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ゴスペルハウスコミュの「石が叫びます---レント(6)---」

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ゴスペルハウスメッセージ 2014.04.12
「石が叫びます---レント(6)---」 ルカ 19:28-40

28 これらのことを話して後、イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。
29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
30 言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。
31 もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
32 使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。
33 彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。
34 弟子たちは、「主がお入用なのです。」と言った。
35 そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。
36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
39 するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。
40 イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

明日は、しゅろの日曜日です。
今週の聖書箇所は、その日曜日、イエスさまの、エルサレムへの最後の入城の場面です。
この場面は、4つの福音書すべてに記述されていますので、4つとも読めば、より立体的に理解できることでしょう。(参照:マタイ21:1〜、マルコ11:1〜、ヨハネ12:12〜)

今日はこの箇所から、ルカによる福音書に特有の次の言葉をキーにして、御言葉を開いていこうと思います。
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(40節)

しゅろの日曜日、エルサレムへの最後の入城において、イエスさまはロバの子に乗って入城します。
この当時、馬は戦争のときの王の乗り物であり、ロバは平和のときの王の乗り物でした。
イエスさまは、平和の王としての主張をもって、エルサレムに入城したのです。
旧約聖書:ゼカリヤ書9:9にこうあるとおりです。
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。」

「私は平和の王である」というイエスさまの無言のメッセージを、残念ながら、群集は理解できていませんでした。
それは、群集のイエスさまへの期待が、あまりに大きかったことにもよるでしょう。
ローマの植民地としての圧迫感、閉塞的な宗教指導者たちの支配、民衆は解放を熱望していました。

ですから、エフーを圧政からの解放の王(武力を通しての解放)として迎えたときのように、上着を道に敷きました。(参照:列王記下9:13)
150年前、マカベア家のシモンがイスラエルの敵を打ち破り、エルサレムへ凱旋したときのように、しゅろを使って歓喜して迎えました。(参照:旧約聖書外典マカバイ記上13:51)
また、38節にあるように、詩篇第118篇を引用してイエスさまを迎えました。
この言葉は、イスラエルの敵を粉砕する王を期待し、歓迎する叫びでした。

つまり、武力による解放を期待していたのです。
「さあ、イエスさま!俺たちのリーダーとして立ち上がってくれ!」
「みんなの力で、ローマを叩き潰し、神の国の再建のためのクーデターを!」
「神様の力で、イエスさまの奇蹟で、ローマからの解放を!」
「俺たちゃ、いつでも突進するぞ!」

こんな暴動直前の状態で、パリサイ人はイエスさまに言いました。
「先生。お弟子たちをしかってください。」(39節)
これにイエスさまが答えます。
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(40節)

さて、想像してください。
このときのイエスさまの顔は、どんな表情だったでしょう。
「困惑顔」「怒り顔」「諭し顔」「笑顔」・・・・・
私は、「笑顔」であったと確信しています。

石は生きていません。
石が叫ぶはずがありません。
そして、石は理解するはずもありません。
イエスさまはこう言いたいのです。
「石のように無理解であっても、石のようにかたくなな心であってもかまわない。
私は、その石(のような群集)のためにでさえ、十字架にかかる。」
イエスさまは、いやいやではなく、愛をもって石のような私たちを受け入れてくれるのです。

事実、この群集は、5日後には「イエスを殺せ」と叫んでいます。
イエスさまが、自分たちの希望するような武力行使をしなかったからです。
まさに、石のようなかたくなな心です。
石のような無理解です。
しかし、それをも受け入れる、イエスさまの愛がここにあります。
それは、押し付けがましい愛ではありません。
とてつもなく大きく、とてつもなく深い、ユニークな愛です。

次のことを忘れないでください。
「救いは私たちの信心から来るのではなく、イエスさまの十字架の愛から来る。」

石のように無理解で、石のようにかたくなな私たちのために、イエスさまの十字架の愛が注がれるのです。
これが救いです。これが福音です。
何かをしたから得られる報酬ではなく、一方的に与えられる恵みです。

石のように無理解のままでいいのです。
石のようにかたくななままでいいのです。
まずは、イエスさまの愛を受け入れましょう。
そのとき、イエスさまのユニークな、いのちがけの愛が、私たちに注がれるのです。
イエスさまの真っ赤な血潮を受けて、ただの石だった私たちは、真っ赤な石になります。
そう、真っ赤な宝石、ルビーになるのです。

ただの石から、神様の宝物の宝石へ、あなたは変えられるのです。
もう、あなたの人生は、「ただの人生」ではありません。
誰にでもできる人生ではなくなったのです。
あなたにしかできない人生が始まります。
誰にも変わることができない人生が始まります。
そう、「神様の大切な宝石としての人生」が始まるのです。

イエスさまの愛は、あまりにも大きく、あまりにも深い愛です。
石のように無理解な心では、とらえきれないかもしれません。
石のようにかたくなな心には、受け止めきれないかもしれません。
でも、イエスさまはその石のために、喜んでいのちを捨てたのです。
イエスさまの愛の血潮によって、あなたはもうただの石ではありません。
神様の宝物、すてきな宝石になるのです。

神様の宝石として、輝いて生きていきましょう。

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