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ゴスペルハウスコミュの「当事者を生きる」2020.04.04

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ゴスペルハウスメッセージ 2020.04.04
「当事者を生きる」ルカ 23:33-43

33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

今週は、イエスさまの十字架の箇所から、恵みを分かち合いましょう。

「私たち」という言葉は、日本語で使う場合、その範囲と意味合いがかなり変化するものです。
たとえば、出身高校の野球部が甲子園に出場して勝ち進んだりすると、野球部出身でもないのに、自分のことのように自慢したくなります。
この場合、私たちという範囲は、直接には全く関係のない野球部にまで拡大します。
ところが、クラス全員で悪いことをして先生に叱られたときは、「だって・・・さんがやってたから」と言って、悪いことをしたグループと自分は関係がないという主張をしがちです。
この場合、私たちの範囲は、うんと狭くなります。

オリンピックなどの国際大会で日本の代表選手が優勝すると、自分までうれしくなります。
ところが、ミスなどでうまくいかなかった場合には、「・・選手がミスをした」と言って、選手を責めるのです。
他にも例はたくさんありますね。
つまり、栄誉・祝福を受けるときには私たちを拡大して自分が得をし、罰を受けるときには私たちを縮小して自分が罰せられないようにしてしまいがちなのです。

ユダヤ人や初期キリスト者が考える私たちの範囲は、現代の日本人ほどは変動が少なかったことでしょう。
なぜなら、ユダヤ人が「私たち」と使う場合、それは「イスラエル(ヤコブ)の子孫」という確固たる枠組みがあるからです。
「神の選民」という枠組みと言い換えてもいいでしょう。
また、初期キリスト者はその共同社会的な体制から、「私たち」という枠組みは理解しやすかったのです。

聖書には、「私たち」とか「あなたがた」といった複数形での言葉がたくさん書かれています。
しかしそれは、ユダヤ人や初期キリスト者を主な読み手として書かれたものです。
「私たち」の範囲が変動せず、責任も祝福もきちんと当事者感覚を持って読まれることが想定されているのです。

「イエスさまは、私たちの罪の身代わりに十字架で死にました。」
これはキリスト者ならだれでも知っていることでしょう。
ところが、現代の日本語で「私たちの罪」といった場合、「私の罪もそうだけど、多くの他人のもっと大きな罪も」というニュアンスが混ざってしまうのです。
「私の罪」ということが、薄められてしまうのです。
当事者としての自分が確認できなくなってしまうのです。

イエスさまの十字架を取り巻いていた人々がまさにそうでした。
「もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」(35節)と、指導者たちは言いました。
「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と兵士たちも。
あげくの果てに、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」(39節)と、イエスさまの隣で十字架につけられた男までが言いました。

誰も、自分に救いが必要であるということを感じなかったのです。
自分の罪と向き合えなかったのです。
罪の当事者としての自覚がなかったのです。

ただ一人、イエスさまと一緒に十字架につけられたもう一人の男だけが違っていました。
「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)
彼は自分が罪の当事者であることを知っていました。
それで、イエスさまを自分の救い主として受け入れたのです。

「そして私たちの罪は赦され、私たちは神様の子とされました。」
これもまた、キリスト者ならだれでも知っていることですね。
しかし、罪の当事者感覚が薄れている場合には、赦しも恵みも祝福も薄れてしまうのです。
誰かに罪をなすりつけた分、目減りしてしまうのです。
だから、力強い平安が得られなくなってしまうのです。

「イエスさまは、私たちの罪の身代わりに十字架で死にました。」と言うのはやめましょう。
「イエスさまは、私の罪の身代わりに十字架で死にました。」なのです。
あなたがたのためにイエスさまな十字架にかかったのではなく、あなたのためにかかったのです。
あなたがイエスさまを十字架で殺したのです。

罪の当事者としての自覚を持った男に、イエスさまは言いました。
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)
力強い、完全な平安の約束です。
罪の赦し、罪に対する勝利の宣言です。
そして、この約束と宣言は、あなたのものです。
イエスさまはあなたがたの救い主ではなく、あなたの救い主なのです。

あなたが、「私たち・あなたがた」を「私」として聖書を読むとき、神様の言葉があなたの人生に力強く働きます。
御言葉が、全く新しい光を放つのです。
あなたが罪と赦しの当事者となるとき、あなたの人生が変わります。
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

今日も、イエスさまの愛に対する当事者として、生きましょう。

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