書かれていますが、ダビデ自身の作なのか、ダビデ的な歌なのか、ダビデ風な歌なのかは、不明です。
バビロン捕囚からの帰還後に歌われたものなので、その場でダビデが作ったり歌ったりしたものではありません。
感謝という言葉がたくさんあり、感謝の詩篇でもあるのですが、今週は、6節に注目して味わっていきたいと思います。
「まことに 主は高くあられますが 低い者を顧みてくださいます。
 しかし高ぶる者を 遠くから見抜かれます。」

謙遜とか、謙虚とか、へりくだるという言葉は、信仰生活で、いえ、それ以外でもよく聞く言葉ですね。
その意味の違いをわかるとこは大切だと思い、国語辞典で調べてみました。

【謙遜】自分の能力・価値などを低く評価すること。控えめに振る舞うこと。
【謙虚】ひかえめでつつましやかなさま。自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で人に接するさま。
【へりくだる】相手を敬って自分を低くする。謙遜する。
【卑下】自分を人より劣った者として扱うこと。へりくだること。謙遜すること。

謙遜、謙虚、へりくだる、すべて美徳です。
何も悪いことではありません。
あまり積極的に支持されない「卑下」という言葉が、謙遜やへりくだりと同義というのは、少し驚きましたが。

6節後半には、高ぶるという言葉もあります。
「低い者」に対応する言葉が「高い者」ではなく、「高ぶる者」なのです。
国語辞典で調べてみると、こうあります。

【高ぶる】えらそうに振る舞う。尊大な態度をとる。おごる。

高ぶるとは、本質が高くもないのに、高そうに振る舞うことです。
もちろん、人にも神様にも受け入れられない姿です。

聖書の示す低さ、この詩篇の示す低さは、謙遜や謙虚やへりくだりではありません。
それのどれとも違う、本当の「低さ」なのです。
謙遜も謙虚も、自身を(少しは)価値はあるが、それを低く評価(見積り)しているという意味です。
レベルで表すのも不適当かもしれませんが、自分はレベル3くらいと自覚していながら、「最低のレベル1なんです」と評価するのが、謙遜や謙虚です。

6節の「低い」の原語の直訳は、「失墜」です。
堕ちきっていること、本質自体が価値が無いことです。
もう、謙遜することも、謙虚でいることもできない状態です。
なぜなら、これ以上低く自分を評価することができないのですから。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)
この貧しさが、この低さです。
絶望的な貧しさ、絶望的な低さなのです。
謙遜や謙虚ではありません。
だから、天の御国はその人たちのものなのです。

表現する自分を本当の自分よりも低く見るというのが、謙遜や謙虚です。
それは、あなたの視線が、低くされたイメージのあなたへ向かっているということ。
つまり、あなたのまなざしは、下向きということです。

6節について、ルターはこう言いました。
「ここに描かれている神の姿は、いかに特徴的なことでしょうか。
神は見おろされるかたとして、まことの性質をわたしたちに知らせておられるのです。
神は見上げられることがありません。神の上にはなにもないからです。
神は横を見回すことができません。ご自分にならぶものはなにもないからです。
ですから、神はご自分の下を見おろされるだけです。
それゆえ、あなたの居る場所が、低く、いやしくなればなるほど、あなたをごらんになる神のまなざしは、いよいよ輝きます。」

あなたが謙遜していたら、謙虚でいたら、このまなざしは見ることができないのです。
第三者として見るだけで、味わうことができないのです。
なぜなら、あなたのまなざしは下向きで、神様のまなざしも下向きなので、あなたと神様の視線は合うことがありません。
あなたは、神様の愛を、その輝きを、他人事、知識として知るだけになってしまうのです。

聖書の望むものは、そうではありません。
知識としての会い、傍観者としての愛ではなく、受け手としての愛、当事者としての愛なのです。
ダビデの生涯は、まさに愛の受け手として、愛と赦しの当事者としての生涯でした。
ダビデは、様々な失敗をして、丼族にまで堕ちました。
そして神様を見上げて、見えげざるを得ない状況になって、そこに注がれる神様の愛のまなざしを受けたのです。

あなたは、事実、低いのです。
見下ろすものがなにもないくらいに。
あなたは、絶望的に低いのです。
死で償わなければならないくらいに。
そして事実、あなたは、死によって償われたのです。
イエスさまの十字架によって、あなたは贖われたのです。
弱いまま、低いまま、注がれた愛があるのです。

神様の愛の前に、謙遜も謙虚も、やめましょう。
謙遜でも謙虚でもない徹底的な低さのあなたに、注がれる大きな愛があるのだから。
この愛の当事者として生きましょう。

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