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ゴスペルハウスコミュの「血みどろの愛・本物の愛」

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ゴスペルハウスメッセージ 2015.02.28
「血みどろの愛・本物の愛」 イザヤ書53:1-6 (レント03)

1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

イザヤ書第53章は、旧約聖書の中で、救い主を最もはっきりと預言する章と言われています。
では、ここで表されている救い主とは、どんな救い主なんでしょう。
驚くべきことに、それは、さげすまれている救い主なのです。
「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(2節)
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(3節)

この惨めな姿は、生活していく中で、私たち自身が受けるべき(受けてしまう)苦しみの姿です。
いやしを必要とする、傷ついた私たちの姿です。
また、苦しんでいるときの私たちの私たち自身への断罪でもあります。
「私は、誰がが見とれるような姿もなく、輝きもなく、誰かが慕うような見ばえもない。」
「私はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみ、人が顔をそむけるほどさげすまれ、誰も私を尊ばない。」

そして私たちはこう言うのです。
「彼(私)は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだ。」(4節)

救い主イエスさまは、私たちの受けるべき痛みをすべて背負って十字架に向かい、十字架にかかったのです。
なぜでしょう。
それは、すべての人(あなた)を、いやすためです。
すべての人(あなた)を、のろいから解放するためです。
あなたの心の傷への本当にいやしが、ここにあるのです。
それは、ホンワカ・のんびりではなく、血みどろ・傷だらけの愛です。
耳あたりのいい一時的なごまかしの安心感ではなく、永遠の本当の愛なのです。

このいやし、この愛は、あなたのものです。
これは、神様の御心(10節)であり、イエスさまの満足(11節)でもあります。
もちろん、私たちもうれしいことです。

ここで、たった1つだけ課題が残ります。
それは、あなたの選択です。
このいやしを自分自身のものとして受け取るか、関係ないとして受け取らないか、です。
もし、受け取らなかったら、一時的ないやしを求めてウロウロするか、あきらめて失望のうちに沈んでいくかになります。

あなたの前に提示された、血みどろの愛・本物の愛を、いま、受け取りましょう。

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